第2話 帰り道
どのくらい時間が過ぎたのだろう、
「そろそろ帰ろうか」
司の一言に、栞も軽く頷くと、掛け声をかけたわけでもなく、二人は腰を上げた。
結局、近況報告はなかったが、お互いそのことに触れなくとも全く気にならなかった。
二人とも、満月を心地よく眺めてはいたが、ずっと見続けられるわけでもなかった。
「ずっとこのままお月見できるかっていうと、ある程度気持ちいい時間が過ごせると満足しちゃうね」
栞は、司にお月見を終えるのにふさわしい時間であることを伝えた。
「まさか、お月見で気持ち良くなれるとは思ってなかったな」
「ほんと、バイトやレポート、メール、ネットばかりで、そんなはずないじゃんと思うようなことで充実した時間になるなんて」
二人とも意外ではあったが、満足感に浸りながら坂に向かった。
司は、少し高くなった場所から先に降りると、栞に手を差し伸べて高低差の配慮をした。
栞にとって、こんな些細なことに思える気遣いが、輝く満月の夜空をさらに明るくした。
「ちょっと寒くなったね、何時?」
虫の音が心地よく、満月を楽しむには絶好の時節とは言え、昼間の暑さが嘘のように風は冷んやりと二人の間を抜けて行く。
司は栞の手を自分の手に軽く乗せて栞の動きに合わせながら、辺りを見渡し月明かりを頼りに帰り道の手がかりを探して少しずつ降りて行った。
駐車場までは少し夜風に当たらないといけなかった。
栞が低い雑草の生えた坂を降りきると、司は何もなかったようにスタスタと前を歩いて駐車場に向かう。
けれど、栞がすぐ後ろにいることは少しだけ振り返るようにして確認を怠らなかった。
栞もその真横でも後ろを離れて歩くでもない、微妙な距離で司の斜め後ろを離れずに歩いた。
時間の経過で暗闇にも目が慣れ、雲が流れた後の月明かりは、駐車場までの短い距離を歩くには十分な輝きを放っていた。
雨天や曇った夜など365日、わずかな時間でも同じ月夜は存在しないと頭では分かっている。
それでも、夜はただでさえ不思議な魅力を醸し出しているのに加えて、輝く月のおかげで、駐車場までのわずかな距離が無言でも二人にとって特別な夜に思えた。
ただ一緒にいて、おしゃべりがなくとも、お互いの他愛もない会話であっても安心できた。
司が片手を車に向けると指示器が光り、車の位置がよりはっきりした。
司は運転席へ、栞は助手席へ交差するように向かった。
「途中でコンビニに寄ろうか?」
少し肌寒い時間を過ごして、司がお腹が減ったりトイレに行きたかったりを気遣っていることが、理由も言わない何気ない言葉から汲み取れた。
「1時間くらいでしょ?多分大丈夫かな」
栞は真っ直ぐ司の目を見て答えようとしたが、司は最後まで聞くことなく車に乗り込もうとしている。
格好をつけるわけでもなく、気遣いしていることをアピールするわけでもなく、素っ気ない態度が栞には返ってすんなり受け入れられた。
多分、司のキャラクターや勝手なイメージに依拠していることが大きいのだと思えた。
他の男性なら、「ちゃんと質問の答えを聞いてよ」、とか思うかも。
人間って勝手なものだと、独り笑いを微かに浮かべながら、栞も助手席に吸い込まれるように座った。
司は、栞の独り笑いにも気付かずにエンジンをかけると発進した。
夜中であるが、僅かながら車の行き来がある。そのポツンポツンとヘッドライトが遠くで見え隠れしたり、近くで大きく眩しく見えたりすることで、元の生活に戻ってしまったことを残念に思いながら、栞はウィンドウを少し下げて夜風を車内に呼び込んだ。
二人は告白した関係ではなかったので、普段の二人と付き合いのある友人がドライブに二人で出かけたことを知ったとしても、きっと単なるドライブに出かけたくらいにしか映らないだろう。
司は夜道でカーブを走っていることもあり、視線は前方に注がれ栞の方を見ることはなかった。
栞は普段から相手の目を見て話をすることを心掛けているので、多分司は自分の方を向いて会話をする様子に違和感は感じなかっただろうが、視線が合うことを少し期待していた。
湿気を含む夜風は少し肌に纏わり付いたが、しばらくの沈黙と同様に嫌な思いに繋がることはなかった。
「ねえ、今も月は赤く見えるの?」
ハンドルから手を離さず、前方から視線を瞬間的に栞に向けながら、司は聞いた。
「どうかな、今はいつもの月に見えるかな。特別な時空間ってきっとあって、それはずっと続かないんじゃないかな」
栞は、司の視線に合わせようと、体も少し運転席に向けた。
「デジャブとか心理学的には、過去の経験が関係しているようなことを聞いた気がするけど、月の色の見え方も栞のこれまでの体験とかが関係しているのかな」
やはり月が赤く見えるということが、経験的にも視覚的にもなかった司は腑に落ちない様子で、香にその謎解きのヒントをもらおうとしていた。
