九章 喪失・希栄
「あの小娘を可哀想にでも思ったのか?」
後から付いてきた女鬼が僕に聞いてきた。
「いいや。全く思わないね」
「じゃあ何故に安全な現世に返したのじゃ?」
眉をひそめ、困惑する女鬼を前に僕は答えた。
「レイは、もう現世でもやっていけるかなと思っただけだ」
「根拠は?」
根拠、たしかにそう聞かれたらどう答えたらよいかはわからないが、一つだけ確信を持って答えられることがあった。
「彼女からは死にたいと思う気持ちが感じられなくなったんだ。駅からずっと目が死んでいたんだが、だんだん一般人の目になってきたんだ。自分の気持ちにでもケリが付いたんだろう」
女鬼は眉間にシワを寄せながら僕の顔を覗き込んで言った。
「お前はどうやら人を見る目が腐っているようじゃな。一度本当に生まれ変わってきたらどうじゃ?」
つまらない女鬼の冗談に笑うことなく、しばらくして女鬼がまた質問を投げかけてきた。
「お前、ヤツのことを何も思っとらんのか」
「ヤツ?」
僕が聞き返すとそんな事もわからんのかと言った様子で首を振った後、しかめっ面で僕に言った。
「コトリバコのことじゃよ。親も知り合いも殺された挙句、神殺しを頼まれて。それに某たちは、今貴様の胸から出てこさせて殺すために少し協力しているだけにすぎんのじゃ」
「そうだな、僕もまだ彼女を許せたわけじゃないんだが、なんだろうな、一種の同情ってやつなのかな」
女鬼は大きくため息をついて言った。
「全く、お前はどこまで腐っているのじゃ」
そんな話をしながら、僕と女鬼、そしてどう見ても峰高な男鬼と共に、僕たちはある場所へと向かった。
「まさかもう一度ここへ来ることになるとはな」
向かった先は玉藻前の家の前。
扉を叩くこともなく女鬼が扉を背中に背負っていた大きな金棒で叩き割った。
瓦礫と煙がまだ宙を舞っている中、男鬼が門番を警戒して剣を抜き、先頭に立った。
意外なことに門番はおらず、僕たちは中にどんどん入り込んでいった。
家の中の廊下を見て回っても、監視などは一切おらず、ただ薄暗く、誰も居ない気味の悪いほど静かな廊下が続いているだけだった。
その奇妙な廊下を進み、突き当りの部屋の戸を開いて中に入った。
部屋は何百畳もの畳が敷き詰められていて、部屋の隅にある小さな蝋燭が部屋をぼんやりと照らしていた。
部屋の真ん中にはこちらに背を向けた青年、つまり玉藻前がいた。彼はこちらを振り向かずに言った。
「やあ、また来たんだね。大八州希栄。彼女の呪いでも解けと言いたそうな顔をしているが」
「こちらを向いていないくせによくそんなことが言えたな」
「でも、解いてほしいんじゃないの?呪い」
「...ああ。そうだ」
僕がそう言うと玉藻前はすっと立ち上がってこちらを振り向いて笑顔で言った。
「無理だ」
その瞬間、女鬼が持っていた金棒で玉藻の前を叩き潰しにかかった。
すると玉藻前は、一切抵抗することなく、自ら直前でよけようとした彼女の金棒に笑顔で押しつぶされた。
「何故じゃ」
しばらくして震えた声で女鬼が言った。
「何故いともこう簡単にお前が殺された!」
眼の前に散らばる玉藻の前の肉片に向かい、彼女はそう叫んだ。金棒は固く握りしめられ、震えている。
「獄卒様!お気を確かに!」
男鬼がそう叫ぶと極卒と呼ばれた女鬼は、はっと我に返って、こちらを振り向いた。涙の出そうな目は、まるで少女のような弱さがあった。
そして僕らの方を向くなり、呼吸がだんだん早くなった。
金棒を落として膝から崩れ落ち、大声で言葉にもならない声で叫んだ。
しばらく叫んだ後、落ち着いた様子の女鬼は、僕らの隣を通り過ぎながら言った。
「醜態を晒したな。行くぞ。」
僕らは何も言わずに彼女について外に出て行った。
先ほど男鬼が破壊した門の前には、人影があった。
伊邪那美だ。
彼女を視認すると同時に、先ほどの無気力状態からはうって変わり、女鬼が血のこびりついた金棒を伊邪那美に向かって投げた。
伊邪那美は手を豪速で飛んでくる金棒にかざして、金棒に触れずに金棒を停止させ、すぐに木っ端微塵に破壊した。
