第39話 休日1 ハルト実家に帰る(三十八日目)

 今日も朝から女王蟻の蜜が美味い。

 五臓六腑に染み渡るどころか、血液から細胞一つ一つまで浸透するように満ちていく。

 これぞ至高の一杯だ。

 その至高の蜜も残りが少なくなって来ていた。収納空間から取り出して残りの量を確認する。そこには2ℓのペットボトル一本と、同じ形のペットボトルに半分入っている。

 つまり、残り約3ℓ。

 まだ沢山あったはずだが、いつの間にか無くなっていた。せっかく炭酸割りなんかで誤魔化していたのに、ついつい飲み過ぎてしまうのだ。


 残り少なくなった女王蟻の蜜を寂しく眺めていると、突然スマホが鳴った。

 こんな朝から誰だろうと画面を見ると『父ちゃん』の文字が表示されていた。


 珍しいなと思い電話を取ると、一月振りの懐かしい声が聞こえて来た。


「もしもし、おはようハルト。すまんね、こんな朝から」


「おはよう、珍しいね電話掛けてくるの。何かあった?」


「ああ、実はな母さんが大変な事になってな」


「母ちゃんが!どうしたん、この前まで元気やったやん」


「それで聞きたい事があるんやけど。お前、この前荷物送ったやろ?あれ何入れたんだ?」


「何って、こっちの名産品とメンマくらいしか入れてないよ」


「…そうか。あとな、言ってなかったが母さん癌だったんだ」


「…は?癌?」


「そうだ。も…おっ…が…っ……帰って…」


「父ちゃん、声が途切れて聞こえん。とにかく帰ったらいいんやね?」


「た…む、駅……る」


「父ちゃん?父ちゃん!?」


 電話が切れた。

 父からの連絡が、まさか母の癌を告げるものだとは思わなかった。

 今日は一日のんびりと過ごすつもりだったが、急いで実家に帰る準備をしなくてはならなくなった。


 新幹線の切符は行ってから買えば良いか、着替えはあるだけ持って行こう、キャリーバッグはどこに直したか。


 一通り準備をして、キャリーバッグを引いて玄関で靴を履く。

 玄関に設置された姿見鏡に映る自分の太った姿にため息が出る。痩せるまで帰らないと決めていたが、事情が事情なだけに仕方がない。

 何か言われたらどうしよう。

 そうだ拳で語り合おう、そうしよう。

 そうして家を出た。



 新幹線に揺られること三時間、俺は生まれ故郷である町に帰って来ていた。


 変わらない風景。

 町に漂う匂いが、懐かしい過去を思い出させてくれる。

 駅の近くにはショッピングセンターがあり、学校の帰りに友達とよく買い食いしていた。

 ここに来ると、いつも昔を思い出してしまう。


 

 駅の前で、父が待っているのかと思いロータリーを見回してみるが、父のものと思しき車は見当たらなかった。

 最後のは聞き間違いだったのだろう。


 ならばとタクシーで帰ろうとタクシー乗り場に行くと、近くに顔見知りがいたので諦めた。

 この体だ。俺本人だと気付かれないかもしれないが、もし気付かれたら何を言われるか分かったものではない。出来るだけ知り合いとは会いたくないのだ。

 出会えば、拳で…。


 仕方なく、市営バスに乗って最寄りのバス停まで移動する。

 ここから歩いて15分は掛かる道を、キャリーバッグをゴロゴロさせながら移動する。

 夏の日差しが俺の体を焼いていく。

 ダンジョンに比べたら危険も無く楽なはずなのだが、如何せん暑さとゴロゴロと鳴る音が耳障りで、一層体力を奪っていくのだ。


 そして、実家を目の前にして俺は気付く。

 荷物、収納空間に入れときゃええやんと。


 今更なので、そのまま玄関の呼び鈴を鳴らした。


 誰も出て来ない。

 もう一度呼び鈴を鳴らすが、やはり誰も出て来なかった。


 もしかして、病院にいるのだろうか。

 母が癌を患っているのならば、入院していてもおかしくはない。駅に着いた時点で連絡しとけばよかったな。


 俺は急いで父に電話する。


「もしもし、今着いたんだけど、父ちゃん病院いるの?」


「いんや、駅前のショッピングセンター来てるよ」


「おい!母ちゃんはどうしたの⁉︎もしかして一人で病院いるのか?」


「タエちゃ…母さんなら一緒にいるから安心しろ」


「はあ!?何言ってんだよ父ちゃん。母ちゃん大丈夫なのか⁉︎」


「帰ったら説明するから、先家に上がって待っとけ。鍵なら前の所にある」


「…分かった。早く帰って来てよ」


「ああ、そうだ。タカトとハルカも呼んでるから来たら出迎えてやってくれ」


「兄ちゃんと姉ちゃんも来んのかよ。分かった上げとく」


 電話を切ると、近くの植木鉢の下を探り、家の鍵を取り出す。

 田中家では昔から鍵を植木鉢の下に置いている。

 偶に家出した従姉妹が勝手に入ったりしているが、父も母も特に気にしていなかった。兄がエロ本を公開されてブチギレていたが、今ではお嫁さんにしているのだから、羨ましい限りだ。

