第一話 笑顔の交差点


 大阪のミナミに住む人々にとって、心の拠り所と言えば、まず目に浮かぶのは商売繁盛や恋愛成就などを祈願する水掛けお不動さんかもしれない。私もそのひとりで、ここにお参りしてから、いつも法善寺横丁の絶品グルメを味わっている。


 線香を立てて、その心地よい香りに包まれていると、ここが難波の繁華街のど真ん中だということを忘れてしまう。


 水掛けお不動さんに「まいどおおきに」と手を合わせると、その温かい眼差しに包まれるような安心感が心を満たす。


 訪れるたびに、この聖地の温もりが私を優しく迎え入れてくれる。そんな笑顔の交差点の風景が、私は心から愛おしくなる。


 私の名前は、明美。道頓堀にある保険会社のコールセンターで働いている。三ヶ月ほど前、仕事の昼休みにお不動さんへと参拝した後、立ち寄ったお好み焼き屋で偶然相席になったまさみと出会った。

 彼女は大きな書店で働きながら、ネット小説の「エブリデイ」に作品を投稿し、プロの作家を目指している。職場には内緒で、本屋大賞を夢見ていたのだ。


 不思議なことに、私も同じ小説サイトで切なく甘い恋愛小説を読むことが多く、彼女とはすぐに意気投合。親しくなるのに時間はかからなかった。


 私たちはもうすぐ三十歳の大台を迎える独身で、いわゆる『おひとりさま』。 恋人はいないけれど、充実した日々を送っている。


 今日も、そんな私たちは仲良く、道頓堀の活気あふれる街を闊歩していた。私たちはコテコテの大阪人の誇りを胸に、笑顔で大阪弁を交わしていた。


 朝食はチーズオムレツをほんの少ししか口にしていなかったため、お腹はすでに空腹を訴えるゴロゴロという音を立て始めていた。時間はまだ少し早いが、私は彼女に昼食を共にすることを提案するつもりで、そっと声をかけた。


「これからどないするん? なんか用事あるん? お昼はどないするつもりや?」


 まさみは、ちょっと考え込んでから、ニコッと笑って答えた。


「あら、そうやねん。せやけど、ちょい待っとってな。まだお昼前の十一時やし」


「そうやけど……。お腹減ってもうたから」


「実はな、明美に相談したいことあるんや。すっかり頭から抜けとったわ。最近、物忘れがえげつのうて困ってるんやけど、今日はええものもろたんや」


「若いのになに言うてんねん。せやけど、相談って、なんやねん?」


 まさみは、本屋の店長からもらったという上方漫才の無料チケットを取り出して、得意げに見せてくれた。


「これ、見てみぃ。ふたり分がタダで入れるんや。なんば風月でやってるんやけど、イケまち女二銃士が『お宝屋本舗の春風にそよぐ虫ニゲール』っていうパロディーを披露するんやて。無料チケットをゲットしたんや!」


 なんば風月の舞台は、一流の漫才師を目指す者にとって、大切な登竜門とされている。その看板が目の前に輝いていた。

 まさみは、日頃から恋愛小説を書くだけでなく、吉元を中心に上方漫才を観ることも大好きな女性だった。


 私自身も、漫才そのものが嫌いなわけではなかったが、特にお気に入りの芸人さんはいなかった。そして、イケまち女二銃士のことも、これまで見聞きしたことはなかった。


「イケまち女二銃士って、どんなんや?」


「売れてへん漫才師やけど、めっちゃおもろいねん。まち子とイケ子、春風にそよぐ虫ニゲールの名場面をどえらいことにするんや」


「ふうん、そうなんや」


 私の返事は気のないものになっていた。


「ボケとツッコミの応酬で、笑いが止まれへんのや。巷のうわさによったら、これが最後の舞台になるかもわかれらん。昼飯前にちょっくら観に行こか?」


 まさみは、以前にこのネタを動画配信サービスで見たことがあるという。けれど、生の舞台で観るのは初めてだと教えてくれた。


 女二銃士は、上方演芸界の大手である吉元新喜劇に所属しているが、陽の目を見ることはほとんどなく、売れていないコンビである。まさみの説明によると、彼女たちは観客に無料で演技を見せる前座の芸人であるという。


 イケまちのふたりが、表舞台での成功を夢見て日々努力を重ねているのが見て取れる。まさみは、いつも彼女たちのことを気にかけていて、彼女たちの情熱と献身がいつか報われる日が来ることを願っていると私に話してくれた。


「ええよ。せやけど、『虫ニゲール』ってなんのことや?」


「ええっ、ほんまに知れへんの? 鷲のマークの挑戦的なテレビCMやで。美人のおねえさんが古本屋の前で、イケメンと張り合うてるやつ」


「知れへん、そんなん」


「『蚊に効きまんね、効きまんにゃわ』っていうキャッチフレーズが、皆の間で話題になってるんや。今回の漫才は、その宣伝をモチーフにしたパロディーやから、きっと腹かかえて笑えるわ」


「ほんまかいな。知らん、知らん」


 私は口を少し尖らせていたかもしれない。それにもかかわらず、まさみは輪を掛けるかのように、言葉を重ねてきた。


「口元をへの字にしながら言うてるやろ。あれ、こよなく愛する彼氏に変な女の虫が寄り付かんように、ちょっとした警告みたいなもんや。それがまた、めっちゃ笑えるんやわ」


 お腹が空いていた私は、特に気乗りはしていなかったが、まさみの提案に乗って演舞場へと足を運んだ。


 その時点では、私はまだ想像もしていなかった。これから目の前で繰り広げられる舞台は、予期せぬ笑いと感動の渦へと私を巻き込み、忘れがたい贈り物となるのだ。


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