1. サナトリウムと悪魔

 シェイラ・フータナヒが宿屋のベッドから起き上がると、窓から自身の顔に向かって風が抱きついて抜けていく。


「窓、閉めずに寝ちゃったんだ」


 フータナヒは寝起きの空白区が多い脳を叩き起こして、冷静に昨日を思い出していた。閉めきれていないカーテンの隙間からは陽光が覗いている。まだ青白い早朝の陽光だ。清々しいのに、何故だか頭が痛くなってくる。


 そこで彼女は自身の布団に妙な暖かさを感じた。陽光でぬくもったような温かさというよりは、幼児の高い体温で温まったような生物の温もり。

見ると同じベッドの上でエリーゼが心地良さそうに横たわっていた。


「起きて、エリーゼ。もう朝だよ」


 そう彼女の肩を揺らしながら話しかけるが、エリーゼは低い唸り声だけあげて掛け布団に頭を隠してしまう。


 これは当分ダメだ。そう思い、フータナヒは机の上にあるメモ帳へ『モルブルデン』とだけ書いたあと、重石と一緒にペンを置いた。

モルブルデンはニュージャージー州を代表する廃屋と漁港の町で、そこでは今や人という動物が、海辺の小高い崖に建てられたサナトリウムの中でしか動いていない。いわゆる廃墟だった。


 着替えは既に済ませてあった。というより済んであった。昨日の自分が着替えてから寝たのだろう。この「だろう」というのも、ただその昨日の記憶が曖昧なのだ。

ここニュージャージー州のグレーチェヒルデンという町に訪れたのは覚えている。昨日の昼頃のことだ。

 しかし入国してから何をしたかは一切覚えていない。昨日は飲みすぎたか?“モルブルデン行きのバスに乗る”という抽象的な記憶だけが、今はフータナヒの脳内に血液と共に流れてきていた。


 フータナヒはわけもわからぬままに、応答しない記憶領域の戸を叩きながら縦長なケースを持ち上げた。


『S&S』


そう印字された金属プレートの光るアルミ製ケースは寝起きの身体には非常に重いものだった。



    —————*—————



 宿屋から最も近いバス停は十一番街路の黄色いテントを張った美味げなパン屋を右に曲がって、酒場に向かう地下階段が見えたらその階段の誘惑に負けず、めいっぱいの精神でさらに右へ曲がれば見えてくる。


 バス停の近くまでくると同時に、フータナヒを追い越して一台のバスが道を走ってきた。頭には二本の触覚が生えている、小さな丸タイヤのトロバスだ。


トロバスがバス停に停まると、中からフータナヒと同じような、ローブに身を隠して腰にガンケースを携えた人々が何人か下車して通りを歩いて行った。きっと彼らも悪魔狩りなのだろう。

しかしみな陰気臭く散文的で、一人は片目を覆うように頭に包帯を巻いており、二人は目立った外傷こそ無いものの血生臭く泥にローブが汚されている。

フータナヒとは状態が真逆だった。


 バスの後方についている行先の表示板が「モルブルデン —— グレーチェヒルデン」から「グレーチェヒルデン —— モルブルデン」に変わる。


「乗るのかい?」


 バスの運転手が客の後から煙草を吸いながら出てくると、フータナヒに視線を落として聞いてきた。


「ええ。モルブルデンまで」

「60セントだ。」

「出発の時刻は?」

「あんたが乗ったら。」

「結構」


 単調な会話ほど楽なものはない。フータナヒが50セントと10セントの硬貨を手渡すと、運転手はポケットにすぐしまい込んで何も言わず運転席についた。

座る席はバスに乗る前から決まっていた。最後尾の窓側席。それは何者も邪魔できない最高の立地だった。


 暫くするとエンジンの軽い衝撃でバスの後ろが揺れて、小さなタイヤが回転を始め出した。黒と白の割合が七対三ほどの煙が車窓の外を霞ませる。エンジン音も激しかった。


「若いな、まだ10代後半だろう。おまえさん」


 不意に前の運転席から聞こえてきた男の声に、窓外をじっくりと眺めていたフータナヒは一瞬反応が遅れて答えた。


「珍しい?」

「悪魔狩りとしてはな」

「モルブルデンへの旅行客としても?」

「さあな。少なくとも、あの場所に旅行で行くやつを俺は見たことがない。」


 彼は単調にハンドルを切って、大通りの真っ直ぐな道を進んでいく。

彼は続けて言った。


「・・・あすこだって昔は栄えていたさ。けれど、船から渡ってきたか知らん地方病が流行るわ、アジアかポリネシアかの異邦人が大勢、でかい船で連れて来られたりだとかしていくうちに人がどんどん離れてった。

その結果、残ったものといえば、海沿いの崖にたたずむ精神病棟と化した小さなサナトリウムと、何処からともなく生まれた悪魔のみさ。殊に、あの悪魔は先の異邦人が連れてきたって噂もある。まあ噂が噂を呼んでるから俺も何が何かわからんがな」

「サナトリウムと悪魔、ね」


 フータナヒは独り言を呟きながら頭を手の甲で一度叩いた。なぜ自分がモルブルデンへ行くのか。それを安酒のアルコールでやられた自身の海馬に問いてみても、反応は乏しい。


「それにしても、あなたモルブルデンに詳しいのね。」

「そりゃあな。あの街で産まれて育ったんだ。詳しくもなるさ」

「あらそうだったの?ならおすすめの酒場ぐらい教えてくれたっていいのに」

「酒場の酒なんざ今頃酢になってるさ」

「悲しいことで。」


 話していくうちにもトロバスはタイヤを回し続ける。赤煉瓦の建物群を横目に、かつての植民地時代の農家や、悪魔狩りごっこで囃り合う子供達の前を通り過ぎていき、しまいにプラム線 (モルブルデンとグレーチェヒルデンを分かつ境界線)を示す赤い縦長看板が視界の後方に去ったところで、海浜が見えてきた。


途端、広がる『碧』


 人工物と疑うような自然美。遊泳の終着点と言われても異を唱えることができない青海の風景が、窓一面を覆った。


「綺麗だろ?」


 運転手の言葉にフータナヒは「ええ」と単純に言葉を漏らした。


「かつては漁業も盛んだったからな。」


 そして運転手は続ける。


「ようこそ、悪魔狩りさん。サナトリウムと悪魔の街、モルブルデンへ」


 歓迎の色は顔になく、それはただ言葉のみの形式ばった奇妙な言語だった。

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