六月の誕生日、世界で一番大切な友達にキスされた

壊滅的な扇子

前編

第一章 梅雨明けはまだ遠い

第1話 大切な人

「おはよう涼香」


 雨音のカーテンの向こう側から、澄んだ声が私を呼んだ。


 モデルさんみたいに顔が小さくて手足も長い。つやつやでさらさらな長髪を揺らしながら、葉月は柔らかな笑みを浮かべている。紺色の傘をさして、映画のワンシーンみたいに歩いてくるのだ。


 相変わらず見惚れてしまいそうなくらい綺麗だった。


「おはよう。今日も葉月は可愛いね」

「相変わらずあなたはナンパみたいなことを言うのね……」


 ジト目で見つめられたから、はにかんでみる。


「本当のことだもん。葉月は可愛い」


 透明感あふれる白い肌と、長いまつげの下から見つめる鳶色の瞳。すっと通った鼻筋に小さな小鼻、薄桃色の唇。平凡な私が本当に隣にいてもいいのかな、なんて不安になってしまうくらいだ。


「そんなに真っすぐ伝えてくれるのはあなたくらいのものよ」


 雨音に混じってくすくすと笑い声が聞こえてきた。なんだか私まで嬉しくなってくる。


 通学路の途中の小路には石垣が伸びていて、その反対側の木々の間には小川が流れている。弾むような心地で葉月と二人、そこに入った。


 楽しいからこそ、傘の分距離が遠くなるのがもどかしい。晴れていたら手を繋げるのに、なんて考えながら歩いていく。


「最近は雨ばかりだよね。梅雨だから仕方ないんだけど……」

「梅雨は嫌い?」

「嫌いってわけじゃないんだけど、別に好きでもないかな」

「涼香はどの季節が好きなの?」


 流れていく小川をみつめながら考えるも、よく分からない。


「葉月はどうなの?」

「私は梅雨が好きよ。雨の匂いを嗅いで雨音を聞いていると落ち着くわ。薄暗い中、鏡みたいになったアスファルトに車のライトが反射するのも、幻想的でいいじゃない?」


 葉月らしい風流な発言だ。この人は文学小説が好きで、放課後は図書室や図書館に立ち寄ることが多い。本人が言うには平易なものも読むらしいけれど、その瞬間をみたことはない。


「それで涼香はどの季節が好きなの?」

「私のことそんなに知りたいんだ」

「当然よ」

「んー。そうだね。私が好きな季節は……」


 答えてあげたいけれど、何にも思い浮かばなかった。


 季節に限った話ではない。好きとか嫌いとかそういうものに縁のない人生を送って来た。葉月と出会って多少は変わったとは思う。けれど未だに何にも分からない。


「……特にないかな」


 苦笑いしてみるも、葉月はどこか不服そうに目を細めている。


「出会って二か月も経つのにあなたが好きなものを何も知らないわ」


 小学生のころから高校二年の今まで、私は幾度となく転校を繰り返してきた。ここにも今年の春に引っ越してきたばかりなのだ。


 環境が変わって知らない人ばかりになれば、周りに合わせないと簡単に孤立してしまう。こだわってもいいことなんてない。


 だから好きなものなんて、何にもなかった。


「友達なのに何も知らないなんて不自然よ」


 雨音に溶けてしまいそうな寂しい声だった。私は口元を緩めて告げる。


「葉月の顔が好きだよ」

「こら。話をそらさない」


 葉月は不満そうに目を細めた。


「ごめんごめん」


 ぱたぱたと雨が傘を叩く。


 思い浮かばないとはいえ、何も話さないわけにはいかない。


「あ。でもクリスマスとか浮ついた空気の日は好きかも。ケーキも美味しいし」

「そういえばあなたの誕生日っていつなのかしら?」


 かなり仲良くなったとは思う。でもまだ伝えていない。怖いのだ。誕生日を祝ってくれるほど私を大切に思ってくれているのか。もしも違うのなら、悲しくなる。


 それに私は一年後、また転校する。


 転校すれば長くても二か月くらいで連絡が途絶えてしまうのだ。せっかく祝ってもらっても、誕生日が来るたびに寂しくなるだけだと思う。けれど葉月の寂しそうな顔を見ていると、なんだか胸がざわざわしてくる。


「……今月だよ。六月十日」


 目を伏せてぼそりと伝えた。誕生日を教える。ただそれだけのことなのに、胸がうるさい。全身が強張ってしまうのだ。葉月はどんな反応をするのだろう? 


「ちょっと! 明日じゃないの! もっと早く言いなさいよ!」


 らしくない大声が鼓膜を揺らすから、びくっと体が震えてしまった。


 顔を向けると、葉月の鳶色の瞳には私しか映っていない。


「……別に祝ってもらわなくてもいいよ?」


 なんて試すようなことを口にしてしまう自分が恥ずかしい。今の反応をみれば誰だって分かることなのに。予想通り葉月はますます不服そうに頬を膨らませていた。


「友達の誕生日を祝わない人がどこにいるの! 祝わせなさいよ」


 声も表情も真剣だ。体がふわふわするみたいだった。嬉しい。すっごく嬉しいのだ。足取りが軽くなる。雨の中を遠くから聞こえてくるクラクションすらも、祝福のファンファーレみたいだった。


「そこまで言うのなら仕方ないか。葉月に祝わせてあげるよ」


 なんて謎の上から目線で胸を張ってしまうくらいには舞い上がっていた。スキップするみたいな足取りで葉月の前に出る。


 くるりと振り返ってありのままの笑顔を向けた。


「大好きだよ葉月っ!」

「……っ。あなたね。いつもいつも素直過ぎるのよ!」


 紺色の傘の下、葉月は顔を真っ赤にしていた。その様が面白くて可愛くて嬉しくて。


 葉月に出会えてよかったと、二か月経った今さらながら思うのだ。

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