「三すくみ」と「自己犠牲」
森本 晃次
第1話 城下町
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年5月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。このお話は、真実っぽい過去の話はあっても、あくまでも、登場する国家、政府、関係者、組織は架空のお話になります。国家や省庁で、どこかで聞いたようなところも出てきますが、あくまでもフィクションです。今回は、精神疾患の遺伝について書いていますが、この病気はあくまでもフィクションですので、ご了承ください、
ここK市というところは、昔からの城下町で賑わっていた。
そのくせ、どこか、京の街にも似ているところがあり、一種異様な雰囲気を醸し出した街だった。
というのも、街の中心部に川があるのだが、そこから右と左では、まったく様相が違っているのだった。
左側は、昔からの武家屋敷が広がっていて、その奥の小高いところには、城址としての公園が広がっている。
県が管理していて、城下町として、全国から、観光客がやってきて、春夏秋冬、どの時期も賑わいを見せている。
逆に右側はというと、今度は、
「商人の街」
という感じが漂っていて、そのあたりには、寺社も結構あるようだった。
と言っても、この商人の街までが、すべて、
「お城の総構え」
と言ってもよかった。
城の三の丸から、本丸に掛けては、石垣が残っていた李、祠もある。。
現存ではないが、天守も聳えていて、観光客が、どの季節も多いのだった。
城下町と、
「商人の街」
とを隔てている川は、結構大きく、立派な一級河川となっているのだが、どうやら、そこが、城下町の、
「内濠」
なのだという。
この、内濠の内側が、完全な城の防衛ラインということであり、三の丸のまわりには、家臣の武家屋敷が建ち並んでいる。
そのまわりに、いくつかの櫓が設置され、その櫓と櫓の間にも、
「多門櫓」
と言われる、
「廊下と、櫓を組み合わせたようなところ」
があるのだった。
武家屋敷も、結構広く、重要家臣ともなると、大きな屋敷を構えているが、下級武士ともなれば、
「長屋」
のようなところに住んでいるのであった。
今でも、社長や重役は、大きな屋敷に住んでいて、一般に平社員とのなると、コーポのようなところや、公団だったりする。それを思えば、何も珍しいことではない。
このK市にあるお城は、元々は、戦国時代からあった城ではない。
元々は、この街はここまで賑やかなところではなかった。少し離れたところの方が賑やかで、江戸時代に入るまでは、このあたりは整備もされていなかったという。
元々は、戦国時代の領主は、海岸沿いに、
「海城」
のようなものを作っていた。
「貿易をするには、海洋貿易を行うための海城がいい」
ということで、配下にいる、ちょうど、その頃に、
「築城の名手」
と呼ばれた人の、
「縄張り」
によるものだった。
そもそも、海城も、ここが、海上貿易の要衝であったことを示しているが、実は、
「海賊」
というものの、根拠でもあった。
そんなこともあってか、戦国大名がこの地に、城を築けなかった理由である。
ただ、途中から、大名と海賊の間での、
「利害」
というものが一致して、
「この土地は、俺たちの土地だ」
と、海賊が言っていい代わりに、賄賂のようなものを取っているといってもよかった。
「一応、大名は関わっていない」
というのが、建前であり、その建前を前提として、
「海賊と、戦国大名の同盟が結ばれる」
ということになったのだ。
だから、陸上だけで戦をしていても、海上からの支援もある。
城に籠城すれば、後ろから、海賊が兵糧を運んでくるから、いくらでも耐えられる。
「秘密の出入り口さえ作っておけば、いくらでも、食料、弾薬を運び込むことができるというものだ」
だから、最大、二年ほど籠城に成功したという例がある。
他の土地でそんなことが信じられるわけはないではないか。
だからこそ、海城としての、奇抜な構造は、まわりの、そういう目を欺くという意味でも実に効果的だったのだ。
「俺たちの城は、隠れ蓑にもなるんだな」
という意味で、
「戦国時代の城というのは、敵を欺くという点で優れているところも結構いっぱいあるのだ」
と言っても過言ではない。
そんな海城において、最初は、海賊だった連中と戦を行うことで、海賊をも、自分たちの味方に引き入れることに成功した。
これが、彼らが、
「戦国時代を生き抜いてこれた理由であった」
といっても過言ではないだろう。
この水軍の活躍については、昨今の本で紹介され、さらに、小説にもなったことで、一躍有名となり、おかげで、映画にもなり、さらに有名になった。
