ジェノヴァの夜
浪生活者
酩酊する男
「なぜ人間が描かれていない都市の風景画というのは、こんなにも無機的な恐怖を与えてくるのかな。わたしたちが住んでいるこの街にしても、何かしら人の気配というものがある気がする。たとえ見えなくてもね。けど、カンヴァスの中では誰もいない孤独な世界を演出できるでしょ? そういう絵をじっと眺めていると、文明の無機質な構造体の隙間のどこかに、真っ白で人の造形をした存在がひっそりと描かれていて、体躯座りでこっちを見ている、あるいは手招きをしているような妄想をしてしまう。いつかのどこかで誰かと観た、人の痕跡のないその絵が脳裏にしがみ付いているの。人類のいなくなった後に巣食われている世界と繋がる窓に思えてきて、そこに吸い込まれるという強迫観念に駆られてどうにかなってしまいそうだった。」
隣で語らう女から目を逸らして、ふと前を向き直るとテレビが消えていた。消えていたというより、その以前の記憶が曖昧になっている。テレビは元々つけていなかったかもしれない。
しかし今の僕にとって重要なのはその真偽ではない。真っ暗な液晶パネルに反射するふたりの人影が、ずっとこちらを眺めている。そうしてテレビが消えているということを意識し始めてから、この空間の静けさが異様に思われたのだ。力強く冷徹な空っ風の音。あるいは重荷に悲鳴を上げるようにして響くトラックの振動音。僕と、僕を覆う屋敷が外界と繋がっていることを保証してくれる、そういった音は存在しないようだ。今この場では、僕らから発せられる声だけが孤独に響いていた。
僕はいったい……
「大丈夫なの? 飲み過ぎね。私も酔って話し込んじゃった。待っててね。」
女はソファから立ち上がり、黙って寝室へ歩いて行った。
そうして開け放たれた扉の奥には、彼女を令嬢と見間違えてしまうほどの立派な洋室が広がっていた。そのイメージの中心的な役割を担っているのは、アールヌーヴォーの純白なベッドカーテン。ヒラヒラと踊る布に連動して、緑っぽいインナーカラーのショートボブと、つい抱きしめて潰してしまいたくなるほどの華奢な身体、そして乱れて垣間見える白い下着がチラチラと見え隠れしている。どうやら毛布を剥ぎ取ってるようだ。
暫く見つめていると彼女、あるいは寝室そのものから発せられる、ゆったりとした芳醇な香水の匂いがこちらの部屋までやってきて、僕の全てを包み込んで引っ張ってきた。
意識と無意識の混濁する中で立ち上がった僕は、流れに身を任せて歩いていた。
敷居を踏み越えてゆきながら、何気なく眼鏡を掛け直す。どうも耳とモダンの部分がうまく調和しない。あれやこれやと試行錯誤をしているうちに、ふいに視界が百八十度転回した。
「きゃっ」
黄色い声が張り上げられる。
僕はどうやらベッドサイドで肉体に覆い被さってしまったようだ。この全くの不注意を紳士として詫びねばならない。だが、この刹那の衝撃によってなぜ此処にいるのか、この女が誰であるのかも徐々に思い出し、意識がそちらへ傾いていた…
こうして善良な市民であったはずのひとりの人間は、紳士免許剥奪に留まらず、強制性交、住居侵入、その他諸々の罪によって前科一犯に仕立てあげられる恐怖に怯えることとなったのだ。
僕がこのような失態を犯した現在に辿り着くには、まだ日付けも変わらぬ黄昏の光に期待の眼が輝いていた頃にまで遡る必要がある。
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