22
嫌な予感がした俺は急いで振り向いた。誰かに見られている、監視されているように感じられた。だが、軽く見ただけでは誰もいないようだった。俺は壁に近付きながら、より奥の道を進んだ。スラムがあり、裏通りよりも治安が悪い地域だった。ゴミ捨て場の前を通った俺は歩みを止め、視線を下ろした。何かのドールでなければ、本当の人が倒れているように見えた。俺は急いで近寄ると倒れている、灰色の髪を持つ男の肩を叩いた。
「大丈夫ですか?」
流血の痕跡はなく、脈も確認すればちゃんとあった。男は唸りながら、目を上けた。陰であるにも関わらず、その銀色の瞳には明かりがあった。その瞳の中に灯火が灯されているように。猫のような雰囲気が合うと思われた。顔も薄汚れ、服も解れているのにそれを感じさせなかった。俺は息を呑み、顔を歪めそうになった。セインと雰囲気は似ていないのに、セインを彷彿させる何かがあった。出会いたくなかった。こんな悪夢、消えて欲しかった。嘘だと言って欲しかった。俺の視界から消えて欲しかった。出会ってさえなければ、これほどまで俺の胸が抉られることがなかった。俺は一瞬だけ視線を逸した。そうすれば少しだけ気分がましになると思えた。
「……ここはどこですか?」
粉塵を吸い込み、苦しそうに咳き込んでから男はそう言った。俺は溜め息を零しそうになった。スラムを知らない観光客かが迷い込み、追い剥ぎに遭ったようだった。見た感じ辛うじて服だけあるが、それ以外の所持品は皆無。このまま放置して行き倒れるのも困る。次の日に死んでいたりすれば、きっと後悔するだろう。
「覚えていないのか? 良くもスラムに近付こうと思ったな」
と、俺は素の状態で答えてから、ゆっくりと男を座らせた。
小柄でひょろりとしているが、意外と鍛えている体のようだった。俺が手伝うと何とか立ち上がることが出来た。男は俺を見てから、周りを見渡した。最後に自分の状態を確かめていた。分からない、と言わんばかりに頭を横に傾けた。
「スラム? ……それよりもここはどこですか? 私は誰ですか?」
俺は男を凝視してから上を向きながら溜め息をした。記憶喪失の男とは何とも俺は運が付いていない。ここで止まっても仕方がない、と携帯を取り出すとメヴィスにかけた。瓜二つの人物を基地に連れて行っても迷惑であり、それならウェルヴィス家の方がまだ対応出来た。灰狼が今日は背後にいないのが良かった。メヴィスはすぐに出て事情を聞くと、車で迎えに来てくれると教えてくれた。わざわざ俺が仕事を増やすのは嫌だったが、気軽に承諾してくれた。俺は男に手短に自己紹介をしたが、当然のこと男の方からは何もなかった。一応あやふやな記憶を頼りに多少は語ってくれたが、それだけでは何も良く分からなかった。そのような時間を過ごしていると、メヴィスが現れた。
「お待たせしました」
と、扉から出てわざわざこちらのを開けようとしたので、俺はすぐに止めさせた。
「済まないがこの人を保護して欲しい。代わりにかかった料金は俺の口座からでも引き落としてくれ」
俺は男と車の後部座席に乗り込むとそう伝えた。だが、メヴィスはミラー越しに俺に頭を横に振った。
「いえいえ、お構いなくゼド様。一人増えただけで大したことではないので」
「済まない、恩に着る」
と、俺は言った。
携帯で忘れる前にギールに用事で戻るのが遅れることを伝えた。携帯を仕舞い、男を見ると丁度窓の外を眺めていた。見ているようでどこもはっきりと、見ているようではなかった。父親に挨拶してから、使用人に構われる前にメヴィスに空いている部屋に案内してもらった。医者が来る前に、男にはベッドに休ませて安静にさせた。男が眠ったのを見てから、俺は部屋から出た。メヴィスが心配そうに俺を見てきた。
「大丈夫そうだ。一旦寝てくれた。……そうだ、俺の仕事が終われば夕方にでもまた訪れて良いか?」
メヴィスは俺に笑みを浮かべた。
「はい、いつでもどうぞ」
俺はまたメヴィスに運転されて基地に戻った。基地前ではギールが待ち構えていたのが嫌だった。流石に基地内で俺は迷子にならない。メヴィスに感謝を述べてから別れると、ギールは仕方がないと言うような顔をした。俺が男を拾ったように、ギールはセイン二世をこれまで拾ってきたからだった。
「何も言いませんよ。基地で民間人を保護するのも中々難しいですから」
と、ギールは両方の肩を上げた。
そうだな、と俺は適当に相槌を打った。ギールは顎に手を置くと、俺を見た。
「それよりも迷子にならずに済んだだけ良かったですよ」
俺は苦笑いをしてから、ギールを睨んだ。余計なお世話だ。無駄な言葉が多い。イシャルに再度叱られて来れば良かった。だが、一方で普段の基地の様子と言えた。俺はギールと並びながら、執務室への廊下を歩いた。前方からセイン二世を飛んでくると、俺に激しいお出迎えをしてきた。たまには珍しい物をするようだ。だが、すぐに俺から去った。ギールは腹を押さえながら、笑った。
「嫌われたようですね、副隊長」
「煩い。足踏むぞ」
と、俺が踏むとしてもギールは器用に避け続けた。
