59話 煮え滾る正義
砕けた床が勝手に直っていき、直り切った頃にはクリジアの姿も見えなくなっていた。残っているとは思っていなかったが、最低限あたしを信頼して先へ進んでくれたことに安堵する。
人の期待に応えることは昔から得意で、好きなことだ。少しばかり腹の立つ顔からの期待なのは癪だが、ここもしっかりと期待に応えさせてもらおうと武器を構える。
息が詰まる程の重苦しい怒気と沈黙の中に、ガリガリと硬いものに爪を立てて引っ掻く音が響く。
『クソったれガ……後悔は得意な方ダが、今日ほど後悔したのハ久々だナ』
以前に遭った時もそうだったが、今回もやはりヴォラクからは一切の魔力を感じない。ヴォラク自身もあの黒い泥は呪いであって魔法ではないと言っていたが、あの場でのハッタリや何かタネのある魔法と言うわけではなく、本当に呪いという名の魔法とは別の何からしい。
そして、呪いという呼び名に相応しい悍ましさを助長するようにヴォラクの周囲の泥は沸騰したようにゴボゴボと音を鳴らしている。神々しく光り輝いている塔の内部とは対照的な黒い泥がより不気味に映る気がした。
『へぇ、後悔が得意なんて随分後ろ向きね』
『腐る程重ね、飽きる程見てきたんでネ……色々あるのサ』
ヴォラクが泥を纏わせた杖を振るい、黒い泥が巨大な刃の形をとるようにしてあたしを目掛けて飛んでくる。床を斬り裂きながら飛んでいるのを見て受けることは諦め、横に跳んで避ける。飛んだ先に同じ攻撃が数発放たれ、咄嗟に氷の壁を作り出して身を守る。
泥の刃は深々と氷の壁に切り込みを入れ、数発であたしの氷壁を砕く。砕けた氷壁とそれを蝕むように纏わりつく黒い泥の影から、ヴォラクが杖を振り上げているのが微かに視界に入り、振り下ろされる杖を剣で受け止める。
『今もずっと後悔してルぜ。あの時お前の首を捩じ切っテ、お前の怒りも後悔も搾りカスになルまでお仲間殺しに使ってやりゃあ良かっタってなァ』
『素敵な後悔じゃない……なら今日でもう一つ後悔が増えるわよ。あたしに喧嘩なんか売るんじゃなかったって後悔がねっ!!』
受け止めた杖を振り払い、お互いに後退して少し距離をとる。以前の遭遇でヴォラクは膂力もそれなりにあるというのはわかっているので近接戦に持ち込めば勝てるという相手ではないことは理解している。
かと言って距離を取りすぎたり時間を与えすぎれば不可解な現象を押し付けられて苦しむのが目に見えている。それなら斬り結び続けていたほうが幾分かはマシというものだ。
樹木が絡み合ったようなヴォラクの異形の左腕がほどけ、無数の棘のようになってあたしへと襲い掛かってくる。刀身の氷の幅を広げ、身を守る盾のようにして棘を受け、刺さった棘を導火線代わりにしてそのままヴォラク本体を凍らせようと冷気を走らせる。
『ッチ。本当に見かけによらズ器用なもんダ』
ヴォラクは杖で凍り付いた腕だったものを斬り落とし、忌々し気に地面へと杖を突き立ててから空いた手で指を鳴らす。
『"
指の鳴る音と共に黒い泥が牙を剥き出しにした犬の頭のような形を成し、それが四方八方から飛び掛かってくる。攻撃としても厄介だが、その飛び掛かってくる頭のほとんどが並ではない苦痛を与えられているような声を出しながら襲い来るというのが見た目以上に嫌悪感を抱かせた。
犬の頭は避けても再びあたしへ喰らいつこうと現れ、狂ったようにあたしの周りを飛び続ける。いくつかの頭を斬り伏せてから術者であるヴォラクへと意識を戻すと、既に黒い泥が新たな形をとりつつあるのが目に映る。
