精神科病棟の監視モニターに映っていたものは……

あらき恵実

第1話

私が精神科病棟の新人看護師だったころの話です。


深夜二時、先輩看護師と二人で電子カルテに看護記録をうちこんでいたところ、

先輩が詰所の角に設置された保護室の監視モニターを眺めて、

「今日は、良くない日かもね」

とつぶやきました。


その先輩は、〝みえる〟ということで有名でした。二十代後半で、痩せていて、タバコと焼酎と競馬と星占いとポエムと猫が好きという、独特な雰囲気の先輩でした。


先輩の視線の先には、

空き部屋になっている保護室の様子が映っていました。

精神科病棟には、保護室という部屋があって、部屋には監視カメラがついています。


使用していない保護室のモニターは電源を切るようになってるのに、いったい誰が電源を入れたんでしょうか。


モニターには、真っ暗で誰もいない部屋が映っていました。


自傷や他害を防ぐため、保護室には病室らしい設備ーーベッドとか、ナースコールとか、オーバーテーブルとかーーを置いていません。

映っているのは、床と壁だけ。

暗くて空っぽ。

床は奥の一角だけ一段高くなっていて、布団が敷かれていました。


「良くないって何がですか?」


パソコンのキーボードをたたく手を止め、モニターを眺めて尋ねました。


「たまにこの病棟、〝でる〟んだけど、今日は〝でる〟日だね。

空き部屋のモニターに、今、映ってるよ」


私は、背筋にひんやりとしたものが触れた気がしました。


「映ってるってどこに?」


「今、あなたが見つめている先」


私は心臓がドクンと大きく拍動するのを感じました。

私の目は吸い込まれるように、モニターに映る暗い部屋を見つめていました。

その部屋は空っぽでした。空っぽなのに、どういうわけか、私の視線を強くひきつけました。

まるで、本当に何かがいるみたいに……。


「あ」

と先輩がつぶやきました。


「今ね、目があってるよ」


私は胸がザワッとしました。


「見えない? 

モニターの向こうから、あなたを見つめてるよ」


私は一つ深呼吸をしました。

嘘だ、嘘にちがいない。

きっと新人をからかっているんでしょう。


「やめてくださいよ。冗談なんでしょ?」


先輩がニヤっと笑いました。


「ピリッとした気持ちで巡視にいけるでしょ?」


なんだ、やっぱりそういうことか。

私はほっとして、安堵のため息をつきました。


「じゅうぶん緊張してますから。これ以上緊張させないでくださいよ」


先輩がクスクスと笑います。


「さあ、巡視の時間だね。緊張感をもって行ってらっしゃい」


先輩はそう言って机の上の懐中電灯を持って立ち上がりました。


「さっきの話のせいで、行きにくくなっちゃったじゃないですか」


私も、苦笑しながら立ち上がりました。


そして、それぞれ詰所のドアへと向かいました。

私は病棟の西半分の部屋、先輩は東半分の部屋を担当していました。

なので、私は詰所の西側のドアへ、先輩は東側のドアに向かいました。


私はガチャリとドアを開け、廊下にでようとしました。

その時、まだ詰所にいた先輩が、私に振り向いてこう言いました。


「保護室の空き部屋、中をのぞかない方がいいよ」


「え……?」


「その部屋の前だけは、素通りしなさい。

悪いことは言わないから」


「なんでですか?」


先輩は答えません。表情の読み取れない顔をして、黙って私を見ていました。


「さっきの話、冗談だったんですよね?」


先輩は質問には答えず、私に背を向けました。

そして、ドアノブに手をかけました。


ガチャリとドアが開きます。


暗い廊下が先輩の向こうに見えました。

病院には、たくさんの患者がいるはずなのに、夜勤帯の病院はとてもひっそりとしていました。


先輩は無言のまま廊下に出ていくんだろうかと思われましたが、

ふと私に振り返りました。


そして、こう言ったのです。


「冗談じゃないって言っても、あなた、ここで働ける?」


私は答えられませんでした。


先輩はしばらく返答を待っていましたが、いくら待っても答えが返ってこないとわかって、私から視線をそらし、ドアの向こうに出て行きました。

詰所の東側のドアがガチャンと閉まり、先輩が暗い廊下の向こうに消えていきました。


詰所の角に取り付けられた監視モニターが、ザザッとノイズ音をたてました。

私の胸はザワザワと騒ぎました。


〝今ね、目が合ってるよ〟

先輩の言葉を思い出し、恐怖がゆっくりと足元から這い上がってくるのを感じました。

だけど、私は今から巡視に行かねばなりません。


懐中電灯で廊下の奥を照らします。

廊下の奥には、施錠されたガラス張りのドアがあり、その向こうにも廊下が続いていました。

廊下の脇には保護室が四つ並んでいます。


私は今からそこへ向かうのです。

しかし、廊下の暗がりは異様な空気を放っているように見え、一歩も進めませんでした。


ねえ、先輩、教えてください。


〝今ね、目が合ってるよ〟

私はあの時、いったい何と目が合っていたんでしょう。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

精神科病棟の監視モニターに映っていたものは…… あらき恵実 @arakimegumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