ゲームテキスト置き場
阿部狐
零落と紺碧の海神
同じ夏が訪れることはない。過ぎ去った雲が戻ってこないように。
漁業が盛んな郷村で、僕は生まれた。母が言うには、初夏の晴れた昼下がりだったという。空も海も青く澄み渡っていたから、僕を「蒼海(あおい)」と名付けたらしい。
父は村でも名の知れた漁師だったものだから、僕は漁師の後継ぎとして、たいそう期待されていた。名前に「海」が含まれていたのも、そういった願掛けだったのだろう。
道を歩けば、老人たちから期待に満ちた眼差しを向けられた。「海神様の生まれ変わりだ」とはやされて、荷が重かったものだ。
一方、同級生からは距離を置かれた。どうやら、「僕が海神様」という老人たちの言葉を信じているようだった。地理歴史を覚えるように、僕を神様だと定義付けていたのかもしれない。今となっては、知る由もないけど。
僕は絵が好きだ。絵と漁業を天秤に乗せたら、まず前者に傾くだろう。漁の手伝いを怠けてまで、自由帳に絵を描いていた少年時代を、十九歳を迎えた今でも思い出せる。
そして、僕には幼馴染がいた。僕が絵を描いていると、垣根からひょっこりと頭を出す。そこで彼女の名を呼ぶと、向日葵のように微笑んで、縁側に駆け寄ってくるのだ。
彼女は明るい人だった。天真爛漫、楽観主義……彼女を表す四字熟語は、滝のように溢れ出てくる。
それでも一つだけ四字熟語を選べと言われたら、迷わず「奇想天外」を選ぶだろう。たとえば、彼女は大量の風船を携えて、空の彼方に消えかけたことがある。僕が伝えたいのは、これが比喩ではないということだ。
ただ、老人のように僕を崇めることもなければ、同級生のように距離を置くこともない。彼女は、僕を対等に扱ってくれる唯一の存在だった。
彼女がくれた紺碧色だけが、僕の幼少期を彩った。もしも僕のキャンバスから紺碧色が欠けたら、きっと雲のように純白で、冬のように退屈で、面白みのない絵画が描かれるだろう。
つまり、僕には彼女が必要だった。偽りの神である僕の手を引くような、女神の存在が不可欠だったのだ。
しかし、同じ夏が訪れることはない。夏が来るたびに、僕たちは歳を重ねるからだ。自由帳は磯臭くなって、彼女と接する機会も薄れていった。
大人にならなければいけなかったから。
だから、僕は自転車にまたがった。荷台に彼女を乗せて。
あの磯臭い海に、僕たちは向かう。
泥のようにまとわりつく、未練を断ち切るために。
午前七時。ペダルを漕いで、道路に飛び出した。漁網を持って談笑する男たち。僕は息を止めてすり抜ける。漁夫特有の、あの磯臭さが嫌いだった。どうしても好きになれなかったのだ。
「いい潮風だ。蒼海もそう思うだろう」
後ろから彼女の声が聞こえた。ちらりと後ろを向くと、彼女は荷台に横乗りしている。「危ないから掴まれ」といっても、濡羽色の髪をなびかせながら笑うだけだった。
変わらないな、と思う。その白いワンピースも、子供が背伸びしたかのようなサンダルも。そして、恐れを知らない能天気な表情も。僕だけが必死に走って、馬鹿みたいだ。
対して、僕たちの自転車は大きく変わってしまったようだった。数年前は輝いていたフレームも、今ではギイギイと音を立てて、赤褐色の傷跡を隠そうともしない。サビ取りでは到底消えないような、時の流れだった。
「魔物は私に任せてくれ。蒼海は、ただ自転車を漕いでくれればいい」
魔物という響きも懐かしい。かつての僕たちは、大魔王も恐れる勇者だった。木の棒を振り回し、封印されし光の魔法を操った。何度も世界を救って、僕たちは何度も結婚して、数千年も続く王国を築き上げたものだ。
それを知っているのは、僕たちだけだ。
「もう一度、世界を救う気にでもなったのかい?」
彼女の問いには答えず、代わりに強くペダルを踏んだ。
太陽が真上に昇る頃には、僕も彼女も額に汗を浮かべていた。
「暑い、暑い。このままでは干からびてしまうよ」
