第三章
あしたのために(その20)芦川アカリと宝田ハヤト
三年生になってしまった。始業式での校歌斉唱を、川地は口パクで済ませた。メロディーはわかっていても、歌詞をまったく覚えていなかった。このまま覚えずに卒業してしまいそうだ。
最上級生になったところで、もちろんむさ苦しさに変わりばえはない。教室がひとつ上の階になってしまったことを面倒くさがり、同級生たちは嘆いていた。
「エスカレーター作ってくれよ」
なんてぼやいている。
三年D組は私立文系志望クラスと呼ばれている。やる気のない者たちが集められたようなものだった。
川地はぼんやりと窓の向こうを眺めていた。そばにいる沢本は、その様子を眺め、眉をひそめていた。
小林はいつものように窓際の後ろの席で眠っていた。
「SFさんの新曲が昨日あがったんだけどさ、今回は……」
「なー」
「そういやイシハラも進級できたね、保健室登校しているっていうけど、ほんとかなあ……」
「なー」
「今日の天気、晴れ時々ぶた、らしいよ」
「なー」
なにを話しかけても上の空なのに腹を立て、沢本は川地の頭を掴んだ。
「なにすんだよ」
やっと我に帰った川地が抗議の目を向けると、
「ぶたが空から降るわけねーでしょ」
沢本は掴んでいる指に力をこめた。
「……ガルシア・マルケスなら」
「なにそれ、芸人かなんか? カワちん。ふ抜けてるんだけど」
「んなことねーよ」
「嘘だね。世田谷線の女と話せるようになってから、朝に全精力、使い果たしているんでしょ」
教室が急に静まり返った。そして、
「おんなっ!?」
男たちが川地たちに注目した。まるで餌を前にした、飢えた犬みたいだ。飛びついていいものか、まずは伺っているらしい。
「カワちん、ついに一年越しの夢、甲洋女子の芦川アカリと会話成功しましたー!」
沢本は、猛獣使いにでもなったつもりか、周りを煽るように話した。
「どういうことだ、それ」
震える声で訊ねたのはそばでパンを食っていた三橋ヨウヘイだ。いつだって三橋は、出会いがない、恋がしたい恋がしたい、と嘆いていた。
「世田谷線に乗ってる数分間、女子と会話するようになったもんねえ」
教室の空気が急に薄くなったみたいに、男たちは口をぱくつかせた。
「嘘だろ……」
まるで不条理な出来事にでくわしたみたいな声を誰かがあげた。
「マジ」
沢本がその独り言に返事をした。
教室にいた男たちが川地たちを囲んだ。まるでこいつら、人間を見つけたゾンビだ。
「まさか川地がここ数年なかった下剋上を起こすとはなあ」
岡田タカシが、髪をなでつけながら、しみじみと言った。岡田は高校生活に見切りをつけ、大学デビューに向けて日々身だしなみに気をつけている。
「おい、やめろよぉ」
川地はわざとらしく首を振ったが、にやついている。
「うん、もしいま誰かを殺していいなら、お前選ぶわ」
「誰かー、暗殺できるやついないー?」
クラスメートが川地を小突いたり、首を絞めたりして騒いだ。
同級生たちには、家族と店員、同じ塾以外の女子との会話など、ほとんどなかった。なので、出会いのきっかけに興味津々だ。
「どこでそんな奇跡が起きたんだよ、教えろよ」
赤木ユウヤの問いに、周囲も頷いた。他人の恋バナが羨ましくて仕方がない年頃だった。
「別に、普通だよ」
川地が電車を降りて、ベンチで本を読んでいたときだ。ようやく読み終えて、ほっと一息ついたとき、なにか気配を感じて本から視線を外すと、いつも遠くで眺めているだけだった女の子が興味深そうに川地を見ていた。
「すごい顔しているから、なに読んでいるのか気になってずっと見ちゃった」
彼女が笑いかけてくれて、川地はさっきまで読んでいた小説の結末なんてすっかり忘れてしまった。
「なんだそれ、ラブコメ漫画か?」
男たちは唖然とした。女子のほうから話しかけてきた? 嘘だと言ってくれ、イチ高の制服を着ているのに?
