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『ありがとう』

 碧斗はそれでこの話を終えようとした。

『そろそろ帰る。今日は、励ましてくれて本当にありがとう』

 続けて書いたメモを見せて立ちあがろうとすると、腕をとられた。落ち着き払った様子で片眉をあげた久遠が形の良い唇を優雅に開く。

「まだだ。今夜はきみを買ったと言ったろ?」

 響きは淡々としているものの、隠れた熱気を感じさせる凄みのある声だった。うろたえた碧斗は茫然と久遠を見つめ、あげかけた腰をゆっくりおろす。困った男だ。飄然とした表情からは、何を考えているのかさっぱり読み取れない。

『あなたの厚情はもうたくさん頂いたから。感謝してる。でも、今日はこれで失礼したい』

 碧斗は改めてしたためた。

「厚情? 違うな。俺はもっと自己中心的な男だよ」

 急に謎解きみたいな科白が出てきて、頭が混乱する。

「きみは俺のことをずっと見ていたし…」

 なんのことかと戸惑う碧斗に、片頬をかすかに緩めた久遠が、どことなく挑発的なまなざしを送ってくる。

「古書店で俺をよく見ていただろう? 防犯用の監視鏡に映っていた」

 しばらく逡巡した後、あ…と突然思いあたって、背中がジワっと熱くなった。

(気付かれていたのか)

 幸雄がずいぶん前に取り付けた万引き防止用の凸鏡だった。

 店のすべての角に取り付けられているのだが、碧斗はその存在をしばしば忘れてしまう。だからほとんど役に立っていないのだが、しかし久遠はあの鏡で、久遠を盗み見ていた碧斗に気づいていたのだ。ならば呆けたように久遠を眺めていた顔も見られていたことだろう。恥ずかしくって顔の赤らむ思いになって、碧斗は穴があったら入りたい気分になる。

「万引きしそうな奴だと見張ってた?」

「……」

「それとも、そんなにしみじみ眺めたいほど、俺はどこかヘンだったかな」

 わざとらしくふざけた口調をする。猫じゃらしでからかわれている気分だった。

「俺もきみを見ていた。古書店で再会してからずっと、きみを見ていたんだ」

 突然、声に深みが増し、色が乗せられて、碧斗の心が落ち着きなくざわついた。

「気になったからだ」

 どういうことかと訊ねようとする碧斗の返事を、久遠は待たない。

「きみはノンケだと思い込んでいたから。けして本気になるまいと決めていた。でも、どうしてもできなかったんだ」

 苦笑に似たやさしい笑顔を浮かべる。

「二度目にハイファンへ行った時、きみに夢中になっている自分に気づいた。片瀬海岸ではもう気持ちの変えようがないなって、長い片想いになるだろうと腹をくくったんだ。きみをノンケだと信じきっていたから。心底、疑いもせず」

 ベルベットに似た低音が、くすぐったいような低音を乗せる。

 自分は今、なんて言葉を耳にしているのだろう。

 唖然として唇を開く碧斗を、久遠は静かに見つめ続ける。だがどうして殺人者だと知った自分にそんな科白が言えるのか、碧斗にはにわかに理解できなかった。久遠から好まれている、その最高の喜びよりも、長年積み重ねてきた恋愛への恐怖が心を支配する。

『オレなんかやめたほうがいい。もし変な噂になったら、あなたに迷惑がかかるよ』

 震えおののきながらボールペンを走らせた。

「変な噂?」

 久遠がきょとんとする。

『オレは、父親を殺している殺人者だ。あなたの勤め先に知られたら、問題になる』

 それだけは避けねばならないと怯える碧斗に、久遠はなんでもないように返事をする。

「そんなことで俺の仕事はなくならないぞ」

 なんともあっけらかんとした答えだ。

「言わせたい奴には言わせておけばいい。さっきも言ったけれど、あの時のきみの行為はれっきとした正当防衛だったんだ。堂々としていればいいだけだ」

 まっすぐな男気を見せながら、それこそ堂々と宣言する。

「それともきみは、俺がきみを好きでいることがそんなに迷惑なのか?」

 とんだ誤解を受けそうになって、それは違うと慌てて書いた。その焦りが伝わったのだろう、久遠が表情を和らげる。

「それならよかった。手話をやり始めたのも、実はきみと一緒に使いたいという、下心もあってなんだ。少しでも早くマスターするように頑張るから、待ってて」

 そこまでもったいないことを言われて、胸を打たれた碧斗は涙しそうになる。

『でもオレは、あなたに食事一つ作ってやれない。包丁にさわれないから』

 さすがにこの告白はしておくべきだと思ってしたためると、久遠はひどく動揺した。咄嗟に息を飲んだのが伝わってきて、続く沈黙が久遠のショックの深さを表しているようで、碧斗はいたたまれなくなる。

