向日葵
薮 透子
向日葵
天使を埋めているんだ。
背中を向けてしゃがみ込む彼は、砂の山を作っている。近くに置かれた木の板に目を落とせば、「唄羽」と書かれていた。唄羽なんて生徒がこの学校にいただろうかと頭を回すが、ピンと出てくる人はいなかった。そもそも彼と話している女生徒なんて見たことがない、──いやいや、待て。彼は今、何と言った?
──天使を、埋めた?
「は?」
呆気ない声が思ったより大きく出てしまい、遅いと分かっていても口元に手をやる。
「どういうこと?」
妹のことが可愛くて、天使と言っている人は見かけるので、そのことを言っているのだろうか。そんな考えが頭をよぎるが、彼はたしか一人っ子だ。じゃあ、飼っていたペットだろうか、いや、学校に埋めるなら学校で飼っていたウサギとかの方が可能性はあるかもしれない。……学校でウサギは飼われていないので、これも無しだ。
だったら、彼は何を天使だと言っているんだろう。
「天使って、唄羽っていう名前なの?」
「そうだよ」作った山の頂を二回叩いた後、彼は膝に手を付いて立ち上がる。
「先週だったかな。そこの道を歩いていたところを見つけたんだ。お腹が空いているみたいだったからポケットにあったりんごの飴をあげたんだけど、食べた瞬間に倒れちゃって。死んじゃった。多分、人間界の食べ物が体に悪かったんだろうね。とりあえずここの隅に隠していたんだけど、ずっとそのままにするわけも行かないから、埋めることにしたんだ。名前は、胸につけていた名札を見て知った」
彼は少し微笑み、問うてくる。
「ねえ、天使の再生方法って知ってる?」
「知らない」
そもそも、天使が本当に存在するのかも微妙だ。
「天使と一緒に、向日葵の種も埋めるんだ。そうしたら、天使の魂が向日葵に移って咲くらしい。ただ、毎日水をあげないと枯れちゃうし、花が咲くまで普通のひまわりの三倍かかる。そうして手間をかけて咲いた向日葵は枯れることがない。そこから更に半年毎日水をあげ続ければ、ある日天使になって現れるんだって」
向日葵が天使になる、──なんてファンタジーな話なのだろう。高校生にもなってそんな話に夢中になるほど、彼はまだ幼心を持っているようだ。
「それ、嘘だろ」
「どうしてそう思う?」
「だって、再生とか。そもそも天使が本当にいるのかも分からないだろ。天使だと思っているだけで、ただの女の子かもしれない。羽は生えてた?」
そう言うと、彼は顎に手を当てて首を傾げる。しばらく考えたのち、「たしかに」とぽつり呟く。
「羽は付いていなかった。生やしていたらばれるから隠しているのかなって思っていたから」一息ついて、「もし、埋めたのが天使じゃなかったら、ぼくはただの人殺しになってしまう。あと死体遺棄。ばれたらまずいね」
「まずいよ。というか、今頃親が行方不明届を出して、その子を探しているかも」
どうすればいいものかと悩んだ様子だったが、彼は口元を緩ませてこう言った。
「大丈夫、再生させればいいんだよ」
ぴんと立てた人差し指を、先ほど埋めた山に向ける。「普通の人間に効くか分からないけど、もしこれで再生できるのなら、唄羽は家に帰れるから、問題なしだね」
「大ありだよ。いなかった間何処にいたのか聞かれるだろうし、そうしたら君のことだってばれてしまう、殺してしまったことも埋めたこともばれる。うまく罪には問われなかったとしても、世間からどんな目で見られるようになるか。両親にだって迷惑が掛かるだろう」
「でも、いまさら唄羽を掘り返すわけにもいかない。素直に埋めたことを白状しても、罪に問われることは確定じゃないか。むしろ、そうすると再生できないわけだから、ただの人殺しだ。だったら、再生するのを待つ方が得策じゃない?」
「いやいや、再生が成功する保証がそもそもどこにある? お前が言ったのは、天使の再生方法だろう?」
「もしかしたら人間も再生できるかもしれない。天使を再生することができるんだ、人間だってできるかもしれない」
「もし方法があるとしても、天使と人間は別物なんだから、方法が違うかもしれない。この方法で本当に行けるのかって話だよ」
──何を言っているんだ。
再生するだとか、他の方法かもしれないだとか。死んだ人間を再生だなんて、現実的に考えて無理な話に決まっているのに。
「じゃあ、また調べ直して、人間を再生する方法を探すの? 僕は嫌だね。もう埋めちゃったんだから、掘り返すなら君がしてよ」
「なんで俺が。埋めたのはお前なんだから自分でやってよ」
「じゃあ僕はしない。僕はこのまま、唄羽が咲くのを待ってるから」
墓石代わりの木の板を突き刺し、彼はつかつかと去っていく。
どこか落ち着かない気持ちをどうすればいいか分からず、彼が立てた木の板を蹴り飛ばした。
彼との言い合いを忘れたころ、校舎裏に一輪の向日葵が咲いたらしい。