そこで、近くのバス停に自転車を停めて、二人してベンチに座った。数時間もペダルを漕いでいたからか、足を回していないことに違和感すら覚えていた。
一方の彼女は、満身創痍と言わんばかりの表情を浮かべている。僕が足を動かしている間、一人で魔物と戦ってくれたのだろう。彼女の努力を「空想との戯れ」と嘲笑するほど、僕は冷酷でもないし、大人でもないのだ。
「そういえば、バス停の裏に自販機があったろう」
彼女に言われて、二つのことを思い出した。一つは、田舎はやたらと自販機が多いこと。もう一つは、郷村の特産品を活かそうとしたのか「海水ソーダ」なる商品が販売されていることだ。
僕がバス停の裏に行くと、果たして自販機はあった。しかし、不運なことに、例のソーダ以外は売り切れている。
どうして不運なのか。それは単純な理由で、臭いからだ。僕は磯臭さが大嫌いで、そのソーダは磯臭い。しかしそれ以外の水分はない。
僕は真っ当に生きてきたつもりだ。しかし、残り物を掴まされた。炭酸水特有の、あのロケット状の底の形状すら、今は憎い。
ソーダを手にして、再びベンチに戻ってきた僕を迎えたのは、寂しそうに笑う彼女だった。
「君がソーダを飲むのも、これで最後になるのだろうか」
苦手といえども、このソーダに思い入れはある。いわゆる地元の味だ。哀愁を漂わせるような言葉を、まさかソーダ相手に引き出されるとは夢にも思わなかったが。
僕は深呼吸をした。磯臭さが含有された空気を、精一杯吸い込む。それから、今度はゆっくりとと吐き出す。「味わうんだよ」と、彼女が笑った。
僕はぎゅっと目を瞑り、一思いにソーダを口に当てた。空虚で無味の液体が流れ込む。磯臭い。鼻を摘まむと、今度は喉が焼けてくる。吐き気を催したが、彼女が凝視するものだから、僕なりの意地を見せた。
結局、ソーダは半分ほどなくなった。まだ喉が潤いを欲していたものの、進んで毒を飲むほど、飢えているわけでもないのだ。
「そろそろ行こう。太陽が沈む前に」
彼女がベンチから立ち上がり、額の汗を手で拭う。それに同調するように、僕は自転車のカゴにソーダを投げ入れた。それから、サドルにまたがる。
彼女が荷台に腰掛けると同時に、僕はペダルを漕いだ。
泥のような未練を断ち切るために。
道中、神社に立ち寄った。この神社を訪れることも、きっと最後だろうから。
拝殿を見つめて、思わず僕は、吐息と紛うような声を出していた。
「母さん」と。
母は、村を救った立派な人物だと言われていた。しかし、悪霊を祓ったわけでも、枯れた大地に雨をもたらしたわけでもない。
ただ、海に沈んだだけだ。僕と、乱暴な父を残して。
父のことで思い出したことがある。幼き頃の青臭い記憶だ。彼女に言えば、「子供みたいだな」と鼻で笑われると思う。
十歳の夏だっただろうか。その頃には、とっくに母は亡くなっていたし、僕と彼女は当たり前のように遊ぶ仲だった。
僕は絵が好きで、漁の手伝いを放棄するほどだった。一方、漁師の後継ぎとして期待もされていた。海に一生を捧げた父のことだから、海に対する僕の半端な態度が許せなかったのだと思う。
それは、家の縁側での出来事だ。突然父に殴り倒されて、最初は何がなんだか分からなかったものだ。「お前は海神様の天啓を受けたんだ」と言われて、ようやく、僕が出漁しなかったことを思い出した。僕にとって、漁はその程度のことだった。
今思えば、僕が悪い。なぜなら義務を放棄したから。ただ、いきなり顔をぶたれたものだから、冷静でいられなかったのだと思う。
「僕は漁師になんかならない」そう吐き捨てたときの父の顔を、よく覚えている。それこそ海神様を彷彿とさせるような、怒りと失望の入り混じった眼差しだった。
その日から、僕は絵に専念することができた。父は変わらず漁師を続けていて、還暦が目前の今も海に出ている。しかし、僕は勘当されたも同然の扱いで、消極的だった家族の会話すら失せた。元々、僕は父を含めた郷村の人々が大嫌いだったから。
