第27話 手は届かない3
夏樹の腕に美奈の腕が絡まって、声が聞こえるようにと体をぐっと寄せられる。途端に感じるのは香水とアルコールの甘い匂いだ。もう酔っているのだろうか。
こんな場所では、モデルとしての教訓だとか、そう言った真剣な話が出来る気もしない。完全に見誤った。
とは言え、そそくさと逃げ帰るわけにもいかないだろう。美奈に腕を引かれるまま、夏樹は身を任せることしか出来ない。
「夏樹くん、何飲む?」
「えっと、じゃあ何かジュースを」
「え~? お酒飲まないの?」
「いやだってオレ、まだハタチになってないですし」
「ふふ、ちゃんとしてるんだね。偉いなあ。じゃあ……すみませーん、オレンジジュースひとつ」
バーカウンターのようなところに立ち寄り、お洒落なグラスに注がれたジュースを受け取る。オレンジジュースは柊吾と過ごした苦い朝を思い出してしまうのに。断るわけにもいかずそれを受け取ると、また美奈は夏樹の腕を引く。
「あの、美奈さんは踊ったりするんですか?」
「ううんー、私はそっちは見る専門。それよりお酒飲んだりするのが好きだよ。ねえ、こっち」
「あっ」
ぐいぐいと引っ張られ続け、奥まった場所にソファが見えた。そこで座って飲むのだろうか。もしかするとあそこでなら、話が出来るだろうか。
やっぱり来て正解だったのかもしれない、と気分が持ち直してきた、その時だった。
人にぶつからないようにと上に掲げるように持っていたオレンジジュースが、手首ごと何者かに捉えられる。何事だと振り返った夏樹は、驚きのあまり息が止まってしまった。
何故ここに柊吾がいるのだろう。
「夏樹」
「え……え、椎名さん!? なんでこんなとこに」
「それは俺のセリフ。はあ、ずっと嫌な予感はしてたんだけどな」
「…………? えっと?」
柊吾が何を言っているのか分からず首を傾げる。するともう片手に巻きついていた美奈が、まるで抱きつくように夏樹の胸元に顔を寄せてきた。
「夏樹くん、この人は?」
「あー、その……」
斜め上からの角度でも、美奈が柊吾に見惚れているのがよく分かる。そりゃそうだろう、椎名柊吾という男はとびきり格好いいのだから。
鼻高々に感じながら、だがそれ以上に急激な嫉妬を覚える。柊吾のことを知られたくないという、身勝手な独占欲だ。
どう答えたものかと思っている内に、右手のオレンジジュースが柊吾に奪われてしまった。そしてそのグラスを柊吾は美奈に押しつけてしまう。
「これ、君が飲んで」
「え? なん……」
「夏樹、出るぞ」
「えっ、椎名さん!? ちょ……あ、美奈さんすみません! じゃあまた!」
柊吾に腕を引かれるままに、夏樹はかろうじて美奈にそう告げた。呆気に取られている美奈の顔が、踊り続ける若者たちの波間に消える。
せっかく誘ってくれたのに申し訳なく思う、思いはするが、夏樹の頭の中は既に柊吾でいっぱいだった。
下りてきたばかりの階段を、柊吾と共に駆け上がる。夜の街の明かりに照らされて、柊吾の襟足の髪はこんな時でも綺麗だ。
見惚れている内に、クラブから少し離れた通りに出て立ち止まる。乱れた息に肩を揺らしながら、柊吾が苦々しげに口を開いた。掴まれているままの手首にきゅっと力が込められる。
「夏樹、あんなとこ行っちゃ駄目だ」
「あんなとこ? えっと、クラブが駄目ってことですか?」
「クラブがっつうか……あそこはちょっと特殊なんだよ。ナンパが多いし、遅くなってくるとVIPルームでヤる奴らも出てくる。それに……噂だけど、クスリのやり取りもあるらしい」
「え……」
「白瀬美奈、前からよくあそこで見かけててさ。夏樹が一緒に仕事したって聞いてから注視してたんだけど……あの子は純粋に遊んでるだけだと思う。でもあのクラブに出入りしてるってもし世間にバレたら、いいことはひとつもない」
「全然知らんかった……」
柊吾の話を聞いて、なんて危ない場所に踏みこんでしまったのだろうと肝が冷える。美奈にそのつもりはなかったとしても、知らず知らずのうちに誰かに酒でも飲まされて、危ない場所に連れこまれたら?
そうでなくとも、柊吾の言う通り万が一誰かに撮られたり噂にでもなったら、本当のことを述べたとしたって信じてもらえないだろうことは想像に容易い。
「椎名さん、ありがとうございます。もし巻きこまれたりとかしてたら、オレすげー後悔してました」
「ん、何かある前でよかった」
「…………」
柊吾に連れ出してもらえてよかった。頭を撫でてくれる優しい手に身を委ね、だが夏樹の胸は晴れはしない。
柊吾は言った、あのクラブでよく美奈を見かけるのだと。それはつまり、柊吾も頻繁に出入りしているということだ。
そんな危険な場所に?
大きな不安と、押しこめていたモヤモヤがみるみる膨らんでいく。
「椎名さんは……」
「ん?」
「椎名さんは、あそこによく行くの?」
「あー……うん」
「なんで? 危ない場所なんすよね?」
「そうだけど……知り合いがあそこでDJしてて、よく呼ばれてさ」
「……それって、でも椎名さんだって危ないっすよね?」
「まあ、俺はほら、一般人だからそういう面倒はないし。奥は行かないようにしてるから、平気」
「っ、そやんと関係なかです!」
「……夏樹?」
柊吾にセフレがいると知った時の違和感の正体が、やっと分かった。
歪なのだ。周りの人たちにとことん優しいのに、自分自身のことは蔑ろにしているように見える。
「オレ、椎名さんが連れ出してくれてよかったです。でも、そんなところには椎名さんにも行ってほしくない」
「…………」
「っ、オレは熊本から出てきたばっかやけん、まだこの街のことも、店とかも詳しく知らん。だけん、そういう危ないことから椎名さんを守りたくても、オレには何も出来ん……だから、椎名さん自身がもっと椎名さんのこと大事にしてよ!」
「夏樹……」
柊吾への歯がゆさに、甘く鼓動していた手首を振りほどく。
夜が更けても賑やかな街では、大声を張り上げる夏樹に一瞬注目が集まっても、すぐに他のものへと移ろってゆく。忙しない通りに、夏樹のぐずぐずの鼻音はかき消される。
それでも柊吾はハッとしたように肩を揺らした。夏樹に手を伸ばしかけ、けれど空を掴んで彷徨う。何も言葉は返ってこない。
面倒だと思われたのかもしれない。だが言ったことは夏樹の胸の真実で、取り消したくはなかった。
「オレ、帰ります。椎名さんは?」
「俺は……まだ」
「っす。じゃあ、お先に失礼します。気をつけて帰ってきて下さいね」
自分に何があれば、柊吾を連れ出せたのだろう。いつも気にかけてもらう側で、優しくしてもらってばかりで、好きで仕方ないのは自分だけで。だから届かない、何も出来ないのだと思うと悔しくて仕方なかった。
柊吾の隣をすり抜け、人波に溶ける。
いっそ消えてしまいたくなる夜、どこもかしこも煌びやかな街はなんて酷なのだろうと夏樹は思う。
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