「いやいや、まあまあ、お友達になっただけなんで」
川地は立ち上がり、トイレ、とふらふらした足取りで教室から出ていった。思い返して頭に血がのぼっているらしかった。
そんな後ろ姿を男たちはただ憎らしげに見送った。
「あいつ、そのシチュエーションをオカズに飯何杯でもいけるな」
赤木が言った。女の子のことなんて興味ない、セパタクローに夢中、といったふうだが、やはり気になるらしい。
「サワもん、知ってることを全部吐け」
長門レンが沢本の肩を揺さぶった。美術部の長門は、経験もないくせに下手くそなエロ漫画を描いている。やけに焦って、「勿体ぶるなよ」と急かした。
「別に」
沢本は仏頂面のまま応えた。
「なんだよ、サワもん連れションしないのか、珍しい」
高橋ハルキが言った。その場にいる者のなかで、一番冷静に振る舞っていた。いつだって坊主頭だからモテない、なんてぼやいているくせに珍しい。
「いまはトイレしたくないもん」
沢本の表情は変わらなかった。
「いつも川地にひっついているくせに」
「昨日は一人で渋谷に行ったもん」
「それ普通だから」
誰かが憐れむように言った。
川地が出ていって、時間を見計らっていたらしい沢本が、続きを話しだした。
「ぼく、見ちゃったもん。あの女と宝田ハヤトが楽しそうに並んでパルコに入っていくの。絶対デートだよ」
さっきの暴露を超えた暴露である。
「宝田って、まさか……」
「そう、あの宝田ハヤト」
沢本が頷いた。眉を寄せているが、口元は緩んでいる。
教室は再び沈黙した。
「それ絶対に川地には」
「訊かれもしないのに言わないけど〜」
沢本は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「宝田といたってことは」
「そうだな、身ぐるみ剥がされて、なあ」
杉山コウタと木下トモヒロが小声で囁き合っている。勝手にエッチなことを想像しているらしい。
そのとき、廊下から、ばたん、と倒れる音がした。
「なんだ?」
赤木が顔を覗かせると、川地が突っ伏して倒れていた。トイレには行かず、教室で羨ましがっているみんなの話に、聞き耳を立てていたのだ。
「おい。川地、息してる?」
赤木が慌てて川地を起こし、頬を軽く叩いた。
教室からぞろそろと男たちが出てきた。皆、川地の姿に、さっきまでの羨ましい気持ちなど吹っ飛び、ただ、憐れむことしかできなった。
「元気出せ、宝田を好きな女なんてろくなもんじゃねえよ!」
「そうだよ、あんなやつ!」
突然クラスの連中が川地を励まし始めた。
「顔がよくて身長高くて足なげーからって鼻にかけやがって!」
「バレンタインのチョコ二百個もらった? 糖尿病になっちまえ!」
「だいたい初めて付き合ったのが小学一年って、餓鬼はおとなしくドッジボールしてろよ」
「ネットにあげてるくだらねえ踊りのショート動画、なんなんだ! ばかじゃねえのか」
「インタビューにスカして答えてたぞ。『俺、意外と背中で語れてね?』だってよ、アタマ空っぽのくせしやがって!」
全員が口々に宝田をディスりだした。
「どれだけみんな、宝田のこと嫌いなの、そして詳しいの?」
沢本は皆がやたらと興奮している様子に恐ろしくなった。
「ネット見ていると、おすすめにでてくるんだよ!」
三橋が吠えた。
「それ、絶対検索したから薦められてんでしょ」
「あいつ、なんかやらかして炎上してくんねえかな」
不穏な発言まで口にする者もいた。しかし、謎にクラスが団結しだしている。
「……芦川さんを、宝田の魔の手から守らなきゃ」
呻きながら、川地がよろよろと立ち上がった。ボクサーだったらもう立たないでいい、とタオルを投げられるだろう。
「お前、諦めが悪いな」
長門が呆れて言った。
「カワちん、硬派だから」
沢本が川地の肩を抱きながら、答えた。
小林は輪に入ることなく、窓の外をぼんやり眺めていた。
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