第12話 怪物
怪物の腹の中で、フルートたちは無事でいました。
怪物が海水ごと彼らを呑み込んだとき、波の馬が流れに乗って一気に腹の中まで駆けていったので、鋭い歯にかみ裂かれずにすんだのです。
怪物の胃袋の中は湿っぽくて暖かく、そして、むっとするような悪臭でいっぱいでした。
ほんの少しの光も差さないので、本当に真っ暗闇です。
「ワン、何も見えませんね」
とポチが困ったように言いました。
フルートも困ってしまいましたが、ふと、黒い霧の沼に行ったときのことを思い出して、鎧からペンダントを引き出してみました。真っ暗な霧の中で、金の石は自ら輝いて、行く手の道を示してくれたのです。
思った通り、外に出たとたん魔石は光り出して周囲を照らしました。
そこは薄紅色の洞窟でした。
怪物が巨大なので、胃袋も十メートル近い奥行きがあります。
周りの至るところで、ひだの寄った肉の壁がうごめいています。
彼らの足下には水がたまっていました。
どのくらいの深さがあるのか、見当がつきません。
波の馬は今は立ち止まって、水面の動きに合わせて揺らめいていました。
水の中に溶けて骨になりかけた魚や鳥を見つけて、フルートはどきりとしました。
あわてて腕の中のポチを抱き直して言います。
「絶対に馬から下りちゃだめだ。下にあるのは胃液だよ。中に入ったら、ぼくたちまで消化されてしまうんだ」
ポチは毛を逆立てて、波立つ胃液の海を眺めました。
確かに、そこに沈む死骸は見る間に溶かされて小さくなっていきます。
ただ、波の馬だけは、水でできているので、消化される心配はないようでした。
「ワン、これからどうしましょうか?」
とポチが言いました。とりあえず溶かされる心配はないものの、時々胃袋の洞窟は上下が入れ替わるほど大きく揺れ動き、そのたびに胃液が激しく波立ちます。
波の馬は器用に流れに乗りながらやり過ごしますが、いつフルートたちが馬の背から落ちてしまうかわからない状況です。
フルートは、周りを見回しながら考えました。
怪物の胃を切り裂き腹を
おそらく、たっぷり十メートル以上の厚みがあるでしょう。
ゼンと違ってフルートは非力です。それだけの肉と脂肪を切り進み、丈夫な皮膚を切り裂いて外に出る自信はありませんでした。
剣も途中で折れてしまうかもしれません──。
すると、突然波の馬が言いました。
「クジラの口を開けさせてください。そうすれば、私が駆けて外に飛び出します」
フルートとポチはびっくり仰天しました。馬はここまで一言も口をきかなかったので、てっきりしゃべれないのだと思っていたのです。
けれども、フルートは驚きながら、二つの不思議なことに気がついていました。
「クジラって……やっぱり、これはクジラなの? それに、君はなぞなぞの呪いにかかっていないんだね?」
波の馬が水の首を巡らして、フルートたちを振り返ってきました。
その瞳は深い海の青、口から聞こえてくる声は、波の泡立つ音によく似ていました。
「私は呪いの後で生まれた生き物なので、普通にしゃべれるのです。渦王が東の大海に呪いをかけたとき、海王様は大変お腹立ちになって、自ら渦王の島に乗り込もうとされました。そして、海の馬車を引かせるために、波から私たちを作られたのです。けれども、その直後に海王様は渦王に
それから、馬はまた首を巡らして、胃袋の洞窟を見回しました。
「ウミツバメが言っていたとおり、これは確かにクジラです。本来の姿とは似ても似つかない姿になっています。渦王の呪いが海をおおったとき、多くの海の生き物たちがこんなふうに姿を変えられて、凶暴な怪物になってしまったのです」
「ワン! ゼンが吐き出した人魚の涙を呑み込んだ黒い魚! あれも三本の角を生やしていて、怪物みたいな形をしていましたよ!」
とポチが言ったので、波の馬はうなずきました。
「怪物になった生き物は、渦王の意のままに動くようです。海王様を助けに来た勇者たちが
フルートは金の石を手にとって眺めました。魔石は金色に光りながら、奥のほうからきらりきらりとまた別の輝きを放っています。
「石が反応してる……」
とフルートはつぶやくと、顔を上げて馬に尋ねました。
「渦王は乱暴者で、よく嵐や津波を起こすって聞いていたけど、こんなふうに呪いをかけてきたことは今までにもあったの?」
馬は小首をかしげました。
「私は生まれて間もないので詳しくは知らないのですが、おそらく、初めてのことだろうと思います。海王様が私たちを生み出されたとき、『今度という今度は渦王を許すわけにはいかない』と大変お腹立ちでしたので」
「ワン、フルート?」
ポチが不思議そうに尋ねました。馬の返事を聞いたとたん、フルートの顔が怖いほど真剣になったからです。
「闇の力だ」
とフルートは言いました。
「金の石は闇の力が近くにあると反応する。きっと闇の力がクジラを怪物に変えたんだよ」
「ワン、闇の敵がいる、ってことですか?」
とポチが驚くと、波の馬が言いました。
「ですが、先ほどの嵐、あれは確かに渦王の仕業ですよ。あれほど大きな海の魔法を使えるのは、渦王以外にはいません」
フルートは考え続けました。
「今回のことは、確かに渦王の仕業だと思う。だけど、その後ろに闇の力がいて、渦王に荷担しているんだよ。だから、力が互角のはずの海王も、あっさりと渦王に捕まってしまったんだ」
「ワン、その闇の力ってなんでしょう? また闇の敵が動き出しているんですか?」
とポチは背中の毛を逆立てました。黒い霧の中に潜んでいた闇の卵、天空の国を乗っ取っていた魔王――そんな闇の敵たちを思い出したのです。
フルートは厳しい声で続けました。
「敵の正体はわからない。でも、渦王のそばに闇の敵もいるんだとしたら──ゼンが危ない!」
ポチは目を見張りました。背筋を冷たいものが走り抜けて、逆立った毛を震わせます。
フルートは背中から炎の剣を抜きました。
「こいつに口を開けさせればいいんだね?」
と波の馬に言いながら、両手で剣を構えます。
お化けクジラの胃袋は大きく動き続けています。フルートは胃壁めがけて、思いっきり剣を振りました。
ゴウッ!
