迷宮都市オーデン
熊谷あきら
第1話
迷宮都市オーデン地下約千メートル。
迷宮第三層、またの名を地下遺跡ガラカム。
滑らかな黒い石で造られた暗い地下通路に、無数の死体が転がっていた。
ある者は胸に大きな穴をあり、ある者は四肢を無惨に切断されている。隙間なく敷き詰められた石畳は、死体から流れ出た血で深紅に染まっていた。
血と腐臭が充満し、まともな者なら近寄ることすらためらうだろう。しかし、この地獄は、ある者たちにとっては宝の山だった。
ランタンを片手に現れたのは、一体のゴブリン。近くの集落から死体を漁りにやってきた若者だ。恐れ知らずで、無邪気とも言える表情をしている。
迷宮に住むゴブリンにとって、人間の死体が持つ装備は貴重だ。迷宮では金属が希少で、鉱石を見つけても、それを加工するための火を保つのは至難の業。
だからこそ、既に錬成された金属は宝のようなものだった。地上から金属を持ち込む人間――冒険者たちは、ゴブリンにとって恐ろしい敵であると同時に、財宝を運ぶ存在でもある。
手慣れた手つきで、ゴブリンは死体を次々に漁っていく。腐敗の進み具合から、死後数日は経っているようだ。
「GYAGYA……」
錆びついた斧を拾い上げ、不満げな声を漏らすゴブリン。錆びを落とすのは手間がかかり、金属の質も悪くなってしまう。もう少し早く来ていれば、と舌打ちした。
ゴブリンは次の死体に手を伸ばしながら、ふと前方に目をやる。そして、ぎょっとした。
暗闇の奥、無数の眼がこちらを見つめている――。
――アラクネだ!
ゴブリンはその場で硬直した。アラクネは巨大な蜘蛛の魔物で、成人の人間をはるかに超える体躯を持っている。その鋭い爪は鉄の防具を容易に貫き、牙は骨ごと噛み砕く。さらに、外骨格は非常に硬く、魔力を込めた武器でなければダメージを与えられない。
さらにアラクネは強力で凶暴だ。人も魔物も見境なく襲っては捕食する。ゴブリンも例外ではない。過去には、たった一匹のアラクネによってゴブリンの集落が全滅させられたこともある。ゴブリンにとって、アラクネはまさに天敵だった。
「……?」
しばらくして、ゴブリンはアラクネの異変に気づく。獲物を前にしているのに、まったく動かない。おそるおそる近づいてみると、アラクネは既に死んでいた。八本ある脚のうち四本が切断され、緑色の体液が傷口から流れ落ちている。頭部と腹部をつなぐ節に深い刺し傷があった。おそらく、それが致命傷になったのだろう。
「GYA~」
ゴブリンはようやく息を吐き、大きく安堵した。まったく、驚かせてくれる。冒険者たちと相討ちにでもなったのか。どうであれ、命が助かった上に漁夫の利まで得られたのだ。
しかし、どこか違和感があった。それでも、目の前の「宝の山」に目を奪われ、思考は散漫になる。
「……GYA?」
しばらくして、ゴブリンはふと振り返り、首をかしげた。死体の数が減っているように感じたのだ。気のせいか? いや、そんなはずはない。
そこでようやく、ゴブリンは違和感の正体に気がついた。
アラクネの死体が、新しい。おそらく死んでからまだ十分も経っていないだろう。アラクネの体液は、外気に触れるとすぐに固まる性質がある。大動脈を切られても、一時間もすれば体液の流出は止まる。しかし、切断された脚からはまだ体液がだくだくと流れ出ていた。
一方で、周囲の冒険者たちの死体は既に腐敗が進んでおり、死後数日は経っている。
「……!」
そこでゴブリンは凍りついた。アラクネを殺したのは、この死体となった冒険者たちではない。冒険者たちはアラクネに殺され、そのアラクネは最近、また別の何者かに倒されたのだ。
そして、その何者かはまだ、この近くに潜んでいる――。
背後から、微かな水滴の音がした。ゴブリンは全身が硬直し、振り返ることができない。恐怖で身体が石のように固まってしまった。
視界の端に、誰かの手が見えた。自分の手ではない。それは、刻印が刻まれた美しい短剣を握っていた――。
§
暗い地下通路の中、弱々しいランタンの明かりが少年の疲れ切った顔を照らしている。少年はこげ茶色の髪に薄紫の瞳を持った彫りの薄い顔だちをしていた。
少年は地面に横たわるゴブリンを見下ろしていた。少年の右手には短剣が、その美しく鋭い刃の先から真っ赤な血が滴り落ちている。
「運がなかったな。お互いに」
ランタンを拾い上げながら少年はつぶやいた。少年の名はノラ。都市オーデンに住むBクラス冒険者である。
ノラの服は血で汚れていた。死体のふりをするために血だまりに伏せたときについたためだ。着ていたシャツも長ズボンも皮の胸当ても、褐色化した血で汚れきっている。
「前哨基地に戻ったら服買いなおさないとな」
そう言いノラはランタンの明かりを吹き消した。辺りが暗闇に包まれる。一寸先も見えぬ闇は本能的な恐怖を感じさせる。だが、ノラは慌てることなく精神を統一させた。
息を吸い、少し間をおいて吐く。それを数度繰り返したあと、ノラは両目に神経を集中させた。眼底の奥に紫色の淡い光が集まるイメージが脳裏に浮かぶ。
ノラはイメージを壊さないように注意しながら、呟くように魔術を唱えた。
「『暗視』」
暗闇だった視界が明るくなった。『暗視』は目の光感度を魔力によって高め、暗闇の中でも見えるようにする魔術である。この魔術を用いれば、わずかな光量の中でも行動することができる。
地下通路の天井にはヒカリゴケが生息しており、それが『暗視』を用いたノラの光源となっていた。
天上の星々が大地を照らすような視界の中、ノラは鞄から水筒を取り出して水を飲んだ。ぬるい水がアラクネとの戦いで疲労した身体にしみわたる。魔力操作の下手なノラにとって、魔術の使用は身体への負担が大きい。
迷宮から帰還することも考えると、魔術が使えるのはあと一回くらい。本来なら帰るべき状況だが、ノラは探索を止める気は全くなかった。
「……必ず、見つけ出すからな」
水を飲み終えたノラは口を拭いながらつぶやいた。その目は地下通路の先、迷宮の最深部を見据えている。
ノラは迷宮の最深部を目指していた。
消えた仲間を探して。
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