逆に俺が疲れるだけで終わり、俺の方が不利だと気付かされた。そのまま執務室に近付いたと思えば、セイン二世が隊長の執務室の前で座っていた。俺は奥歯を噛み締めてから、セイン二世に声をかけた。自分の執務室への扉を開ければ、素直に入った。ギールも珍しそうな顔をしていた。
「不思議なこともあるのですね……」
と、俺と同感のことを呟いていた。
俺は椅子に座ると布団を膝にかけた。午後からは冷え始めるようで、風邪を引かないようにする必要があった。ギールは席に付く前に俺のためにぬるま湯で麦茶を注いでくれた。香ばしい麦茶の香りが部屋を覆った。俺は書類を取り出すと今日の分を片付ける必要があった。万年筆で終わらせているとギールが俺にお茶をくれた。
「ありがとう」
そう言いながら顔を上げれば、ギールは頷きながら自分の物を飲んでいた。そのまま椅子に腰かけると、天井裏から叩く音がした。灰狼が礼儀正しく現れていた。俺には決してしないことなのに、本当は出来るのだった。折り畳まれた紙を小隊長のギールに手渡していた。俺は立ち去ろうとする灰狼に手を伸ばした。
「灰狼、渡す物がある」
と、上着の内ポケットから黒狼ぬいぐるみを取り出した。
すると、表情がなかった灰狼の顔が劇的に代わり、顔が真っ赤に沸騰していた。無言でそのまま俺に近付くので、俺は怖くなり後退った。
「以前看病とか色々有難うな」
平常心を何とか保ちながら、そう灰狼に渡すと灰狼は赤子のように優しく持ち上げた。目が宝石のように光り、青年ではなく子供が目前にいるように見えた。腕で抱きながら俺を見ると、誰よりも深く頭を下げてきた。
「有難う御座います、黒狼様」
と、そのまま扉から出て行った。
ギールは俺を見ると口角を上げた。
「たまには良いことをするんですね、意外です。私にも何か下さいよ」
「煩い、贅沢は敵だ。給料減らすぞ」
俺はギールを見ずに答えた。見る必要などない。
「冗談ですよ。そんなに私承認欲求あると思いますか? あるだけで人生大変ですよ」
何やら良いことを言っているが、きっとイシャルへの承認欲求は人より何倍もあるのだった。俺はこんな無駄話から話題を変えることにした。机で手を組むとギールに目を向けた。
「それよりも、それは何なのだ? 灰狼から来た報告のようだが」
「これですか?」
と、ギールは薄い紙をひらひらさせた。
文字が小さく俺には見えないのは分かっているはずだ。
「隊長の親と毒薔薇の情報を集めさせているのですが、中々まだ順調ではないのです。ただ毒薔薇がどのような顔かを、これまでの目撃情報から総合的に作成しました」
ギールは一枚の合成写真を俺を渡した。いきなり見せられても知らない顔であるのに、分かるはずがなかった。普通の整った女性の顔と言えた。唯一この中での目撃者はギールだ。
「どうだ、似ているのか?」
俺を見るとギールは頷いた。
「私が見たのとは結構似ています。ただ本当の顔が分からないので何とも言えません。接触される可能性があるので、副隊長も注意して下さい」
毒薔薇との接触と聞き、俺は心臓を押さえた。生かされるかも相手次第だと聞いた。
「殺されそうで嫌なのだが」
「遊んでいる内は殺されないと思いますが」
と、ギールは呟いた。
だが、それは遊んでいる内だ。遊び終わればそうでは当然ない。俺はホルスターに手を置くと、溜め息をした。頼りは愛銃だけだった。運だけだしても神頼みはしたくない。俺がギールを見れば、ギールは考えているようだった。悩める男か。何かイシャルが好きそうな角度だった。
「……後、言いにくいのですが」
「言え」
と、俺はギールに副隊長として命令した。
情報を隠されて嫌な目しか遭っていない。どの道知るなら早い内が良い。
「犯行で使われた銃は国に登録された跡がないので、見つけるのに時間がかかる可能性があります」
「そう、仕方ない」
迷宮入りした未解決事件が解決まで何年経ったのと同じだ。すぐに謎が解けることは稀だ。ただ必ず捕まえる執念さえあれば、必ずこちらが勝つ。
「隊長には姉がいたようなのですが、副隊長ご存知ですか?」
「姉?」
と、俺は顔を上げた。
そのような話を俺は聞いたことがない。俺は手を左右に振った。
「知らない、知らない。そんな話されたこともないぞ」
ギールは首を傾けた。
「ですよね……。ただ記録には行方不明の姉がいるのです。リリアル・シルヴィス。生きているのかも不明なのですが。いなくなったのは隊長が入隊する前で、蒸発したらしいです。ある日突然」
「何の情報もないのか?」
俺がそう聞くとギールは頷いた。
「当時警察が行った資料でも大した物はなく、写真を取らない家なのか一枚もありません。当時のことですから、仕方ないのですが家族写真もないのは気持ち悪いですね。後、調べさせた中でも家系図からも消されているのですよ」
これは益々謎であった。やはり、シルヴィス家は何かがおかしかったのだろうか。普通ではないのは嫌でも分かる。
「まぁ、詳しく調べてくれ」
と、俺が言うとギールは頷いた。
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