24

 俺は唇に温もりを感じて目を開けた。試しに指で唇を撫でたが、何も付いていなかった。気付けば周りは明るく朝になっていた。俺は寝落ちしたようだった。寝る前とは見える景色が違い、俺は体を起こした。知らぬ内にベッドに移されたようだった。隣に視線を移してもそこには誰もいなかった。誰かがいた温もりさえなかった。

「いない……」

 急いで立ち上がると俺は扉を開けた。丁度、メヴィスが歩いていた。俺のことを見ると近付けてきた。

「おはよう御座います、ゼド様。あの方はお迎えに来た親族の方とお帰りになりました。お眠りだったようなので、お邪魔すると悪いと思いましたので……。ゼド様?」

 メヴィスは終始不思議そうに俺のことを見ていた。俺はメヴィスに一歩近付くと、その両肩に手を置いた。

「帰したのか?」

「えぇ。書類からも本当の兄妹だったようなので」

 帰ってしまえば後が追えなくなる、と俺は爪を噛みたくなった。今様々な事態が周りで起きている中、不審者を安々と解き放つ訳にはいかなかった。俺はポケットから毒薔薇の顔写真をメヴィスに見せた。確証はなかった。

「この女に見覚えはあるか?」

 メヴィスは目を大きく開けた。

「あります。本日お迎えに来たあの方のお姉さんですが……何か問題でも起こしたのですか?」

 俺はメヴィスに答える前に廊下を走り、屋敷から飛び出した。背後でメヴィスの声が聞こえたが、今は聞く暇がなかった。男と毒薔薇の関係性が分からなかった。偵察か冷やかしか様子見か。どちらであろうとも銀狼隊の副隊長としては敵国のスパイの侵入を許す訳にはいかなかった。表通りを見回しどちらに進もうか悩んでいた時に、携帯が鳴った。しょうもない理由なら怒鳴りたくなったが、表示された名前はギールだった。もたつき動かしにくい手で、急いで通話を繋げた。

「何だ、ギール?」

「ゼド、お前が保護した男はスパイの可能性が高い」

 と、電話越しのギールは息が荒く焦っていた。

 だが、その情報は俺には古かった。知っていることを伝えられるためだけに、無駄な電話をして貰いたくない。毒薔薇にも遭遇する可能性があるのに、片手が塞がるのは死にたがりのすることだ。

「それは分かってる。今逃げた男を追っているから切るぞ。迎えに来た奴は毒薔薇だったようだ」

「何だって、待て」

 電話を切ろうとした俺はその声に動きを止めた。電話のギールは続けた。

「毒薔薇がリリアル・シルヴィスと判明した。リリアルは両親により敵国に売られたんだ」

 売られたのは残酷だが、今は敵国のために動いているのなら既に敵でしかない。俺が殺してもセインは理解するだろう。いや、出来るだけは無力化した上で拘束を目標とする。だが、殺害も厭わないとこちらが死ぬ。

「なら、セインの親を殺した野郎は誰だ?」

「それは分からない。丁度、その時の毒薔薇がどこにいたのかも不明なのだ。良いな、すぐに応援を送るからその場から動くな。お前が無駄死にするな、ゼド」

 と、ギールの方から電話を切られた。

 俺はその場に数秒立ち止まっていたが、すぐに裏路地に入った。毒薔薇のほどの人が証拠を残し、未だ付近に潜伏している可能性は低かった。だが、俺と遊びをしたいのならまだ望みがあった。今俺が追わなければ逃げてしまう。応援を待つ暇などなかった。ホルスターから銃を抜いた俺は認識票を握り締めながら、息を整えた。俺が戦いで生き残られるかは俺がどこまで平常心を保ち、正気でいられるかだ。一瞬でも敵の方に引き寄せられたら、命を狩られる。怪しい気配を探りながら、俺は音を立てずに歩いた。

 背後で何かの気配が現れ、俺は振り向き座間に撃った。両手を上げながら立っていた女の真横の壁に穴が開いた。動じる様子もなく俺を見る。顔からも毒薔薇と思われた。のこのこと自ら現れるとは俺を馬鹿にしているのか。俺は銃口を向けながらそっと近付いた。

「何用だ、毒薔薇? いや、リリアル?」

 無表情だった毒薔薇は意外にも悲しそうな顔をした。

「その名で読んでくれる者はこの世でもう二人しかいないよ。貴方はこれでも優しいのだな、弟の言う通り」

 同情を買いたいのだろうか。心情は不明。ただの敵国のスパイが何分かったようなことを言う。弟。本当に毒薔薇がリリアル・シルヴィスなら、セイン・シルヴィスのことだろう。だが、もう生きていない。そのような者の面影を追い求めている、幻覚が聞こえるのなら重症だ。

