第8話 風雲急を告げる

彼女の後ろを歩いていたA氏の足が突然からまったのだ。一週間以上、布団の中でウダウダ過ごしていたせいもあり、すっかり足腰が弱っていたのである。


A氏は、つまづいたかのように前のめりになり、佐藤女史の背中に覆いかぶさる形になってしまった。


この状況。普通ならどう捉えられるだろうか。恋人でもない男の部屋を訪ね、帰り際に後ろから抱きつかれる……。彼女が”そう”思ったところで、誰も責める事は出来ないだろう。


「あっ、ご、ごめ……」


A氏が”ごめん”と言い終わる前に、彼女は渾身の力で彼の腕を振りほどき、さっと振り返る。その顔は先ほどまでとは打って変わった憤怒の表情であった。


「ちょっと、あんた。何すんのよ!」


彼女の可愛いらしい顔からは想像できない、激しい言葉がA氏に浴びせかけられる。


突然の激高にA氏は、


「ご、ごめん。足が、からまっちゃて……」


と言い訳するも、彼女からしてみれば見え透いた弁解にしか聞こえなかった。


「ほんと、ふざけんな! あんた、どこまで図に乗れば気が済むのよ。いくら鈍いあんたでも、薄々は気がついてたでしょ? みんなが、腫物に触るようにあんたを扱っていたって。


政府の肝いりだか何だか知らないけれど、あんたと一緒に働くの、みんな嫌で嫌で仕方なかったのよ! わかる?」


余りの彼女の豹変に、A氏は目をパチクリとさせるしかなかった。


「私にしたって、怪物になる前から陰キャラでキモイあんたと、ここ何週間か一緒に仕事をするのがどれほど辛かったか。社長が土下座をする勢いで頭を下げて、特別手当をタップリ付けるからと言わなきゃ、絶対にあんたとなんかと仕事をするもんですか!


それを何を勘違いしたか、今度は私を自分の女にしようって? 自分のツラを鏡でとくと見やがれ、このクソ怪物野郎が!!」


彼女はそう啖呵をきると、あらん限りの力でドアをバタンと閉めて早々に出て行ってしまった。


取り残されたA氏は、ただ唖然とするばかり。あぁ、彼女が元ヤンだというあの噂は、本当だったようだ。A氏はそう思ったが、とんだ修羅場だった割りには、彼の心は意外と平然としていた。


分かっていた事じゃないか。


A氏は心の中で静かに呟いた。自分になど見向きもしなかった同僚が、こちらが恐縮するくらいに気を使ってくれた事、取引先で意外なほどの厚遇された事、そして高嶺の花である佐藤女史が、天使のような微笑みを自分にくれた事。


全ては政府から会社に圧力がかかっていたからこその幸せであり、今その化けの皮が剥がれただけの話である。


さぁて、彼女がさっきの出来事をどう会社に伝えるか。下手すりゃクビかなぁ。まぁ、今までの状況を考えれば、警察沙汰にまではならないだろう。


そんな事をぼんやりと考えているA氏だったが、スマートフォンの呼び出し音で突然現実へと引き戻される。


「Aさん? 今どこ?」


電話の相手は、B氏だった。


「どこって、自宅だけど……。何かあったの?」


慌てた様子のB氏の言葉に不信を得たA氏が尋ね返す。


「外よりはマシか。最低限の荷物をまとめて、今すぐそこを出て。いい? 今すぐにだよ!」


緊張しながらも、明らかに取り乱しているB氏の様子がA氏に伝わって来た。


「いったいどうしたんだよ。何を慌てているんだ」


事情が呑み込めないA氏が再び尋ねた。


「政府からメール来てない? 緊急避難しろって内容の。Aさん、落ち込んでいたみたいだったからさ、メールのチェックとかしてないんじゃないかと思って電話してみたんだよ」


緊急避難。それは尋常じゃない話である。A氏はすぐにメールをチェックすると、やはりそういう件名のメールが届いていた。時間的には憧れの君と楽しい時間を満喫していた間に来たらしく、それで気がつかなかったのだろう。


「でも、どうして緊急避難なんて……」


「今まで押さえつけられていたものが、一気に爆発したんだよ。異星人の姿をした者の排斥を訴える一部の連中が、ネットを使って広く国民に訴えたんだ。


Aさんも心当たりがあると思うけど、一般人もこれについては相当我慢を強いられていた節があるだろう? だから一気に燃え広がったって事だよ」


電話口で思わず呟いたA氏の疑問に、すかさずB氏が答えた。


A氏は、状況を分析する。なるほど、確かに、そりゃマズい。俺がここに住んでいる事は、みんな知っているわけだから、ここが襲撃されても何の不思議もないだろう。


お互いの無事を祈って電話を切ったA氏は、身分証明書など大切なものを小型のバックパックに詰め込んで、逃げる準備を整える。


幸いここは一階だ。A氏は窓をそろりと開けて、アパートの小さな庭に出た。辺りを見回すが、暴徒が押し寄せる気配は全く感じられない。


A氏はスマートフォンの画面を見て、メールに添付されていた、この地区に住む被験者たちの集合場所を確認する。そこに政府が調達したバスが訪れ、彼らをピックアップするのである。


目的の地は、ここから走って10分くらいの公園だった。今は殆ど誰も使っていないので、密かに集まるにはもってこいの立地といえるだろう。


だがA氏は、それが甘い考えだとすぐに気がついた。走って10分とは”人間の足”での話である。太めの怪物と化したA氏にとっては、全速力で向かっても倍の時間はかかるに違いない。


A氏の息はすぐに上がったが、怒り狂った連中に見つかれば命の危険すら有りえるだろう。正に死に物狂いで走るしかなかった。


えぇい、ちくちょう。こんな事ならやっぱり怪物になんてなるんじゃなかった。


だが後悔先に立たず。とにかく急がねば……。そして、どうか見つかりませんように。


彼の祈りが天に通じたのかどうかはわからないが、A氏はやがて集合場所の公園にあと一歩という所までこぎつけた。


だが、


「いたぞ、怪物だ! 俺たちの敵だ。とっ捕まえろ!」


路地の向こう側から、鉄パイプやバットを持った連中が数人で押し寄せて来る。捕獲されてしまえば、後の事は想像に難くない。というか、A氏は想像すらしたくなかった。


ドタドタと走るA氏に、怒りの形相を呈した連中が迫って来る。そして、双方の距離はみるみる内に縮まっていく。もうおしまいかと思われたその時、A氏の後ろに突如としてモクモクと煙が立ち昇った。


「催涙ガスだ!」


追っ手の誰かが叫ぶ、その場は大混乱となった。

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