奥ツ城
環境
奥ツ城・天(第一話)
XX
空たかく、月が昇っていた。
幸恵はふと足を止める。
ぬかるんだ山道に、縦に割った丸太が規則正しく並べられている。久しく整備されていないためか、木道はあちこち腐食し、その隙間にはびっしりと雑草が繁茂していた。絶え間なく重なる夜の声は聴覚を麻痺させるにとどまらず、時間感覚までをも鈍らせる。夜の声というのは、夜の山で鳴くもの――コオロギやヨタカ、フクロウ、シカなど――の物音全般を意味する、幸恵の造語である。
一歩ずつ歩みを進めながら、登山道に落ちる木の枝や小石を拾い上げては道の外に放り投げる。石段にこびりついた苔をあらかた落としたところで、当初の目的を思い出した。幸恵は今、家族の待つ別荘へ向かっていたのだ。山頂はもうすぐだった。
XX
数年前、地元の奥山にある別荘を買い取った。1LDKの小さなログハウスだ。
帰省を兼ねた家族旅行で、この山へトレッキングに訪れたのがきっかけだった。当時五歳だった娘の水穂は、はじめての登山に興奮していた様子だったが、二合目にさしかかったあたりで、ぐずりはじめた。それをみた幸恵は引き返そうと提案したが、夫の流平は頂上の景色を娘に見せてやりたいのだと譲らなかった。そして、いかに自然が素晴らしいか、頂上からの眺めが感動的かという熱弁を振るうものだから、しゃくりあげながら地面に座り込んでいたはずの水穂も、すっかりその気になってしまったのだ。流平は幸恵に向かって得意げにウインクを飛ばし、大仰なしぐさで水穂を抱き上げると、再び山道を歩き始めた。ほどなくして、水穂は眠ってしまった。
頂上へ到着すると、たまたまログハウスの完成見学会が開催されていた。トレッキングコースが整備されているとはいえ、人里離れた山奥のことだった。ご丁寧に移動式遊園地まで併設されていたが、はたして来場者の姿はなかった。夫婦では何度か訪れた経験があったものの、このような催し物に出くわすのは初めてのことだ。
二人が面食らっていると、間の悪いことに水穂がぱちりと目を覚まして、瞳を輝かせた。
「ゆうえんちだ!」
「ごめんね、水穂。今日は遊園地に行かないの」
幸恵はなんとかしてなだめすかそうと試みたが、水穂は頑として聞き入れなかった。みるみるうちに頬が紅潮する。それはすなわち水穂の癇癪が始まる合図だった。
「いいじゃないか、ちょっとくらい。見るだけならタダなんだろ? せっかく遊びに来たんだから楽しまなきゃ」
流平は、こともなげに言い放つ。幸恵は呆れ果て、言葉も出なかった。時刻は昼の三時を過ぎたところだった。このあと一時間かけて下山し、そこから自家用車で三十分ほど走った先にある、夫の実家へ顔を出す予定だった。その後に向かう料亭の予約時間を逆算すると、今から遊園地で遊ばせる時間的余裕などあるはずがなかった。そのうえ水穂は、興奮するとすぐに高熱を出す子どもだった。体力の限界まで動き続けたら、今回だって体調を崩すに決まっている。
「水穂も遊びたいよねえ」
流平は幸恵の抗議をうるさそうにさえぎり、水穂をけしかける。水穂は表情を輝かせ、うなずいた。
「あそびたい!」
「ほら、あのお兄さんも待ってるよ」
見ると、スーツ姿に半纏を羽織った男がひとり、受付に立っていた。すでに夫と娘の足は、微笑みをたたえながら会釈する彼の方へ向かっていた。
「もう知らないからね」
幸恵はため息をつくと、その日の予定をすべて諦めたのだった。
冷やかしのつもりで見学したログハウスは、手頃というにはいささか安すぎる価格で売り出されていた。営業マン曰く、この家を建てたオーナーは一度も住むことなく手放してしまったのだという。立地条件の悪さもあり、それが新築にもかかわらず破格の値段である所以らしい。広々としたバルコニーから玄関に入ると、十五帖ほどの居間が姿を見せる。大きな掃き出し窓からは、開放的な景色が楽しめた。天井は吹き抜けになっていて、三角形の吹き抜け窓からは柔らかな光が降り注ぐ。奥の扉からは六帖間に続いている。対面式のダイニングキッチンを通り抜けた先に脱衣所があり、浴室も清潔で明るく、ヒノキ材のいい香りが漂っていた。
「いいじゃん。ここ、買おうよ」
ロフトの梯子からぴょんと跳ね降りた流平が提案する。
「そうね。悪くないかも」
遊び疲れ、窓際の日向で寝息を立てている娘の横顔を眺めながら、幸恵は答えた。
それからは、年に一度、夏になると別荘に足を運び、親子水入らずの時を過ごすのが定番の行事になっていた。
XX
今年も、その予定だった。幸恵は、膝についた泥を払うと、先を急いだ。きっと、ふたりとも待ちくたびれているはずだ。
別荘に到着すると、すでに家の明かりは消えていた。眠ってしまったのだろう。到着が遅れたことに対しては多少の後ろめたさを感じていたが、がっかりしたのもまた事実である。起きて待っていろとは言わないが、せめて玄関のポーチライトくらいは点けていて欲しかった。
「ただいま」
ささやくように声をかけ、玄関の扉を開ける。二人を起こしてしまわないよう、玄関の常夜灯をひとつだけ点けた。床には複数人が土足で上がり込んだような泥の跡がべったりと付着している。よくよく見ると、窓ガラスが割られ、粉々になったガラス片が床に散らばっていた。
家の中は静まり返っていた。
「誰かいるの?」
返事はなかった。
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