『こんの……!厄介なもん二つも三つも同時に使おうとしてんじゃないわよ!』
正面に迫ってくる犬の頭の側面に裏拳を叩き込み、そのまま振り抜いて無理矢理に正面への突破口を開く。濡れた獣の毛皮のような、嫌な感触に若干顔を顰めつつも、そんな思いに今は構ってられないと思考を切り替える。
あたしの動きが想定外だったのかヴォラクの顔が一瞬驚愕に変わり、動きが止まったところに全力で大剣を振り下ろす。
『避けなくていいの……かしらっ!!』
咄嗟にあたしの剣を受けようとしたヴォラクの杖ごとヴォラクを床へ叩き伏せる。これだけ全力で振り下ろした一撃で杖が砕けなかったのは少しばかり予想外だが、できなかったものは仕方がないと切り替える。
叩き伏せたヴォラクへ追撃を考えた直後、背後から犬の頭が再び飛び掛かってくる。
『しつこいわねもう!』
犬の頭を斬り、凍らせて砕く。ヴォラクの方へすぐに振り向くが、足元から噴き出した黒い泥の手に掴まれそうになり慌てて飛び退く。
『ア?なんだヨ避けんのか……いヤ、だったらなんで触れたのになんともネェ……?』
怪訝そうな顔でヴォラクは少し悩んだ様子を見せた後、思考を払拭するように軽く頭を振ってから杖を構え直してあたしを見る。
『なによ、思ったよりあたしに興味津々だったりするのかしら』
『いいヤ。気にしても意味がなさそうダ。ああだこうだと考えズに普通に殺しちまえばいい話だしナ』
『あらそう。後で気になるって言ってももう教えないわよ骨頭』
『必要ネェよ人間。どうせ現世にゃ何一つ残りゃしねぇんダ』
ヴォラクの手の動きに合わせて黒い泥が噴き出し、それが異形を形どりながら変化していく。あたしが見たことがあるのは暴風を操る白い女性のような異形だったが、今目の前に作られているものは無数の手を重ね合わせたような気色の悪い怪物だ。
『"
怪物が形容し難い声で吼え、あたしへと無数の手を伸ばしてくる。あの見た目で掴んで終わりなんて話は絶対にないだろうと身構え、襲いかかってくる手を斬り、凍らせて掻い潜りながらヴォラクへとふたたび距離を詰める。
『泥遊びが随分上手ね!人に迷惑かけないように遊びなさいってママに言われなかった!?』
『ヒヒッ、近づけタのが随分嬉しいらしイな……図に乗るなヨ、人間』
鍔迫り合いの状態からヴォラクが大きく杖を振るい、あたしを弾き飛ばす。
よろけたあたしに手の雨が降り注ぎ、咄嗟に氷で傘を作るようにして身を守ったが、怪物の手が氷に触れた瞬間に灼熱の溶岩に変化する。
『なぁっ!?』
今更この熱量を冷やしきるのは不可能だとあたしは咄嗟に横っ飛びで突如現れた溶岩から脱する。衣類がいくらか焼け焦げはしたがこれで済んだのなら安い方だろう。
着地を考えずに転がったあたしにヴォラクが放った泥の刃が迫り、頭上からは再び怪物の手の雨が降る。
『じゃあナ人間。心配しなくてもお友達はあとから全員追ってくるサ』
泥の刃を弾き、無数の手から逃れようと剣を振るうが、さすがに捌き切ることができずに怪物の手があたしの腕を掴んだ。
『しまっ……!』
『ヒヒッ。ぐちゃぐちゃになりやがレ』
立て続けに無数の手があたしを包むように襲いかかってくる。殴りつけるわけではなく、掴み触れてくるといった調子だがそれでも薄気味が悪い。ただ、このまま握り潰されるとかだとかなり危なかったかもしれないが、幸いなことにそういったことはなさそうだ。
あたしは多少皮膚が剥がれるだとか服が破れるのは仕方ないだろうと割り切り、自分に触れている無数の手を半ば自分ごと凍らせて叩き砕いた。飛び散る氷の欠片と黒い泥の破片の雨の中、あり得ないものを見たような顔で固まったヴォラクと目があう。