観光客がさらに増えて、この城は、元々廃城となっていたのだが、観光客のおかげもあって、模擬天守が建てられることになった。
さすがに、同じ市内に、元々のでかい城があるので、差別化の意味で、それほど大きんな城にするわけにもいかず、せめて、天守というよりも、
「御三階櫓」
という程度のものになったのだった。
これは逆にいうと、その後に建設された今の、この街の祖と言ってもいい城が、
「どれだけ大きかったのか?」
ということを示している。
だから、今でこそ、遺構はそこまで残っているわけではないが、ところどころに残っている門の後であったり、古文書などから推察すると、
「市内の半分近くが、城の総構えのうちにあった」
といってもいいだろう。
今分かっている全国でも有名な総構えの広さとしては、
「小田原城」
あるいは、
「江戸城」
などが有名であるが、そこには及ばないとしても、かなりの広さを誇ったことは、紛れもない事実だったのだ。
実際にここの拠点となっている城には、元々の水軍を使った拠点の海城が、戦国時代には、実質的に、実用に特化した城ということで、大いに活躍した。
しかし、時代は、江戸時代に入った。関ヶ原では、東軍に与し、大きな手柄を上げたということで、江戸から見て。遠くに移封されはしたが、石高は、数倍に加増され、外様ではあったが、大大名と言われるようになったのだった。
その関ヶ原が終わってすぐくらいから、ここの当主は、大きな城を築くことを、最初から模索していたのだ。
「今までの海塩は、あくまでも、戦国の城」
群雄割拠の中で、貿易にも、戦にも特化した戦ができるという意味で、最高だったのだ。
特に、水軍が充実しているということや、籠城戦に長けているということから、この城は本当に重宝した。
だが、関ヶ原終了後は、
「豊臣恩顧の大名が、謀反を起こした時の抑え」
ということもあり、
「海城では、心もとない」
あるいは、
「徳川の時代では、戦はなくなる」
ということを見越して、海城以外に、
「領地を収めていく」
という理由と、
「政務を行うために必要な施設」
ということでも、新たな城の建設が急がれたのだ。
だから、この街は、
「拠点となる城と、従来の海城の、二大拠点で運営する」
ということが考えられた。
そのために、とりあえずの、巨大な城下町の建設が急がれたのだ。
ちょうど、作り始めたのが、関ヶ原の翌年からだった。
実は、当主は、以前から、
「大きな城下町の建設には、夢のようなものを抱いていて、世の中が落ち着けば、城下町にての政務を行うための、拠点として、君臨する」
ということを想像していたのだ。
だから、移封されてからの、最初に手掛けたことが、この城下町の建設だったのだ。
実際に以前のこの土地というのは、海城を中心としたものであったが、実際の土地は、ほとんど手を付けれらておらず、農地だったのだ。
といっても、このあたりの農地は、広いだけで、実際に農家がコメを作っている範囲はそれほどあるわけではなかった。
コメ以外のものも作っていて、それが、
「このあたりの名産」
として、今にもいきつがれ、
「全国的にも有名な、お土産物」
ということになっているのだ。
だから、そういう特産品もあるのだから、農民が勝手におのおのの農業をやっているという、
「いかにも、田舎の土地」
というイメージだったのだ。
もちろん、太閤検地などで、一度は土地区画などが行われたが、検地が終われば、結構曖昧になった。
それだけ、大阪や京からは、遠いところに位置していたということであった。
そんな土地において、
「これからどうすればいいというのだ」
ということに関しては、以前ここを収めていた領主は、なかなかビジョンを持っているわけではなかった。
もっとも、それは、まだまだ群雄割拠という時代だったから、それも仕方のないことだった。
豊臣政権になってから、若干、天下が統一されていき、内政に関しても、秀吉配下のしっかりした体制が築かれてはいたが、
「すべてにおいて、天下泰平」
というところまでは、まだまだ難しかったのだ。
確かに、四国から九州。さらには、関東、東北までと、順調に平定され、世の中は、
「豊臣政権による。武家政治」
が行われていた。
その政策は、大筋で、間違ってはいなかったはずだ。
その後の徳川政権でも、ほとんどのやり方が、豊臣政権を踏襲していた。
実際には、
「どんどん厳しくなっていった」
というのが、事実ではあるのだが、豊臣政権は、天下を統一してからというもの、どこか異常な面が見え隠れしているのだった。
特に、豊臣政権において何が行われたのかというと、
「千利休の切腹」
さらには、
「秀次事件」
などが大きかった。
秀次事件というのは、秀吉による、粛清に近かった。
しかも、
「濡れ衣」
ということが、実しやかに囁かれ、今では完全に、
「秀吉の暴走」
ということになっている。
