銀の花

影冬樹

第一巻

プロローグ

 俺は知りたくなかった。この感情が何かを。知らないでいれば、そのままの人生で過ごせた。特に葛藤も苦労することもなく、ただ人の波に流され続ける、取り留めのない人生を。何のクライマックスも幸せもなく、ただ死の黒と血の赤に塗れた人生。その後、誰からも名を覚えられることなく、一人孤独に逝く。感情もなく乾いた笑いをする俺を、敵兵が全ての憎悪を込めて滅多刺しにする。流れる血もなくなった頃にはボロボロの雑巾になっている。もう誰だか分からない肉になった時、穴の中に蹴り入れられるだろう。俺の肉は土に汚され、他の物と仲良く焼かれる。後に残るのはただの灰。そして、戦死者の一人として軍の記録に残るだけ。生涯唯一の友は最期まで時間を共にした愛銃、となる。

 だが、一方でその選択を躊躇する俺もいた。その人生を選んでしまえば、俺はあの日々をなかったことにしてしまう。ある大切な一人の人生をなかったことになってしまう。それは絶対に許すことが出来なかった。俺にはそれをする覚悟も勇気も、資格さえなかった。

 それは忘れもしない、あの夜のことだった。今でも忘れることのない思い出の一つだった。俺が眠りに就こうとした時、彼の寝袋の掠れる音がした。虫の音だけが響く中、その音は異様に目立った。

「月が綺麗だと思わないか、ゼド?」

 声をかけられ、俺は彼の方を見た。夜だというのに、彼の白銀の髪は輝いていた。その色だけ俺は好きだった。だが、一番好きな瞳は見ることが出来なかった。彼は片方の腕を空に伸ばし、月を掴もうとしていた。届くことは決してないのに。視線を上げ、俺は彼と同じように空を見た。そこにはただ月が浮かんでいた。ありきたりな月が夜空にあり、俺には綺麗に見えなかった。

「いや」

「ロマンチックではないな、ゼドは」

 と、彼は少し笑った。

 ロマンチック。それはなくても生きていけるものだった。何故いると彼が思うのか、分からなかった。俺は答えを探すように、彼を見た。彼は蜂蜜のような、黄金の瞳を俺に向けた。困ったような顔をした後、彼は俺に笑みを浮かべた。

「自然が僕らを祝福してくれている、とも思わないのか?」

 俺は答えを考える必要がなかった。

「思わない」

 ただの虫音と葉音から、そのように想像出来るのはおかしな話だった。世界は美しくなく、醜いものなのに何故そこまで好きになれるのか。何故そこまでこんなものを愛せるのか。俺は彼のことを一生理解出来ないと思った。

「そう……」

 彼は俺の答えを笑うことはなかった。ただ受け入れ、頷いてくれる。それだけでも彼は他と違った。だからだろうか。気付けば俺は、彼が隣にいるのを許してしまっていた。許そうと思ったことがないのに。そこで会話は終わり、俺と彼は静寂を共有した。ただ俺が何も考えずに暗闇を見つめる中、彼は鼻歌を静かに歌っていた。子守唄のようで、俺の意識は少しずつ薄れようとしていた。子守唄をこれまで、歌われたことがなかったのが皮肉だったが。

「そうだ、トロッコ問題をしよう」

 そう彼は突然囁いた。何の前置きもなく、ふと閃いたように。その上、憎らしいほどの笑みを浮かべていた。今は「彼」と言えるが、当時はそんな上品な言い方を言う訳がなかった。俺は常に彼のことを「アイツ」と心の中で毒付いていた。認めたくない悪友のようなものであった。そんな彼に俺はぶっきらぼうに返事をした。

「何故、今だ? これから戦場に行くというのに。無駄なことをするな」

 俺は体を横に向け、真っ向から拒絶した。そもそも、俺は彼が嫌いだった。ある日声をかけられたかと思えば、いつまでも俺のことを構うようになった。幾ら逃げようがアイツの方が、俺を探すのが上手だった。隠れて安心していれば、背後から驚かされる。掴み所がなく、常にヘラヘラしている。人を馬鹿にしているのか見下しているのか、ただ遊んでいるのか。本心が見えない奴と話すのは苦手だった。いっそのこと俺を嫌い、殺気を向けてくれる方が心地良かった。なのに、違った。彼は最初から。

「まぁ、良いから」

 そう言われ、俺は仕方なく彼の方をまた向いた。記憶の中の彼は俺の知る、あの見慣れた笑みを浮かべた。男の俺に笑みを浮かべられても、嬉しくもなかった。食堂で時間を共にする時も、背後で女が黄色い歓声を上げていたのを思い出した。自らの魅力を分かっていながら、きっと遊んでいるのだった。

 暇で何もすることがない俺は、彼に頷いた。死ぬ覚悟を今から再度、確認する必要もなかった。俺が死んで泣く奴などいなかった。その時ふと目前の奴ならどう思うのだろうと思ったのは、俺が血迷ったせいだった。

「なら、良かったよ」

 彼は俺の耳元で囁いた。俺が横を見なくても、満面の笑みを浮かべていることぐらい分かった。

「ある所に線路があった。そこに丁度トロッコが走っていた。このままトロッコが進めば、作業をしている五人が死ぬ。ポイントを切り替えれば、一人が死ぬ。丁度ポイントに立っていて、君はどちらを殺すか選べる。さぁ、どうする?」

 子供に昔話を言い聞かせるように、彼は優しく言葉を紡いだ。そして、最後におどけた顔をした。掌で人の命を転がすのが楽しいというように。俺は脳内でシーンを想像すると、間を開けずに答えた。

「そうだな。一人の方を銃で殺してから、ポイントを替える」

 彼は一瞬動きを止めると、笑みを浮かべた。

「ふふ、それでは前提条件が違うじゃないか」

 俺は彼に挑発するような笑みを見せた。

「言わなかったお前が悪い」

「そうだね。で、何故それを選んだんだい?」

 と、彼は子供のように舌を出してから、俺を直視した。

 全てを見透かしたその瞳に、俺は戦慄した。彼だけが俺を恐怖させた。

「俺が、殺したいから」

 俺ははっきりと静かにその言葉を紡いだ。いや、本当は違った。俺はそんな殺人衝動などなかった。ただそれが俺にしか出来ないことだった。俺はそれしか求められていないからだった。言い終えた俺は彼を見て、ムスッとした。彼は目を大きく開けると、心底驚いた顔をした。きっと俺がそのような奴には見えなかったからだろう。仕方がないとは言え、少し傷付いた。

「何だ?」

 俺が言うと、彼は動き出した。あのへらへら顔をしながら。

「いやぁ、君も人なんだね。君のことだから、俺には関係ないとその場から堂々と立ち去ると思ったよ」

 彼を見ることなく、俺は溜め息をした。人と思われていないとは。奴にとって俺は蝿かゴキブリにでも映るのだろうか。

「嫌だった?」

「さぁな」

 と、言う俺はきっと不機嫌さを隠すことが出来ていないのだった。

「それよりもお前の答えを聞かせろ」

 だから、俺は話を終わらせ、彼に聞いた。

「そうだなぁ」

 彼は一度空を見つめ直すと、口を開いた。

「僕なら、真ん中に爆弾を置くかな。そして、全員仲良くお陀仏に。公平な死こそ美しいと思わない? 誰かを犠牲にする社会など、存在する必要がないと思うんだ」

 普段の笑みのまま、彼は何事もないように答えた。狂っている。そう俺は思ったが、きっと俺も同じなのだろうと気づいた。俺はその気付きを隠すように、彼に鼻で笑った。

「ロマンチストのくせに幸せを奪うのか?」

 俺の舌から慣れない言葉が発せられた。幸せ。そう言いながらも、俺はその言葉の意味が分からなかった。幸せとは何なのだろうか。彼は俺の嫌味を気にかけることなく、俺を真っ直ぐ見た。

「与えられた幸せしか知らない者達なら、与えられた死も気にしないだろう。自ら幸せを探ろうとせず、自ら生き延びようとせずにただ他者に頼っていた。抗いもせずに縋った。そんな者達を生かす価値はどこにある?」

 彼の口から紡がれる素早い言葉に、俺は喉を鳴らした。体に緊張が走った。

「だが、それだとお前も死ぬことになるのだぞ? 嫌な奴らと死ぬことになって、耐えられるのか? 爆弾を置くお前も死ぬのではないか?」

 彼は頭を横に傾けた。

「死? それはいずれ誰にも来るものだ。そんな者達諸共消えるのなら、社会の掃除に貢献したことになる。役に立つ死を選ぶことが出来るんだ。何も知らずに死ぬよりは」

 流石の俺も彼の考えは良く分からなかった。俺には死ぬ覚悟があった。だが、どうすればこれほどまでに死への信念を持てるのだろうか。死とはただの死ではないのか。殺すとはただ殺すではないのだろうか。目前に俺の知らない世界が広がり、俺はただ唖然とせざるを得なかった。

「嬉しそうだね」

 そう彼に言われ、俺は口角を上げていたと知った。久しぶりに楽しかったのだ。玩具を見つけた訳ではなかった。初めて彼に会い、彼の輝きに心を打たれた時と同じだった。だが、俺はそれを隠すように言った。

「うるさい、黙れ」

 と、急いで横を向いた。

「可愛い所があるんだね、ゼドも」

 彼は俺に近付くと、そう茶化した。俺に手を伸ばすと、髪を触り始めた。女子のような扱いと妙に距離が近く、俺は気分を悪くした。整えてもいない見窄らしい黒髪を何故、いつも触るのだろうか。俺は猫ではないと言いたくなるのだった。「可愛い」は俺が嫌う言葉の内の一つだった。それを言った奴を殺しても許されると思うほどに。だが、目前の彼は避けるのが人一倍上手かった。更に鬱憤を溜めないためには、ここで我慢するのが一番だった。

「止めろ。俺は、可愛くなどない」

 急いで俺は彼の手を解いた。普段ならそれで振り解けるのに、その日の彼の腕は強かった。

「すねちゃって」

 と、彼は俺の顔を覗いた。

 正面からその瞳に見られ、俺は一瞬息を忘れた。だが、すぐに状況を理解し、俺は彼を力で自分の寝袋から退かした。

「寝る」

 そう宣言すると俺は目を閉じた。彼と付き合い続ければ、迷惑で仕方がなかった。寝袋の動く音がした後、彼の声が聞こえた。

「ゼドの翡翠色の瞳も美しいのに、勿体ない」

 その発言に俺の脳内は真っ白になった。そのようなことはあり得なかった。必要とされない俺にそのようなお世辞は不要だった。気遣うのなら、最初から何も言われない方が良かった。

「口を閉じて、寝ろ」

 俺は声を低くして言うと、下を向いた。もう彼を見たくもなかった。なのに、意識が落ちる間際に彼の小さな笑い声が聞こえた。嘲る訳でもなく、ただ心の底から何かを楽しんでいるようだった。俺が知ることではなかった。

 そのようにして、俺らのその日は終わった。何気ないありきたりな日。だが、俺は彼が何故。セイン・シルヴィスが何故、あの時あの選択を取ったのかが分からなかった。結局分からず仕舞いだった。もう彼は答えることがないからだった。

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