第2話 上京2

 目の前の現実に、開いた口が塞がらない。まさかの人物が突然現れて、自分の名前がその人の口から飛び出てくるなんて。この状況で「はいそうです、どうもこんにちは」とすんなり答えられる人がいるのなら、是非お目にかかりたい。


「初めまして。俺は晴人はると

「し、知ってます!」

「わお、ありがと。はい握手」

「ひえっ」

「ふーん……なるほど。確かにアイツの目に狂いはなさそうだな」


 右から左から、夏樹より高いのにわざわざ背伸びしてまで上から、それからしゃがみこんで下からも。挨拶も早々に素早い動きで夏樹を観察するその人――この事務所の看板である人気モデルの晴人はそうつぶやいた。

 なるほどの意味も、“アイツ”が誰なのかも何も分からない。言葉ひとつひとつの意味が、今の夏樹の頭ではちっともかみ砕けない。


「はいはい、こっち。中に入って」

「あっ、ふあい!」

「はは、ふあい」


 晴人に手を引かれ、中へと足を踏み入れる。事務所内はワンフロアで、デスクで仕事をしている人たちに会釈をしつつ奥へと進む。


「社長~。はい、新人くん。てことで、もう連れてっていい?」

「いいわけないだろ。初日なんだから伝えることが色々ある」

「だよね。じゃあ終わったら教えて~」

「初めまして、南夏樹くん。社長の早川です」


 連れてこられたのは、社長のデスクの前だった。歳は五十代くらいだろうか。真っ直ぐに見つめられ、ピンと背筋が伸びる。


「はっ、初めまして! こ、この度は採用? 所属? を、あの、ありがとうございます!」

「はは、そんなに固くならないで。そっちに座ろうか。晴人、ちょっと端に寄りなさい」

「痛った! 暴力はんたーい」

「はいはい。南くん、そちらにどうぞ」

「はい! 失礼します!」


 応接用なのだろう、向かい合わせに設置されたソファへと案内される。そこに寝転がっていた晴人は、早川に軽く蹴られて座り直した。


「改めまして。早川モデルエージェンシーの社長、早川です」

「南夏樹です!」

「ちなみにこっちは私の甥ね」

「はい! え、そうなんですか?」

「そ~。叔父さんに誘われてモデル始めたんだけどさ。事務所と同じ名字だねっていちいち聞かれんの面倒だから、下の名前だけで活動してる」

「なるほど」


 改めて晴人をマジマジと見つめてしまう。


 夏樹より高い背丈は、プロフィールによれば185㎝。年齢は五月で24歳、夏樹の五つ上だ。スモーキーなブルーに染められた髪は整った顔立ちによく似合っていて、仕草のひとつひとつすら様になっている。モデルになりたいと思い立ちこの事務所を選んだのは、晴人が所属しているからに他ならない。彼ほどの人がいるのだから、しっかりした事務所だろうと窺えたのだ。


「南くん? これからの話だけどいいかな」

「あ、はい! お願いします!」


 晴人に持っていかれていた夏樹の意識を、早川が呼び戻す。慌てて姿勢を正し、膝の上に両手を揃えた。


 細かいことは追々と前置かれつつ、仕事に関していくつか話が進む。それからもうひとつ重要なことは、住まいの件だ。


「荷物は指定の住所に送ってくれた?」

「はい! 言われた通り、午前指定で送りました!」


 所属の話と一緒に、住む場所も用意すると申し出てもらっていた。他事務所の例は知らないが、こんなに有り難いことはない。噛みしめながら頷くと、晴人がひらひらと手を挙げる。


「ちなみに、俺と一緒の家だよ。ルームシェアってやつ。これからよろしく」

「へ……え! そうなんすか!?」

「うん。もうひとりいるから、帰ったら紹介するね」


 驚愕の事実に、口をあんぐりと開けてしまう。あの晴人とルームシェアをすることになるなんて。目を見開いている夏樹を晴人がくすっと笑って、それじゃあ行こうかと促されるままに立ち上がる。


「南くん」

「はい!」


 早川に呼び止められ振り返ると、握手を求められた。差し出された手を噛みしめるように両手で掴む。晴人の叔父だとすんなり納得出来るほど、早川も綺麗な顔立ちをしている。


「君のことは、うちの人間……というわけじゃないんだけど、送ってくれた写真に目を留めた者がいてね」

「そう、なんすか?」

「ああ。実際に会ってみて、私も改めてすごくいいと思ったよ。これから期待してる」

「っ、ありがとうございます! オレ、頑張ります!」


 そんなことを言ってもらえるなんて、と感激に涙が浮かぶ。握っている手には、ぎゅっと力がこもる。間違いなく、人生が大きく変わる瞬間を今生きている。


 手を離せないでいると、はいはいそのへんで、と晴人に急かされた。肩を組まれて事務所を出ながら、最後にもう一度振り返り頭を下げた。

 


「夏樹って呼んでいい?」

「もちろんっす!」

「ありがと。これから楽しみだね」

「はい、すげー気合い入ってます!」

「はは、素直でいい子だなあ。じゃあ帰ろうか、我が家に」

「っす!」


 晴人の気さくな人柄を有難く感じながら、エレベーターで一階まで下りる。ひとりじゃない道は、来た時よりも足取りが軽くなる。



 だがこの後大事件が起きることを、夏樹はまだ知る由もない。ずっと追い求めてきた流れ星のような煌めきがすぐそばで光っていて、そしてそれが散り散りになってしまう――なんて。胸は希望で満ちていて、考えもしなかった。

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