というのも、この話は、実は歴史的には、初めてではなかった。
何度も繰り返されてきたことであり、古代であれば、
「持統天皇」
中世であれば、
「足利義政と日野富子」
などがいい例であった。
秀吉には、正室の、
「おね」
の他に、側室が数名いたが、そのうちの一人である、浅井三姉妹の長女、茶々が、一度、鶴松という子供を産んだのだが、2歳で死んでしまった。
さらに、秀吉が不幸だったのは、
「自分があてにしていたり、大切にしていた人が、どんどん死んでいく」
ということが実際にあったからだ。
息子の鶴松はもちろん、母親である、
「大政所」
さらには、政治的にも、武士としての総合的な参謀として一番期待していた、弟の秀長の死は、相当なショックだったに違いない。
そんなこともあって、かなり、憔悴していたのは、無理もないことだとは思うが、秀吉は、
「もう自分には男の子が生まれないかも知れない。自分もどうなるか分からないから、今のうちに、跡取りを決めておかなければいけない」
という妄想に取りつかれていた。
そこで決めたのが、自分の甥っ子である、秀次を養子ということにして、
「自分の関白職を継がせる」
ということであった。
そこはスムーズにいったのだが、何と、すると近年になって、茶々が、男の子を産んだのだ。
「しまった」
と思ったのは、秀吉だっただろう。
正妻のおねが、
「秀次殿には、娘がいるので、今回生まれた子供と結婚させて、関白職を譲らせれば、一番しっくりくるのではありませんか?」
という妙案を出してくれたのだ。
ここから先は、どこまでが本当なのか分からないが、それから先の秀次は、その妙案があっても、
「自分はいずれ、関白を追われてしまう」
という妄想に取りつかれたのが、乱行を繰り返すようになったというのだ。
それを聞きつけた秀吉が、秀次を高野山に幽閉させ、しかも、その時に、囁かれていた、
「謀反の疑い」
という理由で、切腹させられてしまったのだ。
今では、
「秀吉が、秀次に謀反の疑いを掛けたのも、失敗だったのではないか?」
と言われている。
もっとも、後ろには黒幕がいて、
「すべてを企んだ人がいる」
ともいわれている。
石田三成という線が大きいが、果たしてどこまでが本当のことなのか、誰が分かるというのだろう?
さて、そんな、
「繰り返された歴史」
であったが、まったく同じことが、約120年くらい前の、室町時代に起こっていたのだ。
というのは、足利将軍第八代目の、義政の時代のことだ。
義政自体は、あまり政治に興味があったわけでもなく、管領からすれば、
「頼りにならない将軍」
ということだっただろう。
しかも、彼には、跡取りが生まれなかった。
そこで、
「仏門に入っていた弟を還俗させて、将軍に据える」
ということを行ったのだが、間が悪いことに、こちらも、すぐに、正妻の日野富子に、男の子が生まれたのだ。
日野富子は、自分の子供を将軍にしたいと切望するようになる。
将軍に指名されていた義政の弟には、当時の管領の細川勝元がついていた。
しかし、その細川と対立していた、山名宗全がいることに眼をつけた日野富子は、山名を呼び出し、
「この子を将軍に付けたいのだが、協力してほしい」
と願い出る。
山名からすれば、
「好奇至れり」
と思ったことだろう。
何しろ、
「これで、堂々と細川と渡り合える大義名分ができた」
というものだ。
さらに、有力御家人の対立も絡んで、京の街を舞台に、
「細川勝元を東軍、山名宗全を西軍」
として、全国の大名を動員する形で、大きな戦に発展することになるのだが、それがmいわゆる有名な、
「応仁の乱」
というものであった。
11年という期間、京都で小競り合いが頻繁に起こり、京の街の建物は、
「ほとんど焼け落ちた」
と言われるほど、悲惨だったのだ。
いつ終わるとも知れない戦であったが、終わる時はあっという間だった。
まず、細川勝元と山名宗全が、それぞれ続けて亡くなったということ。
もう一つ大きかったのは、
「自分の土地を留守にして、京都で戦をしていた守護大名の自分の土地で、守護代であったり、国人などの家臣が謀反を起こし、足元に火がついたという状態になってしまっていた」
ということで、
「急いで国元に戻らないと」
ということで、京都でいくさなどしている場合ではなくなった守護大名は、次々に国元に戻っていくということになれば、もう京の都で戦など起こるわけはなかった。
そういうことでの、一種の、
「自然消滅だった」
と言ってもいいだろう。
それが、応仁の乱の終わりであり、もっといえば、足利幕府が地に落ちたいということであったのだ。
ここでいう、
「国元の守護代や国人が謀反を起こす」
ということが、横行していった。
これがいわゆる、
「下克上」
というものだったのだ。
これがどういうことなのか?