金棒の破片を見ながら唖然とする僕らを前に伊邪那美は、天に大きく手をかざしていった。
「顕現・八咫鏡」
世界が渦巻く布のように歪んで、その布が剥がされた。
その布の向こう側に、最初は何もなかったが、視界の端から僕が歩いて入ってきた。
つまり、僕の前に僕がいるのだ。これまでの経験から、特段なんとも思わなかった。
僕が黙っていると、彼は口を開いた。
「どうしてあの時、そう、君の胸の中に入る前に、ほかの鬼にコトリバコにとどめを刺してもらわなかったんだ?親も知り合いも殺されて、母親に至っては今も彼女の中で苦しんでいるんだぞ?...まあ、そういっても僕は僕だからね。君はこういうんだろう」
彼が答えるより先に僕が答えた。
「わからない。ただ、そうしたほうがよかったんだろう」
「そうか。そうだな。きっとそうに違いないんだ。...最後にこれだけは伝えておこう。」
急に彼の声は伊邪那美の声に変わって言った。
「君の父親はこちら側にいる」
彼女はその言葉だけを残して消えていった。
布のはがされた世界にただ一人たたずむ僕は、一人でこうつぶやいた。
「だから...なんなんだ?」
世界にまた布がかけられ、黄泉の国へと帰っていった。
数回瞬きをして、世界が安定してくると、隣で女の泣き声が聞こえてきた。
悲しみの涙などではなく、恐怖からくる泣き方だった。
その声の方向に目をやってみると、女鬼がひざまずいて泣いていた。
男鬼はというと、彼も彼で茫然自失といった状態で少しも動かなかった。
僕が二人に声をかけるよりも先に、伊邪那美が僕に声をかけてきた。
「さあ、大八州希栄。こっちにおいで。そうすれば君の悩み、つまりは君の母親や、その忌々しい箱の中にいる知人もすべて返してあげよう」
ばかばかしい誘いだと思ったが、よくよく考えてみると、僕がコトリバコ側につくという利点がない。
知人が返ってくるというならなおさらだ。
しかし、僕はそこで一つ疑問に思った。
「じゃあ、この二人に何のために何を見せたんだ?お前の力があれば僕と二人を分かれさせることなんて容易いだろう」
僕の問いに彼女は口角を少し上げて言った。
「個人的な恨み、とでも言ったほうがわかりやすいかな?大昔に散々痛めつけられたからね。そのお返しさ。数百年はそのままになるようなとんでもない夢を見せた。男のほうはあと数時間もすれば元に戻るだろう」
「...数百年、か」
「さ、早くしなよ」
「断る」
「そうかい。じゃあ、死ね」
彼女はそう言って空中から一本の剣を取り出した。
それとほぼ同時に僕は男鬼の持っていた剣を取って構えた。
「それは...ふぅん、神器か。まったく、鬼のくせして偉そうなことだな」
「神も恐れる偉い鬼だからじゃないのか?」
彼女は僕の言葉になんとも言わずに切りかかってきた。あの時の伊邪那岐よりは遅い。
だが、神は神だ。一撃の重さが違う。まともに食らえば即死、かすったらその部分が消し飛ぶだろう。
しかし、倒すことはかなわずとも、逃げることはできる。
何回か打ち合った後、僕が近づき、彼女が距離を取ろうとした瞬間、一気に反対方向に駆け出した。
彼女は追おうとはせずに後ろからただ僕を見守っていた。
しばらく走り、遊郭を抜けた後、駅に向かう途中の橋に差し掛かった時だった。
橋の中央にある男がいた。
「...久しぶりだな。親父」
「ああ、久しぶりだな。希栄」
僕らはしばらくお互い見つめ合った後、大きくため息をついて話し出した。
「なあ希栄。お前がこっち側に来れば何もかも元通りなんだ。早くこっちにこい。そうすれば俺はお前を殺さなくて済むんだ」
「悪いな親父。あいにく他人を数百年簡単に苦しめられて、自分の苦しみは他人に擦り付けるような神を信じるつもりは無いんだ」
「そうか。それは残念だ。実の息子を手にかけなければならないなんてな」
そういうと彼は胸元から拳銃を取り出した。
と、同時に引き金を引いた。とっさに体を適当な方向にひねったが、銃弾が右足を掠めた。
血が滲み始めたと同時にまた何度も引き金を引いた。
