第5話 言わないで

 バタン、と麗香がドアを閉める音が聞こえた。

リビングのソファに倒れ込むようにして寝そべる。欠伸をしながら時計を確認すると、まだ午後になったばかりだった。


 「あれ、寝るの?」

手を洗い終わった麗香が私に近づく。

「別に、寝ないけど......ちょっと疲れて」

「まだかなり時間あるし、寝れば?佳世乃疲れてるでしょ、タクシーで寝てなかったもんね」


 タクシー、と聞いて先程の出来事を思い出す。

なぜかぶわっと身体が熱くなった。すごく、恥ずかしくてどうしようもなくなる。


 「ご飯、さっき控室で食べてたよね」

「うん」

「じゃあ寝ときな。あたしはご飯食べてるから」

うん、と頷いて瞬きをすると、瞼がいつもより重く感じた。

麗香の足音を聞きながら、ゆっくり目を閉じる。


*


 目を覚まして最初に見たのは、午後四時を指す時計だった。

はっ、と勢い良く起き上がる。私はあのまま四時間も寝ていたのか。


 まだスタジオに向かうまでかなり時間があるとはいえ、なんだか時間を無駄にしてしまったような気分になる。


 次に、私の腰を抱いているなにかに気づいた。

見なくても分かる。それは麗香の手だった。


 私が寝ていた間に、彼女は私の後ろに滑り込んで、勝手に私を抱き枕にしながら寝ていたらしい。自分は眠くないような振りをしていたくせに、と思いながら再びソファに寝転ぶ。


 無防備な彼女に悪戯心を刺激され、寝返りをうって彼女を正面から抱きしめた。

これでも起きないか。少し笑いそうになっていると、隙をつくように麗香は私の腰を撫でた。


 「......起きてるなら言ってよ」

唐突に恥ずかしくなりそう言うと、麗香は目を瞑ったまま小さく笑う。

「ちょっと前まで本当に寝てたし」

麗香はゆっくり目を開けて言った。


 「それより何、抱きしめちゃったりして。私のこと好きなの?」

意地悪な笑みを浮かべる麗香。


 好きではある。当たり前だ、学生時代からずっと一緒に生きてきたのだから。

けれど、そう言ったらからかわれる気もする。

とはいえ好きじゃないと答えても何かしら変なことを言われそうだ。いつも麗香は、私の作った隙の間を縫って、小さな本心を見つけては楽しそうにからかう。


 「......好きだけど」

悩みに悩んで、正直にそう答えた。

麗香は私の耳元に口を近づけて、「私も好きだよ」と囁く。


 生温い息を吹きかけられて思わず声を漏らす。

麗香はそんな私を弄ぶように、私の耳たぶを軽く噛んだ。


 「......やめて」

「佳世乃、それ本当に思ってる?」

「思ってる、から」

へぇ、と微笑む麗香。私の言葉を信用していないことがよく分かる笑みだった。


 「思ってないでしょ、佳世乃は耳が弱いもん」

「そんなのなんで分かるの」

「だってさ」と言い、なにか言いたげな表情を残して口を閉じる麗香。

「何、言ってよ」


 「耳に囁かれたとき、凄い顔してるよ」

凄い顔、と心の中で唱える。

「凄い顔って、何」


 「顔が赤くて、目がとろんとしてて、口は半開き。毎回気持ち良さそうな顔してて、そうだな、分かりやすく言うなら、凄く破廉恥な顔、かな」

麗香の言葉が私への仕返しだと分かっていても、彼女の言う私の顔を想像してしまって言葉に詰まる。

私の知らないところで私がそんな顔をしているのが恥ずかしくてたまらなかった。


 「......ちょっとさ、もう、やめようよ麗香」

何も分かっていない顔をしている麗香を真っ直ぐ見つめてもう一度言う。

「もう、やめよう」


 「......何を?」

麗香は訝しげに片眉を上げた。

「最近凄く距離が近い気がするの。お互いちょっとおかしいし、もっと前みたいな関係でいようよ」

私がそう言っている途中に何度も顔を顰める麗香。


 「あたし凄い嫌だな、それ言われるの」

麗香は目を伏せてそう言った。

「佳世乃に分かりやすく言うと、顔と名前も覚えてもらってるような推しに勝手に可能性を期待して、熱愛が出た途端その気持ちが全部崩れ落ちてく感じ。凄く、嫌だ」


 麗香がこんなにも分かりやすくなにかを嫌がるのは珍しいことだった。

少し驚いて、そのまま「え、ごめん」と反射的に言う。

「本当に思ってる?」と麗香は小さく笑った。


 彼女の言葉の真意はよく分からないけれど、私の言葉が気に入らなかったことだけは確かだった。


 「それにさ佳世乃、良い事教えてあげようか」

よく分からないまま流されて頷くと、麗香は楽しそうに言った。

「私がおかしいのは元から。佳世乃が最近私に近づいてきただけだよ」

「......そんなことないと思うけど」


 「ううん、ある。おかしいって思ってるってことは、そういうこと。ほんの一歩私に近づいただけ。あたし達は何も変わらないし、変われない」

麗香は目を伏せて、淡々と語る。


 「今日の麗香、ちょっとよく分からないよ」

「......私はね、いつだって佳世乃がよく分かんないよ。殺すかキスするか、どっちかにして。いつだってあたしを半殺しにして、穴の空いた肺で息を吸わせてる。」

麗香は目を伏せたままそう言った。


 彼女の言っていることが全く理解できなかった。

殺すかキスするか、と頭の中で繰り返す。麗香は私に何を求めているのだろう。私の何が気に入らないのだろう。

「ごめん、麗香。私麗香のこと何も分かってないのかも。麗香は何が言いたいの?」


 「佳世乃の瞳に映るのはあたしだけで良い、って言って。どんなに弱いあたしでも、どんなに気持ち悪いあたしでも、生きてくれれば良いって言ってよ。」


 彼女の言葉に自然と息を呑む。

麗香からそんなに弱々しい言葉が出るとは思わなかった。いつも弱音を吐くのは私の方で、沢山慰めてもらってきたはずなのに、なぜかどんな風に声をかけてもらっていたのかが思い出せない。


 離さないように、しっかりと、彼女を抱きしめた。


 いつも私がそうするように、温もりを感じて欲しかった。なんて声をかければ良いかなんて分からなかったけれど、私の体温が、私はここにいるよ、と彼女に伝えてくれると思った。


 私の瞳に映るのは麗香だけで良い。恋人にだって恥ずかしくて贈れないようなその言葉を、どうして私に求めるのだろうか。


 抱きしめた瞬間、彼女の喉の震えを感じた。


 「......ごめん佳世乃、変なこと言って。そんなの無茶だよね。分かってるのにな」

麗香はそう言ったきり何もしなかった。ただ数分間私はお互いの体温を確かめ合うように抱き合っていた。


 「ありがとう、佳世乃」

麗香はそう言い強く私を抱きしめたあと、元気良く起き上がった。


 たまに貼り付けたように見える彼女の笑顔の裏に隠れているのは、触れたら崩れるほどに弱いガラスの顔だったのかもしれない。

ふと、そう思った。

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