夏衣幡織綾紗

小鷹竹叢

① 姫神の――1

 彼には物心ついた時から付き纏う、幾つかの光景からなるイメージ、もしくは夢があった。ふと足を止めたりそれでなくとも何かの途中に不意に思い出して、幻影にまどろみ、しばしの間そこに留まらざるを得ないような、たとえグロテスクであったり悪趣味であったりしても強制的に魅せられてしまうような、たとえ一献であっても泥酔してしまう悪酒のように本人を強く惹き付ける一幅の絵巻。端から始まり端に終わるまで瞬きたりとも許されない、一連の映像だった。


 そうしたものは多くの人が持っているのだろうが、いずれにしても我々はその夢想を自らの最も奥深く、それが湧き出でた心の奥底に秘蔵し、決して衆目には晒さずに、またそれがあると余人には察せられないようにして、自然再生される場合の他には、ほんの時折、孤独な瞑想に浸る時のみ取り出して、冷ややかな水晶を愛でるように掌中に転がし、一時の感傷に浸るか荒ぶる熱情に肌を焼かせるのみである。


 だが、ほとんど全ての人々がそうしたものをかつては持っていたとしても、それをいつまでも保ち続けるのは難しい。少年時代、青年時代を超える頃には高踏的な一人遊びをするにはもはやわずらわしいしがらみが自身を取り囲み、近寄ろうとも難しく、そして自らの意思で手に取らなくなるのと同時して、無意識の内に映像が再生されることもなくなっていく。


 精神的肉体的社会的に成長し、世俗の塵に揉まれる内に心の聖域には雑草が繁茂し、自身の中心であったはずの幻想そのものまでも曇ってしまう。水晶はすでに輝きを放っていない。その頃にはもう本人がどれほど望もうとも覗き込むことは出来ず、それどころかあれほど強く輝いていた光の一片すら浴びることは叶わない。ついには諦め、そして、そうしたものがあった事さえ忘れてしまう。


 しかし、この彼は幸いにも――果たしてこれを幸いと呼べるのかは分からないが、失くしてしまうよりは良いのだろうか――、この種の幻想を中学三年の夏になるまで持っていた。


 当然のように彼もまた、そうしたものを持っている事やその内容を他人に語るようなことはない。近い人なら嗤われて、遠い者には気味悪がられると分かっているからだ。特に、彼のものであれば。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 風景はまず弱々しい蝋燭の火が幾つか灯る地下霊廟から始まる。薄明りの外は漆黒の闇、目を凝らさなければ前後左右、上下さえもはっきりしない。にもかかわらずそこが霊廟と分かるのは、それが夢であるからか、それとも何度も見ているからか。それらの理由もあるとも言えるが、証明するのは大気中に充満し、鼻先に粘る腐肉の香り。あまりにも強い。ここの主はもしや棺から出ているのではないだろうか。


 床は敷石、モザイク状に様々な色が敷き詰められている。いや、足にぐっと力を入れれば、僅かに凹む。石と見えたのはそれぞれが書物。鞣革だったり、和紙だったり、更紗だったり、黒かったり、緑だったり、黄色かったり、茶色だったり。表紙の色も素材も様々な書物が床一面に並んでいる。


 床に沿って奥へと視線を送っていくと、奥へ向かうに従って、小さな影がぽつぽつと。初めは何か、表紙の端が捲れたか、小さな芥が散っているのかと意識もしないで更に奥へと視線を送る。だが、ふと気が付く。その小さな影は一つ一つ、風もないのに動いている。影の一つに意識を注いで、よくよく眺めて見れば、それは、ぶくぶくと太った大きな蛆。それらが燭台の灯を背負い、ずるずると集い、奥へ奥へと向かっている。蛆が群れて留まっている所があると見えれば、そこにあるのは、てらてらと光る汚水の跡。


 汚水溜りの跡は点々としていたが、次第に数が増え、大きくなっていく。それらを辿り、更にと奥を見遣ってみれば、汚水の跡は、乾いていたのが、湿り気になり、湿っていたのが、濡れている。濡れていると見えたのも既に手前の話となった。既にそれは、血溜り、水溜り。膿や、溶け掛けた肉片も混ざっている。そして、遂に見えるのだ、痩せ細った黒い足裏が。ここの家主が、死体が、腐りつつ、棺どころか筵もなく、床にそのまま仰臥している。