宿命を放棄した僕を受け入れたのは、もはや彼女だけだった。
「命日、なんだよね」
彼女の言う通り、今日は母の命日だった。あれから十数年経っても、僕は母にすがりついていたのだと思う。
その証拠が、海水ソーダ。
母はソーダが好きだった。そして、父を愛していた。
父が漁に出たまま帰らない夜、母は決まってソーダを取り出した。「あの人の匂いだ」と、微笑みながら喉に流し込んでいたものだ。
そうだ。僕が好きだったのは、ソーダじゃない。ソーダを飲む母だった。
母が海に沈んでから、僕はソーダを買い始めた。買ってはコップに注ぎ、鼻を摘まみながら飲んだ。しかし、どうも磯臭さにはなれないもので、容器を空にするのに、一週間は必要だった。
ただ、僕が磯臭さを克服すれば、父を愛せるかもしれないと思ってしまった。子供ながら、母が愛した父を知りたかったのだ。先程、バス停でソーダを買ったのも同様の理由だった。今の今まで、嫌いなものを好きになろうとしていたのだ。
僕は深く息を吸って、それから、石畳にソーダの中身をぶちまけた。これは未練だった。母に固執した僕の未練だった。淀みなくこぼれるソーダの正体は、母の感情だ。
ただ愛されたかったんだ、僕は。神様と崇められず、母と父に囲まれた幼少期を過ごして、平凡な大人になりたかった。家の縁側で、三人で笑いたかった。
もう叶わない。母は死に、父は愛想を尽かし、僕は彼女と出会ってしまった。
海に沈む前の母と、全く同じ格好をした彼女と。
結局、ソーダは一口分だけ残した。喉が渇いたときのためか、それともまだ未練があるのか。今の僕には、分かりそうもない。
「打ち水みたいだ。涼しいね」
その柔和な笑顔、そして仕草。まるで母の生き写しだ。僕が彼女に特別な感情を抱くのは、つまり僕が母を愛していた一番の証拠なのだと思う。母は、僕の絵を褒めてくれる人だったから。
「……ええっと」
彼女は、頼りない声を出して、おぼつかない視線を向けた。
「この日が来るのは、ずっと前から分かっていたよ」
彼女は明るい人だった。彼女が目を伏せるなんて、本来なら有り得なかった。
「でもな、もう少しだけ隣にいたいんだ」
彼女の足が陰るのは、決して太陽だけのせいじゃない。蝉時雨は止み、沈黙が訪れる。会話が途切れても、気まずいと思ったことなど、一度もなかったというのに。
空想が終わりつつあるのだ。広大な海の向こうにも、水平線が存在するように。
「海に行こう。最後の未練を晴らすんだ」
その笑顔の裏に、葛藤があることを知っている。僕たちは幼馴染で、何度も結婚して、いくつもの世界を救った仲なのだから。
今回の旅路は、幼少期のどのような幻想譚にも及ばない。地味で、現実的で、夢も希望もない。それでも終わらせる必要がある。終章のない物語を、物語と呼ぶわけにはいかないのだから。
僕がサドルにまたがると、彼女が荷台に腰掛ける。炭酸が抜けたサイダーよりも、遥かに軽い。
最後の二人旅だ。ペダルを漕ぐことに、少しだけ抵抗があった。
寄せては返す波を見ていた。立ち尽くして、水平線を眺めていた。足に不快感を覚えて、それが砂だと気付くのに数秒もかからなかった。海はそういう場所だから。
どれだけ僕の背が高くなろうと、海は一切変わっていない。変わったのは、僕たちの方だ。
二人、さざ波、夏の海。
「座ろうか」
僕たちは、砂浜に腰を下ろした。幼少期に戻ったかのような視界だった。幼少期に背伸びしても届かなかった「大人」という種族は、ただ一度座るだけでいつでも子供に戻れるらしい。羨ましいと思った。
海辺には、堤防があった。僕と彼女は、よくそこで談笑したものだ。空が茜色になるまで、二人だけの世界でいられた。子供だったから。
その堤防は、僕にとって二つの意味を持つ。
僕と彼女が、初めて出会った場所。そして、母が身を投げた場所。