 あの頃は小学生で、コイツらマジで五月蝿いなと思っていたが、きっとあの頃からあの二人は出来てたんだろうなと今なら理解出来る。


 家の鍵を開けて中に入ると、我が家独特の匂いが広がり、幼い頃の思い出が蘇る。


 町の匂いに家の匂い。ここに着いてから思い出を刺激されてばかりだ。


 家の中は子供達が独立してから模様替えをしているが、それでも帰って来たのだと実感する。

 既に子供達の部屋は無くなっており、客間や父母の趣味部屋に作り替えられているが、リビングと壁に飾られた家族写真はそのままだった。


 ソファに座ると、これまでにないほど体が沈み、ぎちぎちとスプリングが頑張る音が聞こえる。

 懐かしいな、昔はこのソファで跳ねて遊んだものだ。

 今でも出来るだろうか。

 やってみたいな。

 やろうかな。


 …。


 ソファが壊れていた。

 長い間使っていたから寿命だったんだろう。

 俺が幼い頃から使っていたんだ。そろそろ楽になりたかったんだろうな。


 そうだ。今、懐が潤ってるから新しいソファをプレゼントしてあげよう。親孝行は大事だよな。腰に優しいソファを用意すれば喜んでくれるはずだ。


 うん、まあ、取り敢えず、言い訳を考えておくか。



 冷蔵庫に入っているアイスコーヒーを取り出して、コップに注いで一息つく。

 クーラーの風が涼しく体を冷やしてくれる。

 アイスコーヒーを飲んで体内から体を冷やす。

 ダブルで体を冷やす至高のひと時を満喫していると、玄関の開く音が聞こえた。


 姉ちゃんが来たのかなと、リビングで来るのを待つ。

 スキル空間把握の反応が女性だと教えてくれる。

 ついでに玄関で男性の反応もある。旦那さんを連れて来たのだろうか。


 扉が開かれリビングに一人の女性が入って来る。

 歳は二十代前半くらいだろうか。

 その女性は誰かに似ているような気がするが、俺の知る人ではなかった。

 だが、どこかで見たような気はする。

 それが、どこか思い出せない。


「あのー、どちら様でしょうか?」


 分からなかったので率直に尋ねる。

 分からなければ聞けば良い。基本的な事だ。


 女性は俺の存在に気がついたのか、酷く驚いている。


「え、あなたこそどちら様? 一体どうやって入って来たの?」


 女性は不思議そうにハルトを見ているが、警戒しているような素振りはない。

 そして、ハルトも女性の事を知らないが、何故か危険を感じる事はなかった。ダンジョンで培われた警戒感は働かず、ある種の信頼を女性に抱いていたのかもしれない。


「どうやって入ったも、ここ俺の実家なんだけど」


「何言ってんの?ここは私の家よ。間違えてない?」


「あんたこそ間違ってるんじゃないか、ここは俺の実家だ」


「あのねー、あなた学生でしょ。今回は見逃して上げるから早く出て行来なさい。警察呼ぶわよ」


 スマホを取り出して110番の準備をする女性。ハルトはそれを見て驚いた。110番に驚いたのではなく、スマホに付いたストラップに見覚えがあったからだ。


 そんな時、新たに人が入って来る。

 玄関にあった気配が、いつの間にかリビングまで移動しており、その人物を見て更に驚いた。


「どうしたんだタエちゃん。早く冷蔵庫入れないとアイス溶けるよ」


 父が、女性に気を遣いながら入って来たのだ。


「ちょっとジンさん、変な子が入って来てるのよ。ここ自分の家だって言って出て行かないのよ」


「何?…誰だ君は。強盗…には見えないな、一体何の用があって家に入ったんだ?」


 俺は全てを察した。

 母が癌を患って入院している間に、父が若い女を引っ掛けて家に住まわせているのだと。尊敬して威厳のある父が、こんな事するなんて信じたくはないが、今目の前で見せられている光景が全てを物語っていた。


「おい」


「なんだね?」


「父ちゃん何やってんだよ。母ちゃん病気なんだろ?あんた母ちゃん捨てる気かよ!なに若い女と遊んでんだよ!なめてんのか!?」


 突然の暴言に驚く父と女性。

 父は何かを察したらしく口を開く。


「…お前…ハルトか?」


「はっ息子の顔も忘れたのかよ。若い女と乳繰り合って頭もおかしくなったのか、これなら母ちゃんも別れて正解だな」


「ハルト落ち着け、父さんの話を聞いてほしい」


「何を聞くんだ?母ちゃんと別れて、別の女と生きて行きますってか?とことんふざけてるな」


 不貞腐れて鼻で笑ってやると、その態度が気に入らなかったのか、女性がハルトの正面まで来て睨み付けてくる。

 そして女性の手がハルトと頬を打ち付けた。


「ハルト、父さんに謝りなさい」


「…は?何であんたに言われなきゃいけないんだ。部外者が首突っ込むなよ」


 自分の男が馬鹿にされて怒ったのだろうが、関係のない奴が家族の話に割り込むのは不快でしかない。だが、女性は馬鹿にしたように笑って言葉を続ける。


「何よ、貴方も分かってないじゃない」


「何がだよ?」


「ハルト、あなたの目の前にいるのが、あんたのお母ちゃんよ!」


「…は?」


 女性が何を言っているのか理解出来なかった。

 母は五十代後半のフクヨカな女性だ。年相応の見た目だし、父と並べば長年連れ添った夫婦だと分かるくらいだ。


 やはり女性の言っている事が理解出来ずに、まじまじと見る。


 確かに面影はある。


「あなた疑ってるね。私が貴方の産みの親のタエコよ!分かった!?」


 耳をほじるが、昨日掃除したばかりで綺麗だ。


 父を見ると、頷いて一言。


「本当だ」


「はあああーーー!?」


 俺の絶叫に家族写真が少しだけ傾いた。

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