『なんデ形を保ってル……!?触れたはずダ、確実に!!』
『ふん!あんな優しく触れられた程度じゃ怪我もしないわよ!』
『ハナっから握り潰すつもりじゃアねえんだヨ!一体何をどうやっテ……!』
『だったら尚更あの程度なんてことないわ!!』
ヴォラクの杖をかち上げるように大剣を振り上げ、空いた胴体に振り上げた大剣の重さと勢いを乗せた回転斬りを叩き込む。両断されないようにと黒い泥で防御したようだが、無傷で済まさせる気はさらさらない。そのまま大剣を振り抜き、上へ吹き飛んだヴォラクに氷魔法で追撃をしかける。
『"絶氷・風花"っ!』
巻き上がる冷気と氷雪がヴォラクの身体を捕え、吹き飛んでいくヴォラクを地面と繋ぎ止める。そのまま氷に閉じ込め、固まったヴォラクを目掛けて跳び、全力で大剣を振り下ろす。
『砕……けろォ!!』
氷の牢獄ごとヴォラクを半ば粉砕するように叩き斬り、ばらばらになったヴォラクの身体が砕けた氷と共に飛び散った。いくつかのヴォラクの破片は霧散し、頭らしき部分から身体の再生が始まっていく。
悪魔は出来るだけ大きく損傷させて回復に心臓部でもある核の魔力を割かせるのが良い。あたしの攻撃はそういう分野にはうってつけだ。人間相手にはやったことはないけれど、悪魔が相手なら遠慮も何も必要ない。
ヴォラクの身体が直りきる前にと冷気と氷の刃を飛ばして追撃を仕掛けるが、手の怪物が倒れ伏すようにして壁になり、あたしの攻撃を防いでから溶けるようにして崩壊する。
『ヒッヒッヒ、ムカつくなぁお前……調子に乗るんじゃネェぞ、人間風情がァ!!』
怒声が響き、それに呼応するように一気にヴォラクの周囲から黒い泥が噴き出した。それはそのままあたしの遥か頭上まで噴き上がり、自らの重さに従ってあたしへと降ってくる。
『"
聞こえてきたのは液状の泥とは違う確かな硬さと質量を持った塊の降る音。『ヒュルルル……』と独特な音を奏でながら、無数の塊が降ってくる。その一つが地面に落ちた瞬間に業火と黒煙を吐き出しながら爆ぜた。
魔法の気配は感じない。しかし、あたしはこの魔法らしきものを知っている。戦争を冠する悪魔の力。業火と黒煙を従える黒鉄、アンドラスと呼ばれた悪魔の持つ力。
『なんであいつがこれを……!』
容赦なく降り注ぐ黒鉄の種と咲き乱れる業火から身を守るために複数の層を重ねた氷の殻に身を隠す。視界は赤と黒に埋め尽くされ、いつ降り止むのかもわからない鉄の雨に怯え蹲るような姿勢のまま、焼き尽くされ吹き飛ばされないようにと氷の殻を保ち続ける。
爆発音が響く中、どれだけの時間が経ったかわからないが、周囲の音が消えた。その直後、あたしを包んでいた氷が染め上げられたように不気味で悍ましい黒で満ちる。
『手間ァかけさせやがっテ……どのツラ下げテ正義気取りダ?』
黒く染まった氷から、冷たく歪な杖が突き出ている。それはあたしの氷の殻を薄紙のように易々と貫き、そのままあたしの身体を貫いている。
『っぐ、あ……』
心臓を貫いているであろう杖を、ヴォラクは何度か軽く捻り、ニヤついた笑みでもなく、激情にかられた顔でもなく、ただ静かに憤怒を携えた表情であたしを見下ろした。
『お前ら人間は大人しク、お前ら自身ガ選んだ運命を享受していればいイ』
『ッたく面倒くセェ……王様に会って生きてんのかどうかは知らねェが、あの銀髪と悪魔も殺しに行くカ』
