第103話 百六十一日目

 朝から食パンにキラービーの蜂蜜を塗って食べる。

 女王蟻の蜜が無くなったので、蜂蜜で代用できないか試したが、ダメだった。

 まるで物が違う。

 こう、五臓六腑に染み渡り、脳にがつんと来る衝撃が無いのだ。

 蜂蜜が悪い訳ではない。十分に美味いし、ギルドでも高値で買い取ってくれる。それでも、女王蟻の蜜は別格だった。あれ以上の物は存在しないと言ってしまえるほどに、素晴らしい物だったのだ。


 朝食も終わり、コーヒーブレイクをして家を出る。

 今日からダンジョンに再チャレンジするのだ。

 一カ月以上ダンジョンに潜っていない事もあり、今回は21階で慣らそうと思っている。

 久しぶりに防具服に袖を通し、上着を着て出発したのだが、ポストに封筒が入っていた。


《退去のお願い》


 不穏な文言を見て、封筒を開いて中身を確認する。

 何々と読み進んで行くと、どうやらこのアパートを取り壊すらしく、来年の三月までに退去してほしいそうだ。


 マジかよ、ここの家賃安くて良かったのにな。


 確かに古いアパートだが、駅からも徒歩十分と比較的近く、手頃な値段なので満足していたのに残念だ。

 確かに階段からも嫌な音がしており、老朽化によりあちこち悪くなっているのかも知れない。


 まあ仕方ないかと、明日にでも不動産屋に行く事にして、俺は駅に向かった。



 ダンジョンのある駅に到着すると、俺はショッピングモールを目指して歩く。

 以前の探索で装備の殆どを失ってしまい、とてもではないが潜れないのだ。

 いや、行けそうな気もするけど、あまり舐めて掛かると痛い目見そうな気がするから、やはり防具一式は欲しい。


 武器屋に到着すると、店主が「おう久しぶりだな死んだかと思ったぜ」と笑いながら声を掛けて来るので、俺も「アンタより先には死なんから安心しろ」と言っておいた。


「これを直せってのか?」


 店主が眉を顰めて見ているのは、砕けた魔鏡の鎧だ。

 正直、治せるとは思ってないが、それでも可能かどうかは確かめておきたかった。


 どうだ?と尋ねると、比較的損傷の少ない腕の部分なら可能らしく、料金は一千万円は掛かると言われてしまった。


 いや無理。そんな金無い。


 前回の探索で得た成果の殆どを、東風達の遺族に渡している。新島兄弟が使っていた槍や杖も同じだ。

 俺のここ最近の生活費は、ポッタクルーの試運転でホント株式会社から貰った報酬で成り立っていた。

 その金額は少なくはなかったが、それでも一千万円も出せるほどではない。


 どうにかなりませんかねーと猫撫で声でお願いすると、次やったら一億積まれてもやらんと言われてしまった。


 おまっ! いや何でもないです、はい。


 どうにか出来ないですか?

 靴を売ればいいって? いや神鳥の靴はちょっと……あっ魔鏡の鎧の下の事か。

 そうだ、使ってなかったんだ。


 思い出した俺は、収納空間から鎧下を取り出すとカウンターに置く。すると店主は首を横に振って、今履いている靴だと言う。

 どうやら売れと言っていたのは、神鳥の靴で間違いないようだ。


 待ってくれ、いくらなんでも神鳥の靴は嫌だ!

 この鎧下でどうにかなりませんかね?

 ……買取金額五百万円……流石にぼったくってね?

 適正価格? 鎧上下セットなら何千万はするが、下だけだとそんなもん?


 ……マジかよ。

 そんなに差が出るのか。

 嫌なら稼いで来いっつってもな、鎧も買わないといけないしな。因みに神鳥の靴は幾らで買い取ってくれるんだ?


 千五百万円。

 宝箱から出た時は二千万円と言われた記憶があるが、使い続けているせいで価値が下がったらしい。

 どうしようかと悩む。

 このまま価値が下がるよりは、いっそのこと売ってしまうのも手だが、神鳥の靴には愛着があり手放したくない。命を救われた事もあるし、何より使い勝手が良いのだ。任意で出し入れ可能な鉤爪は有効で、連続で二歩だけとはいえ、空中を駆けるのは切り札にもなる。


