第一章  発端 3




「おやおや、同好会さんも夏合宿ですか」

 学校の校庭で、合宿地まで運んでくれる貸し切りバスを待っていた柴神晃彦は声を掛けられた。

 振り向くと英語教師でテニス部顧問の大津大志が、爽やかな笑顔で立っていた。


「あ、大津先生。先生のとこも今日から合宿ですか」

 晃彦も笑顔で応える。

「ええ、二週間の予定で毎年お世話になっている、猪苗代のテニスセンターへね」

 それ以外にも、校庭には合計六つもの合宿への出発を待つ部やサークルの団体がひしめき合っていた。

 夏休みに入って十日目、今日は八月一日の午前八時十三分である。


「はあ、そりゃどうも。それにしても随行の方がたくさんいらっしゃるようで、にぎやかですね」

「われわれは遊びじゃないんでね。この夏合宿でどこまで鍛え上げるかで、秋大会の成績が決まる。保護者の方から臨時コーチまで合わせると、十人以上が随行します」

 言下に、そっちは遊び半分だろうと言っているのだ。


「わたしの方は美術部と合同合宿なんです。同好会は合宿も七年ぶりでして、みな楽しみにしてますよ」

「場所はどちらなんです」

「ええ、静岡の海沿いの小さな町です。わたしの親戚が寺をやってまして、そこに宿泊させて頂けることになりました。なにせ先生の所と違ってこっちは予算も少ないんで、本格的な施設なんて借りれませんから」

「静岡? 暑いんじゃないですか、大丈夫なんでしょうね。熱中症なんか起こさないで下さいよ、ニュースにでもなると運動部全体に迷惑がかかる。文化部はいいかもしれんが、同好会とは言え仮にもテニスはスポーツなんですから。そこんとこしっかりご指導お願いしますね」

 美術教師ごときが運動部の合宿の面倒を見れるのか、といった蔑みが言葉の端々に感じられる。


「はい、安全第一でのんびりやりますからご安心ください」

「くれぐれも頼みましたよ」

 上から目線で、馬鹿にするような言い方をする。


〝どうせテニス経験といったところで、大学の時の軟派サークルで少々遊んだ程度だろう〟

 インターハイ準優勝の肩書を持つ自分と、こんなやつが同じ顧問という括りにされるのが我慢ならないらしい。

 大津は、いかにも文系といった風貌の晃彦を鼻の先で笑った。




「大津君、遅くなってすまんな。出掛けに急用が入っちまったもんで」

 すらりと背の高い四十くらいの人物が、颯爽と近づいて来た。

「あっ、高遠さん。わざわざご足労いただき感謝しております、部員たちも高遠さんにお逢いできるのを楽しみにしているんですよ」

 大津がそれまでの尊大さとは真逆の、いかにもへりくだった態度でぺこぺこと頭を下げる。


「今年は是が非にも県大会を制し、全国に行こうじゃないか。僕も精一杯協力させてもらうよ」

 高遠が右手を差し出し、大津と握手を交わす。

「お願いします、バシバシ厳しく指導して下さい。わたしの部には音を上げるような軟弱者はおりませんから」

 夏の暑さ以上に熱い言葉が、大津の口から発せられる。

 春は県大会の決勝にまで行きながら、あと一歩及ばずに惜しくも敗れてしまっていた。


 いまのメンバーは、歴代テニス部で最強と言われている。

 その花﨑台高校の前にいつも巨大な山のように立ちはだかっているのが、全国大会常連の小山田西高校である。


 全国大会優勝経験を持つ、T県では屈指の名門校だ。

 ここを倒さねば、全国への道は拓けない。

 それを悔しがった校長が、どこからか伝手を頼り呼んで来たのがこの高遠という人物だった。


 高遠潤、元プロテニスプレーヤーである。

 二十代半ばの全盛期、全英オープンで準々決勝にまで進出した事のある、日本屈指のスターだ。


 いまでも世界的な大会の放送時には解説者として、的確な見解を披露している。

 そのほかコメンテーターとして数々のテレビ番組に起用され、昨年のオリンピックには某局のメインキャスターとして茶の間に顔を売った。

 誰もが知らぬ者などない、大スターである。

 よほど太いパイプがなければ、彼を一週間も拘束するなど難しい話しだ。


「じゃあ、わたしはこれで──」

 晃彦は逃げるように顔を背け、その場から立ち去ろうとした。


「ん? ガミー、ガミーだろ」

 高遠が声を掛ける。

 しかし晃彦は聞こえぬふりをして、歩き去った。


「なんです? 高遠さん柴神先生をご存じなのですか」

「知ってるもなにも、僕の国内公式戦の連勝記録をストップさせたのが、まだ高校一年生になったばかりの天才少年の柴神晃彦。通称ガミーだったんだから」

「まさか、彼は美術教師ですよ。兼任でテニス同好会の顧問をしていますが、具体的に指導してる姿なんて見たことがない。誰かほかの人と間違われてるんじゃありませんか」

 大袈裟に大津が驚いてみせる。


「しかし彼の名は柴神晃彦なんだろ」

 高遠からフルネームを尋ねられ、大津は頷く。

「ならば本人に間違いはない。僕を倒してすぐに単身渡米したはずだ。アメリカの、有名エリートテニスアカデミーにスカウトされてね」

「その話し、本当なんですか」

「ああ、渡米してすぐの三日後に全米ジュニア大会で優勝するという衝撃的なことを為し遂げ、ライジング・ガミーのニックネームまで付いた。そのままシニアに転向して十七歳でプロデビューも噂されたが、なぜだか消息が途切れた。彼がそのまま伸びていれば、いまでも世界のトップ戦線で活躍していたはずなんだが・・・」

 自分の知らなかった事実を聞かされた大津は、言葉もなく呆然と立ち尽くし柴神の後ろ姿を見詰めている。


「大津君、彼にコーチを頼めば君の部員たちは強くなれるぞ。僕をわざわざ担ぎ出さなくったって、最高の指導者が同じ学校にいたじゃないか。国内無敵だった僕を、高校一年でストレートで下したほどの天才だ。いままでなにをしてたんだ、勿体ない」

 高遠の言葉がどこか遠くから響いて来るように思われ、大津は放心状態となっている。


「先生、バスが来ましたよ。みんなもう乗り込んでますから、先生たちも早く来てください」

 部のマネージャーである女子生徒が、走って呼びに来た。

「あ、ああ、すぐに行く──」

 大津が、魂を抜かれたような顔で応じる。


「いまは考えていても仕方がない、出発しよう大津君」

 高遠から促され、彼はふらふらとした足取りでバスの停まっている正門前へ歩いて行く。

 大所帯のために、貸し切りバスは二台停まっている。


 そのバスの後方に、某テレビ局のロゴの入った車が二台あった。

 この合宿を指導する高遠の一週間に密着し、花﨑台高校の秋の県大会までを追うドキュメンタリー企画が進行しているらしい。


 これで忙しい高遠が、なぜ一公立高校のコーチを受けたのかが判明した。

 校門を出る前に、大津はもう一度校庭を振り返った。

 そこには科学教師の内海麗子となにか話している、いつもと変わらない柴神晃彦の姿があった。


 二人を睨みつける大津の瞳は、憎悪に歪んでいる。

「ふざけやがって、俺が同行を頼んだら断わったくせに。同好会の補助なんかしやがって、あの尻軽女──」

 それ以上に高遠のプライドを傷つけたのは、晃彦の経歴であった。

「なぜ黙ってた、俺を馬鹿にしているのか」


 誰にも聞こえないような声で、大津がぼそりと呟いた。

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