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   ◇◇◇


「今夜は早いお越しだね」

 矢上の笑顔に碧斗も自然とほほえんだ。

 空いている時間を狙って来たが、すでにカウンターに三人、テーブル席にも二組がいる。その一人が、「よお」という口の動きをして碧斗に手をあげた。磯崎だった。

 正面の連れがそんな磯崎につられて碧斗へと振り向く。若い感じの男で、「誰?」というふうに磯崎に訊ね、それに答えている磯崎はそれでもこれ以上碧斗にかまってくる気配はなさそうで、緊張しかけた碧斗は心底ほっとした。あの青年が磯崎の新しい遊び相手なら、それに越したことはない。

 カウンターに座ってジンフィズを注文した。「どうぞ」と、いつものにこやかさでグラスを差し出す矢上に、用意してきたメモを見せる。

『この間の分の会計は、今日のに足してください』

 この間、とは、久遠をここに連れてきて、磯崎の登場で会計もままならずにそそくさと店を出てしまった、あの夜だ。あの夜、久遠に告白されて、恋人関係になった。思いがけなく幸せな人生の一歩を踏み出すことになった夜だった。

 矢上が怪訝そうに小首を傾げる。

「もう、久遠さんが支払ってくれたけど…」

 呆気にとられた碧斗に、「近くに用事があったからって。それで昨日、寄ってくれたんだよ」と、付け加える。心ならずもまたおごってもらう形になってしまい、この後で久遠の部屋によばれているが、なんとしてでもこの勘定を渡そうと碧斗は誓った。

 幸せで歯がゆいそんな気持ちが顔に出たのか、碧斗に向かって矢上が軽く喉を鳴らす。

「いい関係になったみたいじゃない? 雨降って地固まる、みたいだったのかな?」

 なんでもお見通しだよという感じで眉をあげる。

 確かにあの時の碧斗の心は豪雨の嵐で、それが結局は矢上に言い当てられたようになった。

 碧斗は面映ゆく感じながら頷いて認めた。

『あなたに謝らなきゃならないことがあるんだ、矢上さん』

 あらためてメモをしたためた。

「何、かしこまって」

『騙していて、ごめんなさい』

「え――? 騙すって…何を?」

 顔に狼狽を乗せる。続きの言葉を碧斗は書き綴った。

『昔のこと。騙すつもりじゃなかったんだけど、言い出しづらくて話せなかった。親を殺した人殺しだと、あなたに知られたくなかったんだ。でも、きちんとあなたに自分から伝えるべきだった。黙っていて、ごめんなさい』

 書いた後で目をあげると、矢上はさらに呆気にとられたみたいに口をうっすらと開き、視線を揺らす。それから感極まったように声をあげた。

「何を言っているんだ、碧斗君…! そんなふうに考えるものじゃない。きみはあの時、全然、悪くなかったろう。きみは戦ったんだ。本当に、よくやったよ。こんなにすごい男の子はいないと思ったよ、僕は」

 矢上からの激励の気持ちが碧斗の心に深く響く。

 碧斗の脳裡に、不意に幸雄の懐かしい声が去来した。

『碧斗。お前はよくやった。本当によくやったんだ。お前ほど偉い男の子はいない。碧斗ほど勇気のある男の子は、この世にいないんだ。だからお前は俺の誇りだ。俺の、生甲斐だ』

 胸につかえていたものが払われ、突然、涙が噴き出した。

「謝ったりする必要はないよ。僕は、何ひとつ、きみに騙されたなんて思っていない。きみの過去がどんなものであろうと、今、僕の目の前にいるきみだけが、きみなんだ。今まで通り、僕の大事な友人だ」

 視界の潤んだ目で矢上を見あげた。

 あたたかな人に、とっくに恵まれていたのだ。そんな幸せをわきまえず、自己嫌悪ゆえの自堕落な生活をしていた自分は、つくづく愚かだったと思う。

 精一杯の感謝を込めて首肯した。

 あなたもまたオレの大事な友人です。その気持ちを頷きに込めた。



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