君を知っている

津田善哉

落とさせてください、守屋さん!

 校舎2階の男子トイレ。授業合間の休み時間、何をするわけでもなく只々時間が過ぎるのを待っていた。一体何をしているのかと訝しまれないよう、眼の中に入ったゴミと格闘しているフリをずっとしながら、何人もの同級生を鏡越しに見送っていた。

 自分が第三者ならそろそろ眼科に行くことを勧めていたと思う。それくらい長い時間を鏡と睨めっこしていたが、やっと待望の三限目を告げる本鈴のチャイムが校内に鳴り響いた。

 チャイムが鳴り終わるのをしっかり確認し、急いで教室へ戻る。教室はトイレから一番遠い。三限目の飯島は生徒がチャイムから少しでも遅れて着席することを許さない英語教師だ。自分が教室に入った時点で全てが授業開始に向けて整っていなければならないと考えている小さな独裁者である。

 少しでも生存確率を高める為、万が一、既に飯島が教室に居ても号令時の雑踏に紛れるよう教室の後ろのドアから中腰でコソコソと自席へと向かうが、どうやら飯島はまだ来ていないようだった。他人の遅刻は許さないが自分は別のようだ。教師というのはそういう生き物なのだろう。ただの職業のくせに自分が偉いと勘違いしているのだ。

 コソコソしていた自分を皮肉るように、敢えて大げさな動作で音を立てて座ると隣の席の女子が話しかけてきた。

「越智、さっきからずっと何してんの?」

「何してるって?」

「なんか休み時間の度にいなくなって、チャイム鳴ってから授業ギリギリに戻ってくるじゃん」

 まさかこの挙動不審な動きに注目している人がいたとは。隣の席といっても普段あまり関わりがないので、自分のことなんて気にしていないと思っていた。

「ちょっと、ある人から逃げておりまして」

「逃げてる?」

「逃げてるというか、あっちは追っかけてるか分かんないけど、とりあえず見つかりたくないというか」

「なにそれ。イジメられてんの?」

「いや、2―Aの守屋さんから逃げてんの」

「守屋?」

 これは守屋さんの存在を知らないのか、何で守屋?という意味なのか。守屋さんは目立つタイプではないので知らなかったとしてもしょうがない。

「2―Aの守屋さん。文芸部の巨乳の子」

「いや、知ってるわ。巨乳かどうかは知らんけど」

「あ、守屋さん自体は知ってるんだ」

「文学部なのはいま知った!何で守屋から逃げてんのって話」

「色々とあって…」

 自分としては会話を膨らますつもりはなかったが飯島はまだ来そうになく、それで?といった感じにこちらの続きを待っている。

 これからしばらくは休み時間の度に席を外し、ギリギリで戻ってくることを繰り返すつもりなので、隣の人間くらいにはこの不審な行動を弁明しておいた方が良さそうだ。

「俺も一応文芸部なんだけどね、」

「え!越智って文芸部なんだ!意外なんだけど!」

「一応ね、一応。籍だけ置いてるの。幽霊部員」

「そんでそんで?」

「んで、文化祭で文芸部は部誌出してるんだけど、部員が小説とか書いて。それの締め切りが三日後なんだよね」

「それで守屋から逃げてるんだ?てか越智って小説とか書けるの?」

「幽霊部員だって!書けるわけないじゃん」

「じゃあ何で文芸部入ったの。別に帰宅部でもいいのに」

 何で文芸部に入ったか、特に理由なんてない。文芸部が人が少なくて存続の危機だから、幽霊部員でもいいから入部してくれと守屋さんに頼まれて、幽霊部員なら断る理由もないし人助けと思って入部しただけだ。

 

 確か入学したばかりの、一年の五月頃だったと思う。

 高校進学を機に電車通学となり、通学中の時間を持て余していた。せっかくだから時間の有効活用に読書でもしようと、特に拘りもないし文学に詳しくもなかったので、世間で云うところの文豪と呼ばれる小説家の本を手当たり次第読んでいた。太宰とか面白いのもあったが、よく分からず途中で読むのを止めたのも多かったので、一々買うのは勿体ないということから専ら学校の図書室で借りることにしていた。

 そんな時に守屋さんに話しかけられたのだ。どうやら朝の電車内、たまに帰りの電車でも読書に勤しむ自分を見かけていたらしい。守屋さんには自分が文学少年に映ったのだろう。それだけの理由で文芸部に勧誘され、なんとなく入部したに過ぎない。

「あ、飯島来た」

 本鈴から五分遅れでやっと飯島が教室にやって来た。何事もないように号令、授業開始。やっぱり自分は特別ってか。


 授業終了を告げるチャイムが鳴っても飯島に授業を終える様子は見えない。五分遅れで始まったので五分延長といったところだろう。貴重な十分休憩を蔑ろにされ、他の教師なら避難轟々といったところだが、飯島相手では些細なブーイングすら起きない。