音をたてて剣の切っ先から炎の塊が飛び出し、肉色の壁に当たりました。炎が飛び散り、肉の焼ける匂いが立ち上ります。
とたんに、胃袋の中は大荒れになりました。
上下左右がめちゃくちゃに入れ替わり、胃液の海が大波を立てます。
クジラが胃を襲った熱と痛みに驚いて身もだえしたのです。
あわてて馬にしがみついたフルートの膝から、風の犬になったポチが飛び出していきました。
「ワン! ぼくもやります!」
風になってしまえば、胃液で溶かされる心配もありません。
ポチは胃袋の中を縦横無尽に飛び回ると、鋭い風の牙でところかまわずかみついていきました。
クジラはまた大暴れして、海の中を転げ回りました。
胃の海もめまぐるしく回転しますが、波の馬がその動きにぴったり合わせて走るので、フルートが胃液に飛び込むようなことはありませんでした。
フルートはまた剣を振りました。炎が音をたてて胃壁に炸裂します。
すると、ぐうんと急上昇するような感覚がして、遠くから激しい水音が聞こえてきました。
天井にぽっかりと穴が開いて、胃袋に冷たく澄んだ空気が流れ込んできます。
次の瞬間、お化けクジラの吠える声がとどろきました。クジラが海面に飛び出して悲鳴を上げたのです。
天井の穴の彼方に星の輝く夜空が見えます。
「あそこが出口だ!」
とフルートは叫びましたが、クジラがまた横転したので、いそいで馬につかまりました。
クジラの胃袋の中に、どうっと水が流れ込んできました。
胃を焼く熱と痛みを消そうと、大量に海水を呑み込んだのです。
「行きますよ!」
と波の馬が言って駆け出しました。
「ポチ!」
フルートに呼ばれて風の犬が飛び戻ってきました。フルートの腕の中で子犬に戻ります。
馬は、流れ込んでくる海水の上を、しぶきを立てながら駆け上っていきました。
まるで流れ落ちる滝をさかのぼっていくようです。
猛烈な水音が彼らを包んで、それ以外は何も聞こえなくなってしまいます。
フルートは剣を抱え、ポチを抱きしめて、必死で馬にしがみつき続けました。
そして――
彼らはクジラの口から海に飛び出しました。
海面は暴れ回るクジラが立てる波で大荒れに荒れていました。
波の馬はその上を越えて、どんどん遠ざかっていきます。
すると、クジラがまた頭を上げて空に吠えました。オォォォォン、と悲鳴が響き渡ります。
その声を最後に、怪物は海の中深く潜っていって、二度と戻ってきませんでした。
後には大きな渦巻きが残りますが、それもじきに消えていきます。
波の馬は立ち止まりました。
海面の波に合わせて揺れながら、怪物の消えた海を振り返ります。
「もう大丈夫ですね。奴は逃げていきました」
フルートは、ほっとして鞘に剣を戻しました。
「ワン、ウミツバメはいませんね……」
ポチが周りを見回しながら心配そうに言いました。
月に照らされた海上は明るくて見通しがききましたが、ウミツバメの黒い小さな姿はどこにも見あたらなかったのです。
クジラに呑み込まれたまま、だいぶ移動してしまったようでした。
すると、波の馬が言いました。
「大丈夫です。ウミツバメのおかげで、ずいぶん近くまで来ることができました。ここからならもう、私にも渦王の島の場所が感じられます。間もなく夜明けです。明るくなる頃には、渦王の島に着くでしょう」
フルートは海の上を見渡して、白み始めている水平線を見ました。
彼らが出発してきた東の大海の方向です。
水平線の上の星たちが、急激に光を失って薄くなっていきます。
「それでは行きますよ」
と馬は駆け出しました。
明るくなってきた東の空を背後に、暗い海の上を走っていきます。
スピードが上がるにつれて、その脚の下で白いしぶきが上がり、やがて泡立つ波しぶきに変わっていきました。水の蹄が海面をたたく激しい音は、とどろく波の音そのものです。
西へ、西へ、渦王の城のある島を目ざして。
フルートとポチを乗せた波の馬は、ひたすらに走り続けていきました――。
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