項垂れ、跪いたような姿勢のまま動かなくなった人間を見下ろし、侮蔑するように舌打ちを打ってからヴォラクは目の前の人間を貫いた杖を引き抜こうと力を入れる。
『……あ?抜けネェ……?』
怪訝そうに下ろした視線の先で映った光景は、間違いなく致命傷を負ったはずの人間が自身の杖を握っている姿。
ヴォラクの驚愕とほとんど同時に、サルジュが項垂れていた頭を上げ、握りしめた杖からヴォラクへと向けてバキバキという音を立てながら氷を走らせる。
『ハァ!?どうなってやがンだテメェはァ!!』
ヴォラクは叫びながら杖から手を放し、氷に呑み込まれる前に飛び退く。
あたしは身体に突き刺さった杖を無理矢理引き抜いて、手足が動くことを確認してから未だに驚愕の表情のままこちらを睨みつけているヴォラクへと向き直る。
『……幻覚の類でもネェ。ワタシは間違いなくお前の心臓に穴を空けてやっタはずだ……!』
『何が起きたのかわからないって顔ね。ま、あんたみたいに他を見下してそうな奴は足元見てないもんよね』
『足元も何モ、心臓に穴が空いて生きていられル人間なんざどこ見てモいねぇヨ。今のお前は何なんダ?』
『さぁね?あんたには何に見えるかしらっ!!』
引き抜いたヴォラクの杖を持ち主へ向けて投げつけ、それに追従するように距離を詰める。
心臓を貫かれたのは本当のことだ。身体にはしっかりと穴が空いている。それでも、今のあたしの身体は痛みの熱も、流れる血液も感じない。開いた穴からは微かに赤色が滲むだけ。これは、あの子がずっといた地獄。
風を切りながら飛んでいた杖はヴォラクに辿り着く前に溶けるように液化して飛散する。飛散した黒い泥は再びヴォラクの手の中で杖の形へと戻り、あたしの振るった大剣を受け止める。ギリギリと刃が擦れる音が鳴り、至近距離でヴォラクと目が合った。
『ヒヒッ!少なくとモ、まともな人間にハ見えねえナァ……!』
『あたしからも、あんたはまともに見えないわ。同じ……ねっ!』
足を踏み鳴らし、そこから氷雪を巻き起こす。視界を一瞬奪ってから、氷の刃をあえて砕き、ヴォラクとの鍔迫り合いから唐突に脱した。ヴォラクの杖は急に押し付けられていた力を失い、支えを失ったことで振り抜かれ空を切る。その隙にヴォラクの胴へ向けてあたしの武器の核、氷を纏わせる前の短剣で突きを放つ。
この短剣にはほとんど刃と呼べるものがない。そのため、ヴォラクを刺したのではなく突き飛ばしただけになる。この武器の刃はあくまで纏わせる氷。そして、その形は自由自在に変化する。
『お花見でもどう!?咲き狂え!"銀嶺六華"!!』
細い枝のような氷を伸ばし、それがヴォラクに突き刺さった瞬間に氷の大輪が咲く。爆発するかのように作られた氷の花はヴォラクを抉りながら吹き飛ばし、それを追うように氷の枝が伸びる。枝が触れた傍から氷の花が咲き乱れ、ヴォラクを呑み込むように満開の花を咲き誇りながら氷樹が育っていく。
『あんたの目的は知らないけど、あの子がやっと掴んだ道を壊そうなんて奴はなんだろうと許さないわ』
狂ったように咲き誇り、部屋の半分近くを埋め尽くした六華はその内に抱えたもの全てを静かに眠らせる。バラバラになって凍り付き、身動き一つとることができなくなったヴォラクは少なくともこの氷が砕けるまでは何もできない。
『許さないだァ……?』
何もできないはずだった。
氷の花が一瞬で黒く染まり、水に入れた氷のようにひび割れ、砕け散る。その中から現れたのは、圧倒的な怒気と悪意を練り合わせたような悪魔の姿。
マルバスにも引けを取らないのではないかと思えるほどの黒い激情に、あたしは無意識に後退る。