 因みに今回の軍資金は二百万円だ。予備費は取ってあるが、全て使っては生活に支障が出てしまう。

 それに、魔鏡の鎧の修復だけでなく、新たな防具も購入しないといけない。その値段も高くて、二百万円では足りそうもない。つまりは、どちらかは売らなければならないのだ。


 …………。


 悩んだ末に、俺は魔鏡の鎧下を手放して新しい防具を購入する事にした。

 元々、魔鏡の鎧は可能なら修復してもらおうといった考えだったので、使い勝手の良い神鳥の靴の方を持つべきだろうと判断した。

 修復可能な場所も腕の部分だけだったので、いっそ諦めるのも手ではあるが、魔法を反射する能力も魅力的だ。なので金が貯まれば、修復するのもありだとは思う。


 とりあえず、今は目先の探索のために装備を整えようと行動する。俺は店主に31階で使える防具はどの辺りか聞くと、ドスドスと移動する。するとそこには一千万円クラスの鎧やプロテクターがずらっと並んでいた。


 ……買えませんやん。


 高過ぎじゃないですかねと尋ねると、それが標準だと言う。仮に下は要らないとしても、八百万円は貰うそうだ。



 ……また来ます。


 俺は魔鏡の鎧下を回収して武器屋を出た。



 なんであんなに高いんだよ。

 前に30階まで使えると書いてた装備でも二百万円で揃えられたのに、それが五倍以上の値段になるなんておかしくないか。


 俺は不貞腐れたようにショッピングモールを出てダンジョンに向かう。

 装備は不屈の大剣と神鳥の靴だけだが、まあ何とかなるだろう。今回は21階に行くだけだし、いざとなれば11階で採掘しても良い。魔鉱石の買取金額が上がっているとも、酒飲みのおっさんが言ってたからな、そっちに行くのもありだ。


 俺はドスドスと進み、ダンジョンの前に到着する。


 そして足が動かなくなった。


 ……くそっ。


 脂汗が出てきて、体がこれ以上進むのを拒んでいた。


 ダンジョンに挑もうと決めたのに、心が進むのを拒否する。前を向いて歩き出そうにも、足が前に出てくれない。

 ダンジョンに向かう探索者達が横目で見て来るが、俺は動けないでいた。


 俺は近くのトイレに行くと、水道で顔を洗う。

 鏡に映る顔は、相変わらずでっぷりとしているが、顔色は青く悪くなっていた。

 ベンチに座って、前を通る探索者達を見送る。


 もう一度行こうと、俺は立ち上がりダンジョンに向かおうとする。

 そして、また同じように立ち止まってしまう。


 その場に止まり、何とか行けないかと活を入れるが、どうしても足は進まなかった。


 ダメだ帰ろう。


 今日は諦めて帰ろうかと逡巡していると、背後から俺を呼ぶ声が聞こえた。


「あれ、田中君?」


 声を掛けて来たのは、以前テントを貰った熊谷さんだ。


 あっ、どうもお久しぶりです。

 はい、元気元気、元気です。

 熊谷さん達はこれから探索ですか?

 そうなんですね、40階には行けそうなんですか?

 へー、大変そうですね。

 36階をどれだけ早く抜けるかが鍵なんですねー。

 いえいえ、俺なんてまだまだ。今日、一カ月ぶりに潜るんっすよ。リハビリがてら21階を探索しようかと思いまして。

 あっはい、では頑張って下さい。良い探索を。


 ポータルに乗って転移する熊谷さん達を見送る。

 さあ、俺はどうしようかなと悩もうとして、今いる場所に驚いた。そして乾いた笑いが出る。


 あれだけ四苦八苦していたのに、会話で気を逸らしただけでダンジョン内に入れてしまった。


 俺の葛藤はなんだったんだろうなと思いながら、ポータルの上に立つのだった。




 ダンジョン21階


 久しぶりのダンジョンである。

 最後に来た時よりも、人が増えているように感じるのは気のせいだろうか。

 薬草を採取している探索者やオークを相手に戦っている探索者、またオークを相手に防具の耐久テストをしている人達もいる。


 何とも懐かしい光景である。


 誰かに声を掛けられた気がして振り返る。

 そこには懐かしい顔があり、俺に笑いかけて来る。


 ああ、今戻ったよ。


 そいつは拳をグイッと出して来たので、俺もそれに合わせるように拳を突き出した。


 コツンと拳を合わせて挨拶をする。


 久しぶりだなと、これからも頼むと、そんな思いを込めて拳を合わせた。


 そして奴は深く腰を落として、腰を捻り、正拳突きを繰り出してくる。


 俺はふっと笑い、見事なまでに殴り飛ばされた。


 グヘッ!?


 防具が全く無い状態で食らった拳は、意識が飛びそうなほどに重く痛かった。てか、骨が折れてるなこれ。


 俺を殴り飛ばしたオークは、追撃とばかりに棍棒を持って襲い掛かって来る。


 俺は痛みを無視して立ち上がると、不屈の大剣を力強く握りしめる。そして、迫るオークを斬り裂いた。



 体に走る痛みと、命を断つ感触がダンジョンに戻って来たのだと改めて実感させられた。

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