校庭裏にひっそりと、しかし見てくれと言わんばかりの大きな向日葵で、多くの生徒がそれを見ようと集まっている、と友人づてに聞いた。
彼が埋めたひまわりであることはすぐに察しがついた。だから見に行かなかった。
廊下ですれ違った彼が満足そうな笑みを浮かべていたのを見たが、無性に腹が立ったので声はかけなかった。
本当に再生するのなら、あと半年。
向日葵が半年後まで咲いているだろうか。夏が終われば腰を曲げ、花びらも種も散らして、そこに咲いていた痕跡さえいつか雪に埋もれてしまう。毎日水をあげ続けたとしても、枯れてしまうはずだ。
それとも、本当に再生するのなら枯れないというのだろうか。
正直に言って、あの後本当に天使を再生することができるのか調べてみた。インターネットのオカルトや都市伝説の掲示板を見たり、図書館で天使について書かれている書籍を読み漁ったり、見れるものはすべて目を通した。しかし、どれだけ探しても、彼が言った天使を再生する方法は出てこなかった。
では彼は、どこからその情報を手に入れたのだろうか。
彼の笑った横顔が目の前に浮かぶ。あとから気味が悪くなり、何かが這うように鳥肌が立った。それから、考えるのはやめた。
向日葵が咲いて一週間後、事件が起きた。向日葵が切り取られたのだ。
枯れている向日葵を切り落とすならまだしもと思うが、昨日まで綺麗に咲いていたのだからそれはないだろう。向日葵を見ることを楽しみにしていた生徒たちは、誰かがわざと切り取ったのだと噂した。
そんな話が広まる中で、また彼を見かけた。廊下ですれ違った彼が、どこかから聞こえてくるひまわりの話を聞いて、きゅっと口角を上げたのを見逃さなかった。
背筋を何かが走ったような心地悪さだ。それと同時に、こいつから話を聞かなければならない、という正義感に足を駆られ、気づいたときには彼を空き教室に連れ込んでいた。
「お前なんだろ」
扉の鍵を閉め、吐き捨てた。
「なにが?」
突き飛ばされて尻もちをついた彼は、見上げながら言う。随分と表情は柔らかい。
「向日葵だよ」一歩近づく。「切り落としたの、お前なんだろ」
彼は両手を床につくと、体を少し後ろに倒して楽な姿勢を取る。
そして、
「うん、そうだよ」
と、笑った。それはあまりにも軽かった。
「あんなに咲かせるって言っていたのに、なんで切り取ったんだよ。半年待てば再生するんだろう?」
「うん、するよ」
「再生させて、天使を殺した罪を隠すんだろう? お前自分でそう言っていただろ。なんで切り取ったんだよ。それじゃあ意味が無くなるんじゃないのか?」
「うん、意味ないね」
「なんで切り取ったんだ」
「なんでだと思う」
俺が話している間、彼はずっと少し笑っていた。それは、廊下で見たあの笑みと同じだ。だからこそ、余計に気味が悪い。
腹の底で何かが蠢く感覚が、口を動かせと挑発する。
「なんなんだ、さっきから。うん、うん、うんって。俺と話す気ある?」
「あるよ。久しぶりに話すね。ずっと僕のこと避けていたの?」
答えないでいると、彼はつづけた。「君が話しかけに来てくれなくて、寂しかったんだよ。僕と話してくれるのは先生か君くらいしかいないから。まあでも、向日葵がいてくれたからそんなことはなかったけれど。毎日毎日天使が現れるように水をあげて、少しずつ大きくなっていくのを観察していた。自由研究をしているみたいで楽しかったよ。君と話せない代わりに、隙間を向日葵で埋めていたんだ。向日葵はいい子だよ、僕の話をちゃんと聞いてくれる。いいねって笑ってくれるし、それは駄目だよって叱ってくれるんだ。友達がいたらこんな感じなんだろうなって思った。そしたら、天使のことより、向日葵が綺麗な花を咲かせてくれることだけが楽しみになった。花を育てるの初めてだからさ」
彼は流れるように立ち上がった。
「毎日水をあげたおかげで、大きくて綺麗な花を咲かせてくれた。君も知ってるよね、学校の皆が見に来るようになったんだ。ぼくが毎日水をあげたから、咲いてくれたんだよ。──正直、うざいよね」
窓から差す光が、彼の顔に影を作る。
「僕が育てたのに、何もしていない人がじろじろと僕の向日葵を見ていくんだよ。写真撮って、花に触れて、きゃっきゃって話す口から飛ぶ唾がかかるんだ。それで花が折れたらどうするつもりなんだろう」
はあ、と大きくため息を吐く。
「他の人に見られたくなかったんだ。僕のだから、僕が育てたんだから。切り取ってしまえば他の人はもう見れなくなる。部屋に飾れば、僕しか見れなくなる。──彼女はちゃんと、僕の部屋で咲いているよ」
じわじわと体を蝕まれるような感覚、とでも言えばいいのだろうか。
彼の口から出ているのは、嫉妬の塊だった。直接言葉にしなくとも滲み出る感情。初めに彼の気持ちを感じ取り、ゆっくりとそれが嫉妬だと理解する。