(本当に惨めだ)

 こうして奇跡的に両想いになれて、夢のような望みが果たせても、さまざまな障壁が立ちはだかって彼にふさわしくない己を見せつける。もっと違う生き方で、もっと違う人生で、もっと違う人間として久遠に出会えればよかった。それならばきっと、自信を持って久遠を愛せただろうに。

 不意に引き寄せられ、抱きしめられた。思いがけなく強く久遠の腕にくるまれて、その胸元にいだかれる。あたたかさが久遠からじんと伝わってきて、しょげかえった碧斗の胸の奥深くまでをぬくめてくれるようだった。

「かまわない、それでいいんだ。碧斗」

 久遠が静かに言い含める。

「碧斗にとってそれはとても大切なことなんだろう。碧斗が生きるために必要なことなら、俺にとっても必要だ」

 久遠は海のようだ。

 怯えてたじろいでばかりの碧斗を、つき離すことなく厭くことなく、同じ静けさで同じ強さで、打ち寄せる波のように惜しみなくいたわっては救おうとする。

 返事を見失っていると手をとられた。指と指とを絡められ、深く握られる。

しかし差し出された宝石があまりに素晴らしければ怖気づいて逃げ出したくなる。同じ畏れに襲われる一方で、碧斗はそんな久遠の求めに応じられる強い人間になりたいとも切に願った。

 奪われるように唇が重ねられた。

 しっとりと、ゆっくりと、大事なものを差し出すリズムで唇を食み合う。キスは会話なのだ。好きだ、好きだと、真摯に伝え合う会話。

 キスが気持ちいいと初めて感じた。舌先が触れ合い、どちらともなく絡める。音をたてて貪るうちに、自然と気息も乱れてくる。

 好きな人とのキスはこんなにも興奮する。身体の芯が、キスのリズムに合わせて官能的に滾ってくるみたいに。それもまた初めての経験で。

『抱いてほしい、久遠さん』

 久遠のものが萌し始めたのを感じて、そうねだった。自分などに欲望を持ってくれるのがたまらなく嬉しかった。なのに、久遠はそっけなく返すだけだった。

「我慢できるから」

 不感症を慮ってくれてのことだろうか。でも、それこそ碧斗は寂しくなる。

ごく普通の性欲を持った久遠が自分のせいで不自由をするなんて絶対に嫌だ。

いっそ奪ってくれたらいいのに。しかし不感症の身体を無理やり犯しても、久遠は気持ちよくなれないのかもしれなかった。

『でも、オレはあきらめたくない。いつかあなたに抱いてもらいたい』

 泣きたい気分で本心を打ち明けた。そんな碧斗の背中を、久遠はなだめるようにさする。

「俺も諦めてはいないさ。ゆっくり馴染んでいこう。いつかきみも気持ち良くなれる。そんな日が必ず来る。時間はたっぷりあるんだ、焦らずに馴らそう」

 むつまじい手つきで髪を梳かれた。

 腕をとられ、促されて、思いがけず久遠の腰にまたがる形になった。

 久遠は碧斗を腕にくるむと、小さい子をあやすように身体をかすかに揺らす。この上なくあたたかな安らぎに、心が深く感じ入る。この人を父に持つ子はさぞかし幸せだろうと、ゆったりした振動の中で碧斗は思った。

 喉元に顔を埋めた。

 男の匂いがする。

 ほのかな汗と、整髪剤とオードパルファンの混じった、大人の男の匂い。碧斗を惹きつけて離さない久遠の香気。

 滲む涙を久遠のシャツにこすりつける。碧斗を抱く腕に久遠が力をこめた。

至福が心に沁みわたる。

 汚濁にまみれているはずの人生に、まったく違う道が伸びてゆく。まるで天から光が降り注いで、目の前に明るい道が果てしなく拓かれてゆくみたいに…。

 耳朶にそっと口づけられた。

 うっとりと瞼を閉じれば、涙がひとしずく零れ落ちる。ゆるやかな安堵が碧斗の身体に満ちていった。


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