というと、それこそが、
「戦国時代の始まりだ」
ということになるのだ。
「戦国時代の始まりについては。諸説あるが、この応仁の乱というのが、一番説得力がある」
というのは、明らかな下克上が起こったからだといえるに違いない。
そんな時代の120年後、秀吉が、ほぼまったくと言っていいほど、同じことを引き起こしたのだ。
もっと言えば、古代にも、持統天皇が、
「自分の息子を天皇に即位させたい」
と願ったことで、他の女が生んだ子供が最有力候補だったのだが、彼に謀反の疑いを掛けて、葬ってしまったのだ。
ちなみに、持統天皇というのは、天武天皇の皇后だったのだが、天武天皇が、先に死んでしまったことで、自分が即位し、後継が育つのを待っていたというところであった。
この時も、せっかく、謀反の濡れ衣を着せてまで、息子が後継者となったのに、その息子が間もなく死んでしまうことになる。そこで、自分が天皇の座を守ることで、孫に何とか天皇の位を譲ることができたのは、せめてもの良かったことであろう。
古代から中世にかけて、同じことが繰り返され、
「時代は繰り返す」
と言われても仕方のない事件が続いていくことになるのだ。
そういう意味で、徳川家康が懸念していたのは、
「後継者争いにおける問題」
というものを一番に考えていたということであった。
三代将軍の後継者問題において、
「長男の竹千代を後継者に」
ということで、春日局が、駿府にいる家康に直訴したという話は、あまりにも有名なことであるが、その時に、
「後継者問題は、お家を潰す一番の原因となる。基本的には、長男が世襲するのが当然である」
ということで、秀忠、お江の夫婦が推していた、
「次男の国松」
ではなく、後継者は、長男だということにしたのも頷ける。
春日局の進言があったからであろうが、家康自身も、このあたりはハッキリさせたかったのかも知れない。
しかし、今は次男に将軍職を譲った以上、しかもその次男が、
「弟の国松を将軍にしよう」
と考えていた時点で、厄介なことになっていたのである、
っそれを、
「ちょうど直訴してきた春日局の肩を持つ形で、まわりに周知徹底させられたということは、願ったり叶ったりの出来事だった」
と言えるのではないだろうか?
下手をすれば、
「最初から家康が企んで、書いたシナリオだったのかも知れない」
と言えるのではないだろyか?
秀吉の策略から、後継者は自分の息子ということになったのだが、これが結局、
「豊臣家滅亡につながる」
というのだから、実に皮肉なことだった。
秀吉亡き後、家康は策を弄して、関ヶ原で石田三成を破ることで、江戸に幕府を開くことになるのだが、そこから、家康は、
「豊臣恩顧の大名に悩まされることになる」
というのだ。
まだまだ秀頼がいることで、徳川政権は安泰とはいえない。最終的には豊臣家を滅亡させなければ、死んでも死にきれない」
と思っていたに違いない。
家康の目的は、
「戦のない世を迎え、その頂点に徳川が立ち、その時代を、子々孫々にまで広げることだった」
と言ってもいいだろう、
家康は、そのために、豊臣家を
「大阪の陣」
で滅ぼし、徳川時代の基礎を築いていくことになったのだ。
本人は、豊臣家滅亡の翌年死んでしまうが、その意思は、子孫にまで受け継がれていくことになる。
何と言っても、
「260年の太平」
という、世界でも希少価値な時代を作り出したのだから、すごい物であった。
もっとも、そのために、各諸法度、参勤交代の義務。身分制度の拡充。さらには、大名への、
「大規模な粛清」
ともいえる、
「改易処分」
を行ったのだ。
この街の城ができたのは、江戸幕府が成立する前から建設が始まり、約7年という歳月を費やして、城下町が出来上がった。
実際に同じ頃、家康の命令、あるいは要請があって、当時全国に同じような、豊臣恩顧の大名に対する対策として、たくさんの城が築かれ、大体その日数というのが、
「5年から7年くらい」
というのだから、これだけの土地を整備から始まっての建設に、
「7年」
というと、結構大変だったに違いない。
それが、この時代の普請能力だったのだろう、
「さすが日本人」
というところであろう。
このあたりは、外人にはできないところで、
「いざという時の集中力」
であったり、創意工夫の発想というのは、他の外人にマネのできないものとして、誇ってもいいのではないだろうか?
そんな時代をいかい過ごしていくのか、このあたりが問題になってくる。
しかし、
「元和堰武」
という、家康が、
「天下泰平の時代の到来」
というものを宣言させたことで、一つの時代が終わりを告げたことになるのだった。
そんな時代において、お城というのがどうなったのか?
当時の幕府は、
「平和になった時代で、幕府による、統一国家をつくるということを考えると、まず大切なのは、各大名で戦争を起こさないことと、幕府に歯向かうことのようにないようにしないといけない」
ということである。
そのために、
「粛清」
というものを、
「改易」
という、お家取り潰しによって、行うことになったり、参勤交代を義務化して、
「大名に金を使わせて、力を削ぐ」
ということを中心に行うようにしていた。
さらに、城というものも、今までは、
「豊臣の抑え」
としてたくさん作ったが、今度は、それが、邪魔になってきたということで、幕府が出した命令が、
「一国一城令」
というものであった。
つまりは、
「執務のための城」
というものが、
「一つの領主に一つあればいい」
ということで、
「他の城は取り潰せ」
ということであった。
だから、せっかく最近作った城でも、
「数年で取り壊す」
ということになったのも、結構全国にはたくさんあったことだろう。
それが、まず、歴史の中で、最初に起こった。
「お城の危機」
というものであった。
次に起こったのは、江戸時代というものが、
「尊王倒幕」
ということで、
「幕府を倒し、明治新政府が成立する」
という時代になると、もはや、
「近代兵器の前に、城は無用だ」
ということで、基本的には、
「すべてを壊す」
ということで、
「廃城令」
出されたのだ。
跡地を軍であったり、県の施設として使うものもあれば、中には、安価で、
「民間に払い下げ」
などという城もあった。
明治になると、城というのは、
「無用の長物」
ということなのだ。
それが、城の運命だった。
しかし、それでも、大きな城や、軍事目的になっている城などは残されたりした。
その中で、再度、
「お城の危機」
というのが、再度訪れたのだ。
それが、
「大東亜戦争時代においての、連合分による、無差別爆撃」
だったのだ。
元々、連合軍は、国際法に乗っ取って、軍事施設のみをピンポイントに爆撃していたのだが、
「連合軍側の被害が、高射砲などによって出る一方だ」
ということで、
「仕方なく」
無差別爆撃という暴挙を行ったというが、
「国際法違反である」
ということに間違いない。
連合軍は正当化するが、あり得ることではないのだ。
その無差別爆撃で、大都市に残っていた城もいくつか崩壊することになった。有名なところで、
「大垣城」
「名古屋城」
「岡山城」
などであり、広島城に至っては、一発の爆弾で、
「死の街」
と化したことで、完全に燃え尽きたのだった。
それが、
「原子爆弾」
というもので、これこそ、連合軍の欺瞞であり、
「アメリカ兵の犠牲を最小限にするため」
というもっともらしい理由を残して、日本の二つの都市を廃墟にしたのだった。
しかも、その影響は数十年に渡って及び、今でも苦しんでいる人が少なくないというのは、周知の事実だった。
しかも、
「唯一の被爆国であり、しかも、今のソーリが広島出身」
ということでありながら、
「非核条例」
から脱退するなどという、とんでもない暴挙に出るのだから、信じられないと言ってもいいだろう。
そんなこんなで、城というのは、時代とともに、滅んでいったのである。
今でこそ、
「模擬天守」
というものが主流で、天守が建てられているが、ほとんどが、あてにならない。
「観光目的で再建、いや、作られた城ばかりである」
と言える。
何といっても、
「日本の模擬天守の中で、いくつの城が、犬山城を手本に作られたのか?」
ということである。
これが、今の城の事情であり、観光目的にところも多い。
そんな時代となり、
「城址公園が整備されていくのを見るのもいいことだ」
と思っている人が多いことだろう。
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