『……さっきかラ、自分が正しイ側のように話してルな』
ヴォラクの雰囲気が変わる。どす黒い怒気と憎悪に塗れた重圧。以前会った時にはこんな様子を見せたことはなかったし、こいつに対するイメージに若干噛み合わないような激情。
『あいつは今でモお前らが願った通リに悪魔のままダ』
黒い泥を纏わせたヴォラクの杖の一撃を受ける。氷の刃を黒い泥が蝕み、ヒビが入ったところでまずいと悟り鍔迫り合いから脱する。
『ヒヒッ、人間。ワタシは悪カ?』
無数の泥の手が伸び、その一つがあたしを掴むとそのまま引きずり回すようにしてからあたしを叩き伏せた。
『どこカの誰かから大切な誰かに理由を変えテ、それで割り切ったつもりらしイが、あの時お前が見捨てタ奴らから見たお前は正義カ?』
黒い泥の刃があたしを狙って飛ぶ。あたしは自分を掴んでいる泥の手を振り払い、ギリギリのところで泥の刃を避ける。
『お説教?あんたは随分お喋りが好きみたいね……!』
『自分こそが正義だと信じテ疑わねぇその目で悪を見タ時、心の底にあるものはなんダ?』
ヴォラクの杖とあたしの剣がぶつかり合う。あたしがヴォラクを見る目が、ヴォラクがあたしを見る目に映る。
そこに宿るものは、同じに見えた。
『そウ、怒りだ』
世界が終わると聞いた時、あたしはそれを許せないと思った。その時心の内にあったものは、確かに怒りの感情だった。
『あァ、よくわかる。そうダ。その気持ちは本当によクわかる。同じだからナ』
ヴォラクが杖で床を小突く。瞬間、黒い泥がまるで津波のようにあたしへと襲い掛かってくる。先程までの攻撃とは圧も、規模も何もかもが段違いだった。
『ヒッヒ!人間、知らねえようなら教えてやルよ!!"
咄嗟に氷雪の盾で身を守る。黒く蝕まれた様にして崩れていく氷雪を崩れる傍から新しく重ね続け、黒い泥の津波からなんとか身を守る。黒い泥の津波が引いたのとほとんど同時に、ヴォラクの杖があたしの鳩尾を狙い振るわれる。
『しまっ……』
咄嗟に防御に回した氷の刃を砕き、そのまま杖はあたしを捉える。振り抜いて吹き飛ばすのではなく、杖に引っ掛けるようにしてあたしごと振り回し、地面へと叩きつけた。叩きつけられた衝撃で肺の空気が抜け、短い悲鳴が鳴る。一瞬揺れた視界を覆うように、あたしの顔面にヴォラクの脚が降ってくる。
数度あたしの顔面を踏みつけてから、ヴォラクはあたしの身体に杖を何度か突き刺して怪訝そうな表情を浮かべた。
『……血も出ねェか。一滴もってワケじゃねえガ、少なすぎル。こんだけ穴開けりゃあ、今頃血溜りになってていい頃合いのはずダ』
ヴォラクが手を止めた隙に起き上がろうとしたが、それに気が付いたヴォラクがあたしを蹴り飛ばす。地面を軽く跳ねるように転がってから、背中に再び衝撃が襲い掛かり、あたしを地面に這い蹲らせるように抑え込んだ。
『ヒヒッ、こんだけやって動くんダ。手足を千切っテも蛆みたいに動くのカ?』
『この……!なめんな!!』
腕を斬り落とされそうになったところを、自分の下から氷柱を生やして自分ごとヴォラクを弾き飛ばし、無理矢理脱する。軽く転がってから体勢を立て直し、獲物に氷の刃を戻して構える。その拍子に、衣類の一部が千切れて肌が露出した。
『……身体に、文字?……そいつガ不死身の正体カ?』
『これは、願い事』
マルバスが守ったもの。あたしがマルバスに守ると約束したもの。ミリには腐敗と、もう一つの力がある。