今となっては、遠い昔話になるだろう。十数年前の夏、僕の住む郷村は前例のない不漁だった。父は当時から名の知れた漁師だったが、家に帰ってくると「獲れない」とだけ呟き、倒れ込むようにして、ソファで眠ってしまっていた。
父にはプライドがあったのだろう。最初はぼやきで済んでいた鬱憤を、今度は僕に向け始めた。不漁が続くとともに、僕の身体にはあざが増えた。その一つは、今も横腹に残っている。
一方、母は病弱だが優しい人だった。白いワンピースを愛用していて、向日葵のような微笑みを絶やすことはなかった。しかし、それは僕の前での話だ。
僕が寝ているとき、何度か母の気配を感じたものだ。時々、腹を撫でられているかのような感触もあった。
一度、薄目でその正体を確認したことがある。それはもちろん母だったが、僕の知っている母ではなかった。目を赤くして、口角を下げる母の姿を、僕は一度も見たことがなかったからだ。
何度も言うが、僕は絵が好きだった。自由帳に空想を並べては、漫画家になった自分を想像して、一人で幸せになっていたものだ。
しかし、当時の僕は海神様の生まれ変わりだとはやされる存在だった。絵など描かずに、漁業をしろと言われる始末だ。それを聞く度に、輝いた夢を押し入れに隠した。
ただ、母にだけは夢を共有した。母は僕の絵を見る度に褒めて、決まってソーダを買ってくれた。僕は母が大好きだったし、母がくれたソーダも、その磯臭さも愛していた。
母が海に身を投げたのは、初夏の晴れた昼下がりだったという。
郷村には、とある言い伝えがある。海神様に生贄を捧げることで、村の平穏と安寧が保証されるというものだ。僕からしたら、ばかばかしい。しかし、母は信じた。地理歴史を覚えるように、根拠のない噂を鵜呑みにした。
母は、きっと僕を守ってくれたのだと思う。不漁が終われば、父が乱暴することもない。僕にあざが増えることもない。
そのために、自ら命を絶った。皮肉だ。僕が必要していたのは、僕を僕たらしめてくれる母だけだったのに。
不運だったのは、本当に不漁が終わってしまったことだ。父を含めた村人たちは、母を「海神様の生贄」だと崇めた。母の子である僕まで称賛された。
あの日からだ。僕が、磯臭さを嫌うようになったのは。
そのときから、僕は決めていたのかもしれない。漁師になんかならない。母が褒めてくれた絵を、僕の生業にするのだと。
少し歩いて、また腰を下ろした。水平線を向き合うようにして、僕たちは沈んだ太陽の行方を探している。
「ごめんね、蒼海」
彼女は僕に顔を向け、空笑いを浮かべた。整った鼻と、柔和な表情。やはり、僕の母に似ている。
でも。
「私は、君の母親じゃない」
彼女は、母に似ているだけだ。母は海に沈んだ。幽霊として浮かび上がることもない。中等教育を受けた僕だから、既に魚に食われているのだと容易に想像できる。
それなら、幼い頃の僕はどうしたのか。それこそが、彼女の正体だ。
僕は立ち上がり、自転車のカゴから自由帳を手に取った。家の縁側で描いていたから、外から漂う磯臭さに、すっかり汚染されてしまったようだった。
最後に描いたのは、6歳の頃だろうか。最近は、キャンバスに描くことが多いから。
僕は彼女の隣に座って、ゆっくりと自由帳を開いた。
濡羽色の髪をなびかせて、白いワンピースに身を包む。子供が背伸びしたかのようなサンダルを履いて、母のように笑っている。
彼女の名は、海神。
僕が創り出した空想だ。
「初めて会った日のこと、覚えているかい」
もちろんだ。ただ、混乱するのだが、初めて会った日は二日ある。一つは、堤防に座る彼女を見かけた日。もう一つは、僕が自由帳に彼女を描いた日。
母を失って数日後だっただろうか。郷村では大漁が続き、村を覆う陰鬱な空気はとうに去った。老人たちは未だにお祭り気分で、全員が口を揃えて「崇高な生贄のおかげだ」と言っていた。僕は、どうしてもそれが許せなかった。
