僕は、蛍火を追いかけた

中村 青

駆け抜けた夏。もう、そこに君はいない

 澄み切った青い空に白い大きな入道雲。

 眩し過ぎる夏の空を見る度に、君の屈託のない笑顔を思い出す。


 そして夕暮れ時、蒸し暑さの残る熱帯夜。

 君は「蛍が見たい」と伝えてきたけれど、悲しいことにこの時期は見つけることが難しいのだ。


 蛍と言えば夏のイメージが強いが、実際は6月から7月にかけて見れるらしい。だから盆過ぎの今は見つけられないよと伝えたにも関わらず、君は自転車の荷台に跨って真っ白な歯を見せて笑いかけてきた。


「それでもいい。目的はただの口実なんだ。私は君と一緒に何かをしたいだけなんだよ」


 かんかん照りが続く夏真っ只中だというのに、彼女の肌は真っ白で——しかもその肌も長袖シャツにしっかりと守られていた。

 思春期の男子校生を裏切る楽しみのない鉄壁に、季節感は皆無で。だからなのか、少しくらい夏の思い出を作らせてあげたいと思ってしまったのが事の発端だろう。


 やめておけばよかった。

 誘いに乗らなければよかった。


 こんな女とアバンチュールなんて起きやしないんだから、淡い期待を抱かずにベッドでうたた寝をしながら眠りにつけばよかった。


「クソぉぉー……っ! 何で、僕が! こんな目に!」

「頑張れ、あともう少しだ。君の変な同情をされるよりもやり遂げたいだろう?」


 いや、二人だけの達成感なんていらない。

 素直に「自転車から降りて一緒に押して下さい」と懇願すればよかった。つまらない意地を張ったせいで、僕のヒラメ筋は限界までパンパンになってしまっていた。


「この坂を登って下った先に、小さな小川があるんだ。そこなら蛍が見れる気がしたんだ」


 頂上に着いたと同時に、彼女は荷台から降りて僕の肩をポンと叩いた。


「お疲れ様。途中で音をあげると思っていたけれど、案外根性があるんだね」


 大きく肩を上下させながら、呼吸を整える俺を馬鹿にしているのか、はたまた——……。ダメだ、意識が朦朧として何も考えられない。


 次第に聞こえてくる小川のせせらぎに、まさかと胸を弾ませたが、残念なことに目的の場所に蛍はいなかった。

 眉を顰めて隣に視線を向けたが、思ったよりも平気そうな顔で、彼女は乾いた笑みを溢していた。


「やっぱりいなかったかー。見たかったな、蛍」

「仕方ないよ。綺麗な川も少なくなってきたし」

「——そうだね。仕方ないか」


 彼女は珍しくシャツの裾を捲って「暑いね」と汗を拭っていた。細い肉付きの悪い腕に、しっかりと刻まれた痣や生傷。

 普段、必死に隠していた秘密を目の当たりにし、僕は目を逸らすべきなのか否か迷っていた。


「どうした? 急に黙り込んで」

「どうしたじゃないだろう……だってお前、それ」

「え? あぁ、コレ? 最低でしょ……あの男、私のことを人間だと思っていないんだよ。サンドバックを殴るかのように私を痛めつけるの」


 今度、彼女が見せてきた表情は諦めの顔だった。彼女に刻まれた傷はコレだけではない。全身、そして心に残された傷痕は、容赦なく僕を責め立てる。


 守ッテ、私ハカ弱イ存在ナノ。君ノ決意ガ私ヲ救ッテクレルンダ。


「見る? あの糞野郎、こんなところにもタバコを押し付けてきたんだよ。乙女の身体を何だと思っているんだろうね」


 そう言ってスカートの裾を捲り上げて、ギリギリのラインまで見せてきた。見たいけれど見れない。見たらいけない。だってソレを見たら僕は、彼女を守らなければならないんだ。


「私がここまでしても目を逸らすんだ。君も大概、糞野郎だね」


 そう言って彼女は駆け足で山道を過ぎ去って、満天の夜空へと吸い込まれるように消えた。


「って、おい。待てよ、僕の自転車……! 勝手に乗っていくなよ」


 走って追いかけた時にはもう、彼女は坂道の途中まで進めていて、今度は寂しそうな笑みを浮かべて手を振った。


「バイバイ、もう私は生きることを諦めたよ。最期に君に会えて良かった」


 そして彼女は急な坂道をノーブレーキで降って消えた。あまりにも突然の出来事に僕は無我夢中に叫んで追いかけたが、坂の上から見た惨劇はフェンスに突撃した自転車しか見えなかった。


 彼女は? どこへ消えたのだろか?


「ケイ、おい! どこに行ったんだよ!」


 まさか、フェンスにぶつかった拍子に川に放り投げられたのだろうか?


「どこだよ! ケイ!」


 その時、一匹の蛍がゆっくりと目の前を飛び、満天の空へと消えていった。


 そして彼女もまた、僕の前から消えてしまった。



 後日、警察がケイの両親を殺人未遂の容疑で連行していった。


 彼女は死んだ。

 そう、死んでいたのだ——……。



 ………end


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