「越智」

 隣から小声で呼びかけられた。顔を向けると、あっちを見ろといった具合に顎で廊下を指している。

「守屋。来てるよ」

 飯島が授業を延長したせいで遂に捕まってしまった。開けっ放しのドアの向こう、廊下からこちらの授業が終わるのを待っている守屋さんと目が合ってしまった。どうやらこの後、男子トイレにエスケープするのは難しそうだ。


「朝からずっと探してたんだけど、どこいたの?」

「え、そうなの?全然知らんかった」

「まさかと思うけど、私から逃げてた?」

「守屋さんから?何で?」

「…何で私が探してたか分かるよね?」

「部誌のことでしょ?文化祭の。俺は書かないって言ったじゃん。書かないというか、書けない」

 ここで変に惚けたところでしょうがない。話の内容は明確なのだから、相手を苛つかせるだけで事態の好転は見込めない。やはりここは自分の主張を押し通すことに決めた。

「入部する時に幽霊部員でもいいって言ってたじゃん。俺、数合わせで在籍してるだけなんだけど。居るだけで戦力になってるでしょ?」

 守屋さんに勧誘された当時、文芸部には三年生が五人、二年生が三人、一年生が守屋さんのみだった。三年生の卒業後に新入生が入らなかった場合に備えて、部員五名以上という部活の存続条件を満たす為だけの存在、それが自分だ。

「そうは言っても、越智君抜かしたら四人しかいないんだから、部誌としては執筆者が少なくなっちゃうんだよね。見栄えもあるし」

「四人もいたら十分でしょ。てか、去年の三年でも書いてない人いたじゃん!」

「あの代は数合わせの幽霊部員だからいいの」

「…俺も数合わせなんですけど」

「でも去年は書いてくれたでしょ?」

「三年間で一回も寄稿しないのはマズいし今年だけって約束だったから。そもそもあれ、小説かどうかも分からんし」

「大丈夫。私は面白いと思う」

 守屋さんは普段は地味で大人しい存在なのに意外と押しが強い。

 肩より少し長い黒髪は染めたり脱色はしていない。髪を巻いたり、派手なアクセサリーを付けたりもしない。だけどお洒落に全く興味がないといったようでもなく、第一ボタンは開け、スカートの丈も申し訳程度に膝上にしていたりする。一重瞼の目はいつも猫のようにキョロキョロと見開かれている。決してクラスの中心人物だったり男子にモテることはないが、探せば学年に二、三人は守屋さんが好みという人がいそうな、そんな感じの女子だった。

「守屋さんだけ面白いと思ってくれててもねえ…。それにどうせ大して売れないんだから別によくない?」

「大して売れないんだから別に何か書いてくれてもよくない?どうせ誰も読まないんだから」

「え!それ守屋さんの立場で言っちゃう?そんな感じでいいの?部誌」

「興味ある人だけが買うんだからそれでいいと思うけど」

「大体、OBのバックナンバーも沢山あるんだから。それ並べとくだけでも恰好付くでしょ。わざわざ毎年発行しなくてもいいんじゃない?」

「今年だけ、私たちの代だけ無いってのも恥ずかしいでしょ。いいじゃん、私たちの代もバックナンバーの山に積まれていけば。そうやって形に残るの、良いことだと思うけど」

 私たちの代、と来ましたか…。

 …自分より頭半分程低い守屋さんを見下ろしてみる。

「じゃあさ、守屋さんのブラのカップ教えて。教えてくれたら何か書くわ」

「は?何それ。教えたら本当に書く?」

「書く書く」

「F。はい、教えたから。締め切りは三日後です。放課後…だと遅いか、やっぱ昼休みまでに私に持ってきてね」

「なんか適当に言ってない?あくまで自己申告だし、本当にFかどうか分からないよな」

 ここで四限目の予鈴が鳴り響いた。守屋さんのクラスは移動教室らしく、2―Aの生徒が続々と次の教室へ移動を開始していた。

 ずっと自分を待ち伏せていたからだろう、守屋さんも授業の準備をしに教室へ二、三歩戻りかけるが、ふと立ち止まりこちらを振り返って言った。

「証拠、ちゃんと書いてきたら証明する」


 自席へ戻るや、「で、どうなった?」と隣の席から聞かれた。どうやらずっと教室から廊下での様子を見ていたらしい。

「どうって?」

「守屋。何か言ってたでしょ」

「…Fカップらしい」

「は?F?」

「守屋さん」

「でか!」

「…小説、何かいい題材ない?」 

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