 骨張った脛が長く伸び、それが剥き出しの骨でないと分かるのは、黒さが染み付いているからで、そのまま視線を送っていけば、辿り着くのは無毛の陰。生前からか、散ったか、禿げたか。あさましく骨に貼り付いていた黒皮は、骨のない場所、腹腔においては貼り付くことも出来ないと見えて、裂け、割れて。臓腑を外気から守れない。爛れ破れた腹には腸がとぐろを巻き、ぬらぬらとした粘液が伝う。粘液は蝋燭の火を反射して、腸の表面は揺らぎ、あたかもそれが動いているように。と、見えたのは錯覚ではない。事実それは動いている。腸だと思い、腹に収まっていると見えたのは、図太く長い大蛇の胴。身体の内の柔らかい肉を、喰らい、啜り、一片も残すまいと貪っていた。胸元の皮膚は残っていた。だが肋骨は崩れ落ちているのだろう、死体の胸は生者のものよりも激しい鼓動を打っている。死体の喉が、ぐうっと膨らみ、引き攣り開いていた口が、堪りかねて喘いだように大きく開く。熱い吐息の代わりに出たのは、丸々とした蛙の塊。一匹となく、二匹となく、次から次へと。あるものは唾液の頬を伝うように垂れ、あるものは相手に吐き掛けるように勢いよく飛び出して。この死体は人に属するものではなくなって、肉の巣窟、蛆の苗床、汚物の袋。


 鼻はない。そこにあるのは鼻梁が外され残った二つの孔。生きていた頃にはこんなものは決して人には見られなかっただろうに。頬骨は白く剥き出されている。腐乱した死体の中で、この白さだけが清潔に見えた。油気のない蓬髪がばさっと顔を半分覆っている。乱れ絡んだ髪の隙間から通して見える目元には、瞼の剥がれ、剥き出しになった眼球が、何故かこれだけ生者のものの其の儘に、真ん丸く水気を含んで残っていた。


 どうして腐敗のこれだけ進んだ死体の眼だけが、まるで生きているのと同じように残っているのだろう。煌く双眸は自らの足元に向いていた。濡れた目玉が火影でちらちら揺れていた。眼球だけが残る食い破られた腐乱死体が不気味で仕方なく、手を合わせるほどの信心深さもなく、この場から離れようとして、足を動かそうとすれば。違う。その視線は、死体の目は、こちらの動きを窺っているのだ。立ち竦む。


 意識は霊廟から上昇する。石灰の天井を抜け、地中へ昇り、腐葉土を通って草葉から、地上へ上がる。


 冴えた満月が雲一つない紺の天穹てんきゅうの中央に座を占める。月光を浴びる茂みは膝まで伸びて、小さな青い花が幾百幾千と散り散りに咲いている。そんな草原の中に一人、長い黒髪の白い少女が横を向いて佇んでいる。彼女はおそらく、地下に安置された死体なのだろう。その輪郭はおぼろで夜空に滲んでいくようだ。よく見れば、身に纏っている衣服は白無垢の花嫁衣裳で、一糸と乱さず、きっちりと着込んでいる。頭には何も被っていない。両腕はたらりと脇に垂れている。だが、袖の先には何もない。そこにある筈の小さな手はなく、背後の夜空の暗さがそのまま見えていた。そして胴は、腰がばっさりと断ち切られ、上半身と下半身とが分かれていた。それなのに崩れ落ちることもなく、すっと立っている。長い髪は腰まで流れて闇よりも黒く、天鵞絨ビロードのような光沢があった。その豊かな髪から覗く青白い頬、鮮紅の薄い唇、低くはあるが筋の通った鼻梁、切れ長の目、ぞっとするような目尻。それらを見ていると、首だけがゆっくりと動いた。こちらを向き、目が合ったと思う間に、彼女は月を後光に、微笑み掛けた。ただ、ああ、綺麗だった。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 こんな幻想をしばしば見るその彼、綾幡あやはた米彦よねひこは他人がこうしたものを持っているかどうかを気にした事はない。ただ自分だけが持っている光景として、不意に思い出し、ふと脚を止めてはそこに留まり、意識的に思い返しては細部をいとおしみ、いつか見た夢、自らを慰める心地よい記憶として扱っていた。それはお気に入りの玩具であり、口の中で冷ややかに溶ける甘い氷菓にすぎなかった。彼にとってこの光景はちょっとした愉しみにすぎなかった。それ以上のものだと思ったことはない。単なる空想だ。決して現実と関係するものだと思ったことはない。決して、これが自分の人生そのものであるなどとは。

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