字を刻んだものにその文字の性質を与える魔法。『字綴』と呼ばれたもう一つの魔女の性質。腐敗で死なず、マルバスとずっと一緒にいてもミリが平気だった理由。あの子の時を止め、命を止めた魔法。あたしはミリの札と同じ"不変"の文字を身体に刻んだ。
『あたしはその願い事を叶えるために、あんたら悪い悪魔をぶっ飛ばすのよ!』
『願いネェ。ヒヒヒッ!それが本当の死ぬ理由ってワケか。どの時代のどんな場所にモいるもんダ、正義病の狂人ガ』
命は歩みを止め、死も生も足踏みをするようにあたしに近づかなくなった。ヴォラクの呪いに触れても、心臓に穴が空いても、今からあたしはほとんど変わらない。かつてのミリと同じように、完全に生命として静止しているわけではないが、ほとんど動いている死体と差がない状態。それが今のあたしだ。
細かい理屈はあたしにはわからない。それでも、この力のおかげであたしはこの悪魔と戦えている。だったら、細かいことなんて考える必要はない。あたしは今、あたしの守りたいものの為に戦えるだけで良い。
『ふんっ、正義病で結構よ。あんたみたいに正義に見えないより断然良いわ!』
数回互いの得物をぶつけ合い、再び鍔迫り合いの状態となる。
ヴォラクの表情はほとんど常に張り付いていた不気味な微笑みではなく、ただ純粋な怒りを物語っている。
『世界が滅ぼされルのが許せねえカ?お友達やラ家族やらが殺されルのが憎いか?己の幸福や価値観を踏み躙られルのガ我慢ならなイか?不幸をもたらす事象の全てガ悪に見えルだろう?』
『ふんっ……!そんなの、当たり前でしょうが!!』
『そうダ。自分が正しイ側にある理由はいつだって自分の快不快さ』
ヴォラクが大きく杖を振るい、あたしの剣を打ち払う。体勢を崩したところに再び黒い泥が煮え立つような音を立てながら迫り、あたしは慌てて氷魔法をぶつけて泥の進行を食い止めた。
氷を不気味な音を立てながら蝕み染め上げていく黒い泥が、なんだか無性に恐ろしく、醜いものに見えて思わず顔を顰める。
『神様であルことを望まれタから神様の役割を果たした。与えられタものが手に負えなくなっテ、お前らが生んダ不幸の責任をお前らは再びあいつに押し付ケた』
正義の祈りの願望機と以前アレは名乗った。あたしの正義のイメージとは似ても似つかない目の前のそれは、それでもあたしのイメージの中の正義よりも明確な輪郭を持ってそこにある。
『私利私欲だけの塵屑に必死に寄り添っタあいつが悪で、ごめんなさいの一つも言えネえお前ラ人間が正義?』
黒が噴き出す。ドス黒い熱を携えた激情の泥。数多の黒い感情を自身の呪いの正体と語っていたが、目の前のこれはたった一つ、この悪魔の感情だと直感で理解できた。
『ヒッヒ!!ワタシが気に入らねえか!?ワタシも人間が気に入らねえさ!!正義に見えねえって?ワタシにはお前もワタシ自身も正義のミカタに見えるぜ!!』
ヴォラクが笑う。その目に宿っているのは、あたしがこの世界の運命とやらに対して抱いたものと同じで、それより深く黒いもの。
『だからワタシは、お前ら人間を許さねえ』
押し寄せる黒い泥を、憤怒に煮え立つ黒を避け、その元凶たるヴォラクへと斬りかかる。
『気に入らない奴のことを悪者って言ってんの!?とんだガキんちょじゃない!』
『ヒヒッ!そうサ、お前もそうだろウ!?"お前はどのツラさげて正義の顔をしてるんだ"って言ってみナ!スッキリするゼ、ワタシ達は全て!自分勝手な怒りをぶち撒ける塵だ!!』
数発打ち合い、距離を置くと同時にヴォラクの泥の手が伸びる。
『永劫の果てまで呪ってやると誓った!あの日、お前ら人間は自分の手で願いを穢した!!』
