第14話 初仕事

 週に五日はnaturallyでアルバイト、休日のうち一日はレッスン。それが夏樹の今のルーティンだ。

 目に映るものはどれも新鮮で、教わることは全て取り零したくないと思えるほどに、糧になるものばかり。充実感に満ちた有意義な日々だ。

 それでも最初のうちは、毎日夜になる頃にはへとへとになっていたのだが。六月ともなれば常に帯びていた緊張感も解れてきて、体もずいぶんとこの生活に慣れてきた。


 日常となってきていることと言えば、もうひとつある。このマンションでの三人暮らしだ。

 東京のどこか小さなアパートで、一人暮らしをするものだと思っていた。それだってきっと、心が浮足立つ日々だったはずだ。だが今の生活を知った体では、きっと物足りなく感じることだろう。

 そう、だからこんなことで寂しく思うのは傲慢だ、分かっている。分かっている、のだけれど――

 晴人は今日も恋人のところに行くと出掛けていったし、夕飯を終えてすぐおやすみと言った柊吾は、部屋ではなく夜の街に消えていった。


 広いリビングに梅雨の雨だれで閉じこめられる夜。ひとりで過ごす夏樹の心は気弱になっている。スマートフォンのメッセージアプリも開いてみたけれど、最近は地元の友人にも彼女にも連絡は出来ていなかった。仕事はどうだ? と聞かれたくないからだ。


 東京での生活は充実している。ただ、モデルとしてはまだ芽が出ていないのが現状だ。

 オーディションを見つけては応募しているし、SNSも始めた。晴人が“うちの新人くんだよ”と夏樹の写真を投稿してくれた時には、フォロワーが一気に増えた。その際に届いたコメントには、ワンコ系イケメンだとか弟系だとか、いわゆる“可愛い”との評価が多かった。

 憧れているのはあの椎名柊吾だ。自ずと夏樹の理想も“格好いい男”で、そのギャップに少し悩んだりもした。とは言え、まずは知ってもらえたことが嬉しい。だがフォロワー数は三百人に到達して以降、伸び悩んでいる。たかだか三ヶ月で落ちこむのは早いよと晴人も前田も、柊吾だって励ましてくれるが、それもそうかと楽観は出来ないでいる。

 


 このまま燻って終わってしまうのだろうか。結果を出せない自分が、静かな部屋が、昏いほうへと夏樹を連れてゆく。

 そんな胸を晴らす一報が届いたのは、引きずりこまれるようにソファにくずれた時だった。着信を知らせるスマートフォンの音に、ガバリと起き上がる。寂しいからと抱いていたふにゃくまが、ソファの下に転がり落ちる。


「前田さんだ。もしもし、南です」


 新しいオーディションの知らせだろうか。電話に出ながら落ちてしまったぬいぐるみに手を伸ばす夏樹は、けれど次の瞬間には勢いよく立ち上がった。電話の内容が夢のようだったからだ。


「え! それマジっすか!?」

『大マジだよ。どうする南くん』

「やりたいです! やらせて下さい!」


 前田の話はこうだ。明日の早朝から、都内で女性向けファッション雑誌の撮影がある。そこでキャスティングされていた男性モデルが急遽体調不良になってしまい、編集部は代役を探している。夏樹を指名してのものではないが、誰かいないかと早川モデルエージェンシーに連絡があったとのことだ。

 前田は『南くんならそう言ってくれると思ったよ』と、夏樹の希望をどこか誇らしそうに受け取ってくれた。その心強さに、萎んでいた心が再起動する。

 明日の朝、マンションの前まで迎えに来てくれるとの約束の後、通話を終える。


「うう、やば!」


 ふにゃくまを今度こそ拾った夏樹は、そのままソファへとダイブした。雨は今も上がらないし、変わらずソファに転がっている。だが心の中は先ほどまでと丸っきり違う。

 体調不良になってしまったモデルには悪いが、これはチャンスだ。初めて雑誌に載ることが出来る。しばらくは静まりそうにない心臓と一歩進める感覚に、パタパタと動く足を止められない。


 ただひとつ残念なことがあるとすれば、ここに夏樹以外誰もいないということだ。応援してくれているふたりにいち早く報告したくなる、きっと喜んでくれる。だが、邪魔するわけにもいかないだろう。晴人は恋人と過ごしているし、柊吾だって――

 週に一、二度、どこに行くとは言わずに夜の街に消える背中を思い出す。言わないのは、出逢った日のことがあるからだろう。そうさせてしまっているのだ、夏樹が。


「……別に言ってくれてもよかとけど」


 なあ? と話しかけても、ふにゃくまは答えてなどくれない。静かな部屋で響いた声が自身の胸に戻ってきてしまえば、夏樹はそれに「うん」と頷くことが出来ない。

 柊吾が誰かと肌を重ねる様を想像しかけて、慌てて首を振ってそれを散らす。椎名柊吾という男を知れば知るほど、一緒に時を過ごすほど。セフレという淫靡なワードは、柊吾を表すものとしてやはりアンバランスだった。


「あ~終わり終わり! お風呂入ろ!」


 再び心が沈んでいってしまいそうで、夏樹はそれを振り払うように立ち上がった。明日は普段より早く起きなければならない、それに何より一歩前進するのだ。こうしてはいられないと、風呂場へと向かう。だがふと思い直し、すぐにリビングへ引き返す。


 明日はnaturallyでのバイトが入っている。モデルの仕事を応援してもらっているからこそ、きちんと連絡をするべきだ。真っ先に柊吾の顔が浮かんだが、今は送れないのだったと画面を戻る。ここはいつも仕事を教えてくれる先輩がいいだろう。シフト表で明日の出勤を確認し、<モデルの仕事が入ったので明日は休ませてください>と尊にメッセージを送った。

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