唯一の理解者を失った僕は、一体どう生きればいい? 漁に出て、魚が獲れなくなったら、海に身を投げればいい? 馬鹿言え。魚という生き物をいただいている僕たちが、自分たちの命を粗末にしていいはずがない。この村は狂っている。老人も、同級生も、そして父も。
それでも、僕は子供だった。内気で、無力だった。村を抜け出す作戦を練るような知能もなければ、毎日漁に出ている屈強な大人たちに歯向かう勇気もなかった。
だから絵を描いた。僕に残されたのは、母が守ってくれた夢だけだったから。
僕は考えた。神様であろう者が、本当に生贄を要求するだろうか。
僕は思った。母を失った僕には、理解者がいたっていいはずだ。
夏は、時間だけが大量に有り余った時期だった。遊ぶ友達もいないから、一日中家の縁側で物思いにふけっていたものだ。
鉛筆を動かして、僕だけのキャンバスを彩った。僕は悲観的で優柔不断だから、明るくて前向きな、正義の味方が欲しい。僕は引っ込み思案だから、手を引いてくれる友達が欲しい。馬鹿なことをして笑わせてほしい。冗談を言い合いたい。ずっと一緒にいたい。
全ての願望を詰め込んだ空想の存在は、あまりにも母と酷似していた。
濡羽色の髪をなびかせて、白いワンピースに身を包んでいた。子供が背伸びしたかのようなサンダルを履いて、母のように笑っていた。
天真爛漫で、絶望を希望的観測で打ち砕く、女神様。僕には神様が必要だった。偽りの神である僕の手を引くような、女神の存在が不可欠だったのだ。
あまりに理想的で、しかし、いつかは別れを告げなければならない。
それでも、空想は確かに僕を救ってくれるのだと信じていた。空想がくれた紺碧色が、いつか僕の背中を押してくれると信じていた。信じるしかなかった。
彼女は、僕だけの海神。
彼女は、零落と紺碧の海神。
「私たち、色々なことをしたものだな。たとえば、風船を持って空を飛んでみたり」
空想でなければ、彼女は助かっていないだろう。
「実に子供らしいよ、君の空想は」
一度、自由帳を父に見られたことがある。そして「女の口調が男っぽい」と言われた。仕方がないだろう。僕は、母以外の女性と喋る機会がなかった。僕が知っている話し言葉で、彼女を創り上げるしかなかったのだ。
「でも、楽しかった。夢のようだった」
当たり前だ。彼女を描くことこそ、僕の夢だったのだから。
辺りの暗さからして、午後8時は回っているだろう。漁師たちは家に帰って、魚でも食べているはずだ。
だから、海辺には僕たち二人だけだ。そして、もうじき一人になる。孤独のまま取り残されて、自分の足で進まなければならなくなる。
数時間後には、僕の誕生日だ。20歳になって、酒が飲める。煙草も吸える。徐々に空想は消え去って、現実と向き合う時間を迎える。
自転車がかぼちゃの馬車に変わることは、もうない。
「さて」
彼女が腰を上げて、海を背に立つ。手を後ろに組みながら、僕に微笑んだ。
「最後の奇想天外を始めよう」
同じ夏が訪れることはない。過ぎ去った雲が戻ってこないように。
しかし、僕を覆う暗雲は、未だその場を離れようとしない。過ぎ去ることもなく、十数年も太陽を隠してきた。
あろうことか、今までの僕は、太陽なんてなくなればいいと思っていた。母が海に沈んだのは、晴れた日のことだったから。僕が生まれたのは、快晴の昼下がりのことだったから。
生まれの不幸を望むのは簡単だ。偽りの神様どころか、僕は死にぞこないだった。母の代わりに、僕が生贄になってもおかしくなかった。
だが、母は海に沈んで、僕は陸で生きた。彼女と出会い、心を暗雲の中に閉ざした。縁側で絵を描いて、太陽の眩しさを忘れた。それを幸福と呼んだのは、ほかでもない、僕なんだ。
幸福を終わらせに来たんだ、僕は。
ならば、最後の奇想天外を始めよう。
暗雲を光で穿つような、太陽が腹を抱えて笑うような奇想天外を。
海に沈んだ母が、空を見上げるほどの奇想天外を。
さあ、ソーダを手に取れ。
これが、僕の闇を切り裂くロケットだ。
