第13話 江戸の知識人と幕府を巻き込んだ「勝五郎転生譚」 

 日本で最も有名な転生譚といえば、江戸後期の文政5年(1822年)ごろから世間を騒がせるようになった、武蔵野国多摩郡中野村(現・八王子市東中野)の、勝五郎という8才になる農家の少年をめぐる転生譚でしょう。

 色んな文献で紹介されていますが、ここでは、『異世界と転生の江戸』という、異世界転生ブームにあやかったとしか思えないタイトルの付いた民俗学の著作から紹介します。


 ある日、姉のふさと田んぼで遊んでいると勝五郎が、「あねさんハどこから此の家へ生れて来た」と問います。「どふして生れて来た先〔註:「前」のこと〕が知れるものか」と姉がいうと、勝五郎「そんならおまえハ生れぬ先の事ハしらぬか」というのです。姉が、「手まえハ知って居るか」というと、勝五郎、「知って居るのさ、おらあ、あの程久保の久兵衛さんの子で藤蔵といったヨ」(同書、p.97-98)。

 勝五郎の語りによれば、彼の前世は、中野村と同じく武蔵野国多摩郡にある程久保村(現・日野市程久保)にいた藤蔵とうぞうであった。藤蔵は六歳の時に疱瘡ほうそうにかかって死んでしまい、その後、源蔵方へ生れ変ったというのである。前世である藤蔵の死因や両親の名など、勝五郎の語る内容があまりに詳細なので家族は驚いた。さらに、祖母が程久保村の様子をよく知る者に聞いていたところ、幼くして死んだ藤蔵という子がいたというではないか。

 そこで、祖母が勝五郎の手を引いて程久保村を訪ねると、確かに、藤蔵の生家である須崎家が実在していた。それだけでなく、勝五郎の語る前世の景色などの記憶が、事細かに現実と一致していたことも分かった。須崎家の人びとは藤蔵によく似た勝五郎を見て涙を流し、以後、両家は親しく行き来するようになったという。(p.98)


勝五郎の一件の噂は地元から次第に広がっていき、江戸においても知られるようになりました。そして、いち早くこの噂をききつけた鳥取藩支藩の藩主を隠居した池田冠山が、文政六年(1823)に直接勝五郎のもとを訪ねてきたのを皮切りに、江戸の知識人の間でも評判になってゆきます。

 次第に大ごとになってきたため、中野村を知行とする旗本の多門おかど伝八郎は、江戸の自邸に勝五郎親子を呼び出して聞き取り調査を行ったうえで公式の文書を作成し、御書院番頭ごしょいんばんがしらに報告します。そこに、高名な国学者の平田篤胤が接触してきて、この事件を細かに取材し、「勝五郎再生記聞」としてまとめるにいたります。


参考文献

今井秀和(2019)『異世界と転生の江戸:平田篤胤と松浦静山』白澤社

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