右肩、左腕、右頬、左脇腹を銃弾が貫通した。
出血と痛みで体に力が入らず目の前が暗くなったときだった。
僕の前に一人の女が立ちはだかった。
その既視感のある見た目に僕は目を疑った。
「...隣の?」
そう隣の人だ。名前は全く覚えていなかったが、なぜか今ここにいる。
「どう...して...」
すると彼女は少し笑って僕に言った。
「レイという少女が私に助けを求めに来たのです」
「レ、レイが?一体どうやってあなたのところに?」
「そ、それはですね...」
彼女がそう言ってぼかそうとしたとき、親父が口を開いた。
「もういいかい?嬢ちゃん。どけとは言わない。一緒に殺して輪廻に投げてやる」
それから間髪開けずに彼は銃の引き金を引いた。
銃弾が彼女の胸を貫き、僕の頬を掠めた。
彼女は僕の前に倒れて、浅く息をしていた。
「...しばらく話させてやる」
親父はそう言って銃を下した。
どうして?なんで僕を助けたんだ?
そんな言葉を吐く前に彼女が口を開いた。
「あなたは...生きな..ければ...ならないん..です。それが...あの子の...ために..なる..から。あなたには...彼女を...慰める資格が...ある。ほら、あなたは...生きたいと.....思っているから...彼女にあらがっているん...じゃないんです...か?」
僕?生きたい?
「今の..あなたは、ひどく...おびえている.....死というものを前にして...怯えているんです。だから、ほら、叫んでみてください...生きたいって」
そう言って彼女は事切れてしまった。
血だまりが立ち尽くす僕の足元まで来た。
そのとき、僕の口がひとりでに動いた。その声は僕のものとは違う、女の声だった。
「あなた、やめなさい!」
その声に親父の顔は一瞬曇り、銃を握る手が弱くなった。
その隙を突き、僕は彼に向かって持っていた剣を投げた。
剣は彼の胸元に深く刺さり、じきに倒れ、動かなくなった。
「まあなんともひどい親殺しだね。希栄。そんな君にいいことを教えてやろう」
そして、彼女は衝撃的なことを口にした。
「君の前に横たわって死んでいる女。レイだよ」
「は?」
何を言っているかがわからなかった。分かりたくもなかった。
目の前にいる彼女が今さっきまでいた彼女とは、容姿こそ違うものの、内面に感じるものはレイそのものだった。いまさらそんなことに気づいた。
「なんで、ここに?」
震える声で伊邪那美に尋ねると、彼女は少し笑って言った。
「私が無理やり連れてきたんだ。あ、そういえば言い忘れてたけど、最初の列車の中にいた人間たちはみんな来た時代が違うんだよ。それで、さっきの子供のレイは君がいる国の十年前から連れてきた子で、あの子はいずれ私に無理やりここに連れてこられてお前をかばって死ぬ運命なのさ。まったく、かわいそうな子だ」
どういうことだ?さっき帰ったのが十年前のレイで、今ここにいるのが今のレイ?
「でも、どうして...」
「きっと彼女は君のことが好きだったんだろうね。君も彼女に好感は抱いていたが、その気持ちに気づけなかった。でも彼女は気づいていた。ただそれだけじゃないかな」
口が震えてもう言葉が出ない。
泣き叫びたいと思った。今僕の横にいる女を殺してやりたいと思った。
こぶしを固く握り、彼女に振りかぶった時だった。
「おっと、君の冒険はもうここまでだよ。大八州希栄」
彼女の剣が僕の体を両断していた。
地面に肉のぶつかり落ちる音があたりに響き渡った。
なんで僕はいっつもこんなのなんだ。誰も救えやしない。自分の偽善のために戦って、そして大切になったものから順番に消されていく。遠ざかる意識の中でそんなことを考えた。できるのなら、もう一度、やり直したい。いや、それよりも
「生きたい」
僕が最後に吐き捨てた言葉は誰にも届かず、ただ黄泉の虚空に消えていった。
視界が真っ暗になると、すぐに意識は途切れた。
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