栞には、司が赤い月を共有したいと思っているように思われて嬉しいのだが、説明するのは本人も感覚的なもので分からずにいた。
伝えたいけれど伝えられないもどかしさと、自分でも分からないものは伝えられないというあっさりした思いがぶつかり合うことなく、ほんの数秒の時間に並存して凝縮されていた。
「別に、うちが特別な感覚を持ってるわけじゃないから、もう気にしないで」
栞の返答に、司も諦めではなく、「十人十色だからな」と折り合いをつけた。
「久しぶりにゆっくり話をしたけど、なんか栞って学校でみんなといる時と感じが違うよね」
「そうかな、うちは協調を強いられるのが好きじゃないから、自然体っていうか、ありのままっていうか、あんまり人に合わせないからそんな顔が前面に出るのかな?学校では自然と抑えてるのかも。意識してるわけじゃないからよく分からないわ」
あまり自分の思うことを人に話す機会がない栞は、満月が関係しているのかと、窓からお月様を見た。
「協調を強いられる?同調圧力が苦手ってこと?」
「はっきり嫌とは言わずに、適当にお茶を濁したり黙って聞いたりしてるから」
「なんか、女の子が集まってても、栞は感じが違うんだよね。今夜はそんな栞みたいだった」
「みんな笑ってるのに一人笑えなくて、自分が女の子っぽくないなって思うことはよくあるわ」
「おしゃれもしてるし、女の子っぽくないっていうわけじゃないんだ。あっ、あの栞だなって感じ」
「いい印象?悪いイメージ?」
「いい印象だね、自分を持ってる感じ」
「それで十分だけど、あんまり人に褒められないからもっと言って」
栞はふざけた口調で言ったが、司の印象やイメージの話がもっと聞きたかった。
司もお調子者の顔が現れて、
「自分の答えを持ってないようで、持ってて、あんまり人に左右されない感じ」
栞は、ギクっとした。
普段、自分が気にしている「答えを持ってない自分」が見事に逆ではあるが司の口から出てきた。
「ほんとは真逆で自分で自分が分からない」
ふざけていた栞の表情が少し真顔に変わった。
「やっぱり、他人には見えてるんだね」
一言だけ伝えると、また顔を夜風に当てて、今夜だけでたくさんの情報が入って困惑しているのを悟られまいとした。
こんな楽しい時間を過ごせたのに、悩む顔を見せたくなかった。
司は、ちょっと様子が変わった栞に気付いた。
「ごめん、気に触ること言った?俺は相手のことを思いやれないことが多くて」
栞は笑顔で「気にしないで」と司の顔を見ながら伝えて、顔を前方に向けた。
左手にあるコンビニの明かりが見えて来ると、
「コンビニに寄らなくていい?」
と司は初めて聞くように栞の顔を見て確認した。
「うん、大丈夫、早いねもう家まで10分もかからないわ」
「時間って、何物にも変えがたい最も平等なものなんだろうけど、早く感じたり長く感じたり、同じ時間を刻んでいるのに不思議だよね」
「うちは、どんなに有名なシェフが作った美味しいものを食べるより、誰とその時間を共有するかの方が大切かな」
「そうなんだ、幸福ってその人が決めることって頭で分かっていても、こうやって言葉にして聞かないとなかなか分からないね」
車内の会話は、話題がどちらともなく始まるとお互いに思うことや感じることを伝え合っていた。
授業で昼寝をしている時のように、確実に時が刻まれていることは意識に登らないが、二人にとって今夜のお月見は充実した時を刻んだ。
雲で隠れた暗い静寂の夜の中ですでに栞の家は間近に迫り、さっきまでよく見えていた月が長いのか短いのか分からない二人の時空間の終わりを告げようとしていた。
栞の家の前ではなく、目立たないよう手前の路地でヘッドライトを減光して、司は車を停めた。
「ありがとう、なんか不思議体験をしたみたいな貴重な時間が過ごせて楽しかったよ」
エンジンは切らずにいつでも発進できる状態で、栞や家族に迷惑にならないよう近所の目を配慮していることも数少ないドライブながらいつものことのように司は振る舞った。
「うちこそありがとう、今度一緒に見る月は何色に見えるかな、楽しみだわ」
「おいおい、赤いのも分からないのにさらに謎かけするようなことは勘弁してくれ」
薄笑いしながら答える司からは、本当に困惑していたり謎掛けを解いたりしている様子は感じられなかった。
「また機会があったらお月見じゃなくても、何処か行きたいね」
栞なりに精一杯デートもどきの時間を過ごしたいことを伝えた。
「もちろん、俺にもとても充実した貴重な時間だった。また親父の車を拝借して何処か行こう」
「ありがとう、じゃあおやすみなさい、気をつけて帰ってね」
「ありがとう、事故らないようにしないと親父に車貸してもらえないからね」
司は運転中は安全を優先して、車を停めてからはずっと栞を見ながら会話をしていることを