「死んだ者の名を出すな。何をしに来た毒薔薇、言え」

 と、俺は毒薔薇の額に銃を突き付けた。

 いつでも銃を奪われる可能性があるから、気を緩めることは許されない。毒薔薇が口を開いた。

「弟は貴方のことを愛している。心の底から」

 話題の趣旨を変える毒薔薇に俺は苛立った。尋常でない緊張感の中、思うように進まないのは腹が立って仕方がない。

「だから、どうしたと言うんだ?」

 と、俺は叫んだ。

 すると毒薔薇が俺の銃を掴んだ。しまった、これが相手の罠だったのか。毒薔薇は銃口を掴むと、自分の心臓に押し当てた。

「姉として貴方のことを認めるわ。どうか弟を幸せにして頂戴。それがリリアル・シルヴィスとして最期の願いよ」

 更に戯言を続ける毒薔薇に俺は困惑した。銃を持つ手を拗られたと思えば、毒薔薇が銃口を自分の額に向けていた。俺は毒薔薇に飛び付くと手から銃を叩き落した。引かれた引き金により、誰もいない壁に銃弾がめり込んだ。運が良かったと言えた。少しでもずれていたらどちらかが大怪我をするか、命を落としていた。俺は急いで結束バンドで毒薔薇を拘束した。一切動けないようにすると銃を回収した。毒薔薇は息を荒くしながら、地面で力を抜いていた。俺のことを見ると小さく微笑んでいた。

「弟は生きているのよ。貴方が迎えに行って。悪夢から解放させてあげて。……私にはそれが出来なかったから」

「……い、生きている?」

 俺はふらりと毒薔薇に近付いた。毒薔薇は俺を見て頷いた。

「貴方は既に会っている」

 すぐに俺はあの男のことを思い出した。その甘い言葉に俺の体は震えた。惑わす言葉なのかもしれないのに、心の底は本当だと信じたいと叫んでいる。俺は自分の腕で体を包むと、頭を抱えた。

「ゼド」

 と、俺の名を呼ぶ声がするとギールが影狼小隊を連れて現れた。

 俺はギールと一瞬だけ目を合わせると、奥へと走り出した。もし毒薔薇の話が本当なら俺は会いたい。どのような状態でも良いから、もう一回セインに会いたい。俺は我武者羅に走り続け、角という角を探した。今回だけは俺の迷子も言うことを聞いて欲しかった。今回出会うことが出来なければ、俺はきっと何よりも後悔する。これまで以上に。走り回っていると、薄暗い道の奥に一人の男が座り込んでいた。俺が忘れることのない、俺が拾った男だ。

「セイン」

 そう俺は叫びながら、男に向かって走った。男はゆっくりと顔を上げると、俺に怯える顔を見せた。

「……ゼド」

 髪色と瞳の色が違うとしても、見間違えるはずがなかった。俺の目前に立っているのは正真正銘、銀狼のセイン・シルヴィスだった。やっと会えることが出来た。生きていた。生きてくれていた。それだけで俺の心に空いていた穴は満たされた。セインがいなければ一生空いたままになっていた穴だった。俺はセインを離さないときつく抱擁したが、セインは俺を拒絶するように嫌がった。それが俺には理解出来ず、何よりも虚しかった。俺は目から涙が溢れそうだった。

「ゼドにはもう……顔を合わせられない。僕は、人としてやってはいけないことをしたんだ」

 今度は俺が頭を左右に振った。

「俺はセインが生きてさえいれば良いんだ。それだけで良い。それ以上は求めない」

 セインは初めて殺意を込めて、俺を睨み付けた。狼に喉元に牙を突き付けられる恐怖があった。だが、それよりも初めてセインが素直になってくれたことが何よりも嬉しかった。たとえそれが死を伴っても、俺はセインがない人生はやはり考えられない。セインは今にも俺の首を絞めそうな危うさを抱えていた。もしそうでも俺はきっと首を差し出すのだろう。セインはどこまでも苦しそうだった。

「違う。僕に甘えさせるな、ゼド。僕は親殺しだ。僕は実の親が許せず、この手で殺した。殺したいから殺したんだ。家族である姉を売ったのも許せなかった。常に親より勝ることが許されなかった。常に優れていないことを証明しなければ、奴らは気が済まなかった。そのくせ、ゼドにまで迷惑をかけ、人生を台無しにした。そんな奴らの息子が僕なんだ。なのに、死に切れずに姉の世話になり、今度はゼドを見捨てて逃げようとした……」

 俺はセインをもう一度抱擁した。セインの前に膝を突くと、その頬の周りに手を置いた。偽りの銀色の瞳が揺れていた。

「たまには逃げて良いんだよ。セインが全てを背負う必要はない。皆の思いをセインが形にしてくれた。それはきっと良くないことかもしれない。……でも、それで救われた者達はいる。俺やリリアルだ。それに捕まっていたら同じ罰をどの道下されていた。今この瞬間までセインは苦しみ続けた。有難う、帰って来てくれて」

「これで良かったと僕を納得させないでくれ……。人でなしを再び人にしないでくれ。セイン・シルヴィスはあの日死んだんだ」

 と、セインは瞼を下ろすと、きつく俺の腕を握り締めた。

 赤く痕になろうと俺は気にしなかった。セインの心の傷はそれ以上だったからだった。俺はセインに今出来る笑みを浮かべた。セインがいたから俺は人になれた。感情を取り戻せた。

「俺にとってはいつまでも銀狼だよ。俺の半身である、銀の花だから。もう失わさせないでくれ。ずっと視界の中にいてくれ。もう逃がさないよ、セイン」

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