今まで彼から、これほど大きな感情が見えることは無かった。話しかけても、喜んでいるのか困っているのか分からない笑みを浮かべ、彼が好きなものの話を振っても声のトーンは上がらなかった。
それなのに、後から出てきた向日葵が受けたのは、俺に向けられたことのない笑みだった。
腹の底で煮えたぎっていたそれが、沸騰したように音を立て始める。火を止める人がいないそれはどんどんと温度を上げ、──瞬間、俺は彼の胸ぐらを掴んでいた。
「うるさいっ!!」
ぐっと彼の顔を近づける。
「うるさいうるさいうるさい!!」
彼の言葉が何度も頭をよぎる。それはまるで呪いのようだった。
「どうしたの?」
「お前なんかが、お前なんかが」
「それは僕のこと? それとも向日葵?」
「あの時、向日葵を掘り起こしていればっ──……!」
抑えられない腕を、勢いのまま彼の顔にぶつける。鈍い音と、眼鏡が転がる音が教室に響いた。
ゆっくりと手に痛みが現れる。同時に赤く染まっていく彼の頬をじっと見つめるが、彼は微動だにしない。目元は前髪で隠れ、死んでいるようにも見えた。
自分の荒い呼吸だけが大きく聞こえる。吸い込むたびに、吐くたびに大きくなるそれと共に押し寄せる何かに押しつぶされそうだ。心臓を握られたように苦しい。肌から滲む汗が一粒となり、流れ落ちる。この汗は、いったい。
向日葵を掘り起こしていれば、彼が向日葵を咲かせることは無かったのだ。蹴り飛ばすだけに留まったのは、どうせ、と彼を甘く見ていたからかもしれない。掘り起こし、種だけでも取り除いていれば、今、こんな気持ちに苛まれることはありえなかった。害悪は芽が出る前に取り除かなければならない、と身をもって教えられたようだ。
話しかけ続ければ心を開いてくれるだなんて、誰が言ったのだろう。
心の隅に住まうそれが、期待させていた。いつか、いつかそうなるからと。だから今は苦笑いを向けられても大丈夫だった。
天使を埋める彼の表情がいつもより柔らかかった時、──校庭裏で声を掛けても苦笑いしなかった時、ようやくその時が来たんだと思った。誰かが言った言葉の通りになるんだと。
彼が笑っていたのは、向日葵があったから。
その時心の内を占めたのは、ただただ憎しみだった。どこから湧き出たのかも分からない黒いものが煮えたぎっていく。溝に捨てることもできないそれを抱えているときは、好物を食べても満たされないし、体を思い切り動かしてもすっきりしなかった。まるで、腹に住む黒色が快楽を飲み込んでいるかのよう。
何をしても収まらない黒が、今、腹で暴れている。ぐつぐつと音を立てて沸き上がり、今にも口から出てきそうだ。いや、もしかしたらもう出てきているかもしれない。口角からそれを溢しながら、彼を殴ってしまったのだろうか。
「そうか」死んでいた彼が言う。「そうならそうと早く言ってくれればよかったのに」
「何がだよ」
「僕はエスパーじゃないから、言ってくれないと分からないんだよ」
「当たり前だろう。心が読まれるだなんて堪ったものじゃない」
「そうだね。でも、僕は君のことが分かった」
真っ直ぐな目が見つめてきている。
「解決方法がある。──君も向日葵になるんだ」
「は?」
「僕の部屋には、再生しそこなったあの向日葵がある。今は水に浸けているだけなんだけど、全然枯れないんだ。花びらも黒ずんでいないし、茎もピンとしている。唄羽の魂が入っちゃってるからかな、死なないんだよ」
優しい口調で、彼は続ける。
「君も唄羽と同じように向日葵になればいいんだよ。そうすれば、ずっと僕の部屋に居られる。僕も、ずっと君の近くに居られる」
そう言いながら、彼は俺の首に手を伸ばした。指先が肌を這った瞬間、それを叩く。
彼は柔らかい笑みを浮かべていた。これまで一度も向けられたことのない、淡い光を放つ笑み。しかし、その水彩絵の具のような淡白さが、彼の奥にある黒いものを色濃く見せた。腹の中にあるものとは異なるそれに吸い込まれまいと、必死に奥歯を噛む。
腹の中の黒が対抗する。このまま圧倒されてはならないと。黒から目を離してはならない。逃げるものを逃がさまいと追いかける習性のあるクマと対峙するように、ゆっくりと動かなければならない。飲み込まれるな、そう黒が言っている。指先が何かに触れる。それを強く握りしめ、俺は彼の顔面をへこませた。
三か月という月日は案外短くて、その内に夏の気配は無くなってしまった。季節外れに咲く向日葵が人目を浴びれば、あの夏の日と同じように人が集まってくるだろう。
向日葵の茎に刃を立てる。それでも凛々しく伸びる向日葵の表情に、彼を思い浮かべてしまう。
軽く引けば、向日葵はごとりと落ちた。
向日葵 薮 透子 @shosetu-kakuko
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