ソーダの容器が、中身を吐き出しながら砂の上を転がっていた。それを拾い上げて、自転車のカゴに入れた。
夜が更けていく。海はすっかり凪ぎ、満月を明瞭に反射している。それは海神の魔法ではないということも、とうに知っている。
僕は自由帳を握りしめながら、水平線に向かって歩みを進めた。陸と海の境界線まで寄ったものだから、靴はすっかり濡れてしまった。この時期だから、すぐに乾くだろうけど。
彼女は、もう姿を見せてはくれなかった。自由帳には依然として存在するものの、それを見てしまっては、彼女の意思も、僕の未練も、全て無下になってしまうような気がしてならなかった。
ただ、姿はなくとも、彼女の意識は存在した。いや、訂正しよう。存在してほしかっただけだ。都合の良い性格は、父からも母からも受け継いでいない。僕の中の子供が、駄々をこねている。
海神のあなたに、伝えておくべきことがある。とはいっても、大した話じゃない。なにしろ、僕自身のことだから。
まずは、嬉しい知らせからだ。最近、新人漫画賞を獲った。そして、上京できるほどの貯金も溜まった。
つまり、僕はこの村を離れることになる。二度と帰ることはない。この村は、漫画の題材にはなるかもしれないけど、僕には刺激が強すぎたから。
刺激といえば、海水ソーダも飲まないだろう。東京に住んだら、飲む理由も、買える場所もないだろうから。
それで、だ。ここからは、僕の未練の話をしようと思う。
きっと、彼女なら分かっているだろう。十数年、夏を共にした仲だから。
もったいぶらずに言おう。僕は、この自由帳を海に還す。
つまり、彼女を完全に消し去るということだ。空想からも、キャンバスからも。
彼女はなんでも二つ返事で受け入れてくれるだろうけど、一応理由も説明しておこう。
僕は、彼女を思い出す度に、この村に住み続けたくなってしまうんだ。
あの夏空、バス停と自販機、神社や海。村から離れたいとはいえ、それらは全部、確かに僕の記憶だった。
だから、彼女が最後の未練なんだ。彼女を忘れないと、僕は踏み出せない。
僕は、夢を叶えるために東京に向かう。だから、どうか永遠に、僕の中から消えてほしい。
たとえ、記憶の海で一際輝いていたあの夏が、頭からすっぽり消え去ってしまったとしても。
ただ、誤解はしないでほしい。あなたと過ごした十数年は、どんな宝石よりも煌めいていた。あなたのいない僕のキャンバスは、きっと雲のように純白で、冬のように退屈で、面白みのない絵画だった。あなたの紺碧色だけが、僕を僕たらしめてくれた。
だから、次の絵画を描こうと思っている。僕が言いたいのは、そういうことなんだ。
いいかい。僕はこれから自由帳を手放す。その瞬間、あなたは海に沈む。それからのことは、何も気にしなくていい。目を瞑れば、あなたは永遠に幸福の中で眠ることができる。
思えば、僕は一度もあなたに触ってもらえなかったな。自転車に乗っていたときも、あなたは僕に掴まろうとしなかった。
僕を男性として見ていなかったのだろうか。そもそも、僕が女性というものを知らなかっただけだろうか。
いや、小さじ一杯程度のロマンスなんて要らない。確かに、僕は彼女が好きだった。しかし、好きなだけだ。告白も、デートも、愛を誓い合う行為もしなかった。
子供だったんだ。好き以上の恋愛を知らなかった。笑顔を見て、顔が赤くなって、それで幸せだった。
イマジナリーフレンドとカップルになれないなんて、思いもしなかったんだ。
ただ、僕があなたに愛を伝えたところで、何も変わらなかっただろう。あなたは優しい人だから、きっと断ってくれる。僕が空想に浸らないように。
僕が大人になれるように。
だから、あなたの願いを受け入れよう。
これで、永遠にお別れだ。
二度と会うことはできない。
魔法も空想も、物語も終わりなんだから。
さようなら、僕の海神様。
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