変幻自在の黒い泥があたしに襲いかかり、あたしの身体を容赦なく汚していく。何ヶ所かを物理的に削られ、ミリの力がなければ今頃とっくに動かなくなっているだろう。
『あいつが怒りすら捨てるなら、ワタシが拾ってやる!!ワタシがあいつの怒りになってやる!!あいつを悪だと言わせてたまるか!!』
『あんたにも事情があるのはわかったけど……!』
冷気を固めた刃を飛ばし、目の前の黒い泥を切り裂いてヴォラクを狙う。ヴォラクは意に介しすらしないと言わんばかりの様子で杖を振るい、あたしの冷気を弾き飛ばす。
杖を振り終えたその隙に攻撃を叩き込んでやろうと距離を詰め、大剣を振り抜くがヴォラクの腕を斬り飛ばすだけで終わる。
『ッチ、イカれた木偶人形風情ガ』
『あたしにも突き通したい我儘ってやつがあんのよ』
『知ったことかヨ。お互い何も知りやしねェんだかラな』
黒い泥と氷雪が交差する。
あたしの剣はヴォラクの胴を深く切りつけ、ヴォラクの杖があたしの左腕を切り飛ばす。痛みはないが、その光景に一瞬足が止まってしまった。
『あの日、ワタシの首を引き千切った奴らにどんな事情があったのかなんて知らねえ。ただワタシは許せねえだけだ』
ヴォラクの杖が再びあたしの心臓を貫く。そのまま杖にあたしを突き刺した状態で、黒い杖から泥が溢れ出し、あたしを捕らえた。
『ぐっ……!』
千切れた腕は咄嗟に凍らせて繋いだが、一度千切れた以上もう動かすことはできない。握っていた剣も手から滑り落ち、あたしは樹木に串刺しにされたような状態で固定される。
『死なねエ、変わラねえとは言うが、人の形残さナきゃ死んだのと変わらねえだロう』
ヴォラクが祈るように手を合わせる。その足元から噴き出したのは、泥とは異なる黒。
『"
命を憎み、蝕み喰らう黒。あたしはこの黒を知っている。あの子が何よりも好きな色。あの子を誰よりも愛した黒だと、あたしは知っている。
『なん……で……!これ、は……!!』
『なんだヨ、コレの知り合いカ?ヒヒッ、もうどうでモいいけどな』
黒い毒。マルバスの使っていたものと同じに見えるそれがヴォラクの足元から不気味に蠢きながら沸き上がり、あたしを突き刺した杖を伝うようにして這い上がってくる。
この世界に存在する命の全てを憎んでいる毒。あらゆるものを蝕み、後には何も残さない黒。これがマルバスのものと同じならば、魔法も命も関係なく喰い尽くしてしまうだろう。そうなれば、いくらミリの魔法を刻み込んだ今のあたしの身体でも耐えることはできない。
『ワタシに使えるんだ。やっぱり悪魔ってのはあいつの魔法じゃネェ。ワタシやお前らみたいな塵が抱ク呪詛。ただの呪いでしかなイ』
無数の黒い帯があたしを包む。『じゅう』という嫌な音が鳴ったと思うのとほとんど同時に、視界が全て黒で埋め尽くされた。
『あいつの願イは、もっと綺麗なものダ』
声が、聞こえた気がした。
──世話の焼ける友だ。お前に任せると伝えたはずだったが。
途切れた意識が再浮上する。視界は相変わらず黒のままだが、なにかを手で掴んでいる感覚がある。その感覚がするのが先程斬り飛ばされ、機能を失ったはずの左腕の方なことに気が付いたのはヴォラクの声が聞こえてからだった。
『ぐっ……あぁ!!この……!!いつマで生きてやがる……なんなんダその身体……!』
切り離されたあたしの腕が、黒い帯で繋がれてヴォラクの首まで伸びている。ミリの魔法もあるというのに、身体を内側から焼かれるような痛みを感じる。ただ、不思議とその痛みが激励か何かのように感じた。
ヴォラクの出した黒い帯とは別に、あたしの身体から生えた黒い帯。あの無愛想で、怖くて、あたしとは目を合わせる努力もしてくれなかった黒のっぽ。この世界の全てが嫌いで、自分の事も嫌いで、それでも誰かをずっと守って、守り抜いて見せた優しい毒。
『ふん……!本物と比べたら、あんたのモノマネなんかなんてこともないわね……!!』
あたしの左腕を覆うように生えた黒い帯がヴォラクの操る黒い帯を打ち破り、突き刺さった杖を溶かし壊す。あたしは落してしまった自分の武器を拾い、一つ息を吐いてからヴォラクを睨む。
左腕を引き、掴んでいたヴォラクを自分の方へと引き寄せる。
『クソっ!!どうなってやがル……!ありえねえだろウが……!なんなんだテメェは!!黒い毒は死んだはずだろうガ!!』
『誰が正義とか、何が正しいとか、あたしは確かにあんたのことも、世界がどうとかも何も知らないけど……』
ヴォラクから手を放し、千切れていたはずの左手を黒い帯で無理矢理繋ぎ直す。身体が動く理由はわからない。マルバスの力をどうやって使えているのかもわからない。今はもうそんなことはどうだっていい。
『友達のためなら!あたしは何にだってなってやるっ!!あたしにとっての正義なんてそれでいい!!そうでしょ、マルバス!!』
両手で武器を握り、大きく振りかぶる。刀身に氷雪と黒毒を纏わせ、自分の中に残る全てを込める。
『"
氷雪と黒毒が荒れ狂い、視界全てを埋め尽くす。その通り道の全てを凍てつかせ、蝕み壊す白い悪魔は黒い泥を一瞬のうちに塗り潰してヴォラクを呑み込み、部屋の半分を喰い尽くし、塔の壁に風穴を空けて消える。
後に残ったものは何もなく、黒い毒に蝕まれた塔の壁や床は二度と直り始める様子を見せなかった。
魔力もほとんど残っていない。身体はもはや自分でもどうなっているのかはわからない。激痛は絶えずあたしを襲い、心臓を貫かれても大した出血はなかったというのに唐突に大量の血を吐いてあたしは受け身を取ることも出来ずに床に倒れ伏す。
『ごめ、ん……助けに、行く元気……ないや……』
視界から色が抜けていく。身体の熱はこの身体になった時にはもうあまり感じなかったっけ。力が入らない、痛みももうよくわからなくなってきた。
マルバスは約束を守れたということにしてくれるだろうか。人間なりに頑張ってみたのだが、想像できたのは不機嫌そうな顔だけだった。まあ、彼が笑った顔をあたしに見せたことは一度もなかったのだから当然かと少しだけ笑う。
でも見てよ。ミリが笑うようになったのよ。今は本当に素敵な人たちのところにあの子はいるんだから。やっぱり、あんたはあたしに一回くらい、ありがとうって言うべきじゃない?
ねえ、ミリ。この先には楽しいことが沢山あるよ。美味しいもの、優しい人、素敵なものが世界には沢山あるの。あたしの好きなものも沢山あるから、今度教えてあげるからね。もうたくさん聞いたって言われるかもしれないけど、本当にまだまだたくさんあるんだから。
だからそんな顔しないでよ。今はちょっと大変だけど、大丈夫。ミリもよく知っているヒーローが助けてくれるから、心配いらないよ。これで助けられるのは二回目になっちゃうから、あとで沢山ありがとうを言っておいてね。
『よろ、しくね。がんば、れ…………』
あんたなら大丈夫でしょ。信じてるからね、ひねくれ者のヒーローさん。
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