第2話 魯坊丸、暇なので論語などを諳んじてみた

〔天文十五年 (1546年)夏六月から秋七月〕

夏の猛暑で体調を崩した。

生まれたばかりの赤ん坊は暑いとか、寒いがわからず、呼吸すら苦しく感じて何もする気が起きない。只管ひたすらに耐える。

何もする気が起きない。

そして、夏が終わりに近づいたのか、涼しくなって俺の体調は良くなっていった。

調子が良いので鼻歌を歌う。

発声練習に『あめんぼあまいな、あいうえお・・・・・・・・・・・・』を発声し、『蛙ぴょこぴょこみぴょこぴょこ・・・・・・』『東京とうきょう特許とっきょ許可局きょかきょく・・・・・・』などの早口言葉を繰り返したが、すぐに飽きた。

何を発音しても、俺の耳には『あぶあぶ』としか聞こえないからだ。

ただ、俺の顔色がよいと世話をする侍女らも安心した様子で上機嫌な俺に話しかけてくる様になった。流石に、俺に何かあると侍女らも困るのだろう。


「魯坊丸様。これなどいかがですか?」

「あぁぶぶぅ」(要らない)

「これで遊びませんか? 音がなりますよ」

「あぁぶぶぅ」(要らない)

 侍女らは人形やデンデン太鼓などの玩具を見せて興味を引こうとするが、俺が不機嫌そうな声を上げると落胆した。

「あぶぶぶうぶぶ」(責めて本でも読んでくれ)

 

俺はそう訴えるが、俺の言葉は侍女らに理解できず、やはり俺を放り出した。

乳母は乳を与えるだけ、侍女は母上や養父が来る時のみ世話をする振りをする日々に戻った。

服の着替え、汗で汚れた体を拭いたり、下の世話は女中らがしてくれる。

女中らの年は中学生くらいの子らに見え、そんな彼女らに下の世話をされるのは恥ずかしいが、すぐに馴れた。

赤子の体は着替えすら自分で出来ない。

気分が良い時は鼻歌交じりで手を上下させて運動していると、女中が話し掛けてきた。


「魯坊丸様。今日は何のお歌ですか?」

「ばぶばぶばぶ」(北島三郎の『祭り』だよ)

「そうでございますか。今日は『ばぶばぶばぶ』でございますね」

「あぶ」(そうだ)


女中の一人は、俺の返事を理解しているように思えた。

それで何か変わる事もなかった。

鼻歌も飽きてしまったので、日本国憲法の条文でも諳んじた。


「あぶあぶ、あぶあぶ、あぶあぶあぶあぶ…………」

(昭和二十一年憲法、日本国憲法、日本国民は、正当に選挙された国会における代表者…………)

隣でおむつを畳みながら聞いていた福が奇妙な顔をして声を掛けてきた。

「今日は、お歌ではないのですね。難しく、何を言っているのかわかりません。それは何でございましょうか?」

「あぶあぶ」(日本国憲法だ)

「え~~~っと『あぶあぶあぶあぶ』でございますか? 難しくて判りません」


福が首を捻り、その返答に俺も首を捻った。

まるで俺の言葉を理解しているような回答に思えたからだ。

これならどうかと、論語を諳んじた。


「あぶ、あぶぶ、あぶあぶあぶ、あぶあぶあぶあぶ。あぶあぶあぶ、あぶあぶあぶあぶ」(しいわく、そのきにあらずしてこれをまつるは、へつらうなり。ぎをみてなさざるは、ゆうなきなり)


すると、女中は戸惑ったように目を丸くした。

そして、「まさか」「そんな筈がないわ」「でも……」と呟き、おそるおそる口を開いた。


「あのぉ? そのぉ? 私も馬鹿なことを考えているのかと思うのですが、でも、そのお言葉がそれに似ており、まさかと思うのですが、『孔子』の一文でございますか?」


そう言うと、「子曰く・・・・・・・・・・・・」と、俺が言ったフレーズを女中が繰り返した。

青天せいてん霹靂へきれきだ。

(※)青天の霹靂:青く晴れた空に突然におこるかみなり、思いもかけなかった突発的なできごとが起こること。

 まさか、俺の『あぶあぶ語』を理解できる者がいるとは?


「あぶぶう?」(名前は?)

「福。成田なりた-長時ながときの娘でふくと申します」

「あぶか。あぶぶ」(福か、覚えた)

「魯坊丸様。まさかと思いますが、『子曰く、其の鬼に非ずして之を祭るは、諂うなり。義を見て為さざるは、勇無きなり』と言われたのではありませんか?」

「ばぁぶぅ~!」(正解)


えええええっ!

自分で聞きながら、驚きの余りに福は悲鳴のような声を上げた。

その大きな声で皆が集まり、福は俺が言葉を理解出来ると説明した。

その証明に福が問い、俺が「あぶあぶ」と答えたが、やはり俺の声は「あぶあぶ」としか聞こえないようだった。

それでも福は一生懸命に説明するが、翻訳するのも福だったので、福の勘違いと思われた。

福の話は誰にも信じて貰えなかった。

そりゃ、そうだ。赤ん坊が論語をしゃべる訳ない。

福の思い込みと解釈された。

まぁ、俺が賢い赤ん坊程度には理解された。

そして、すぐに平穏に戻った。

福も説明を諦めたらしく、俺と福の論語当てが新しい遊びとなった。

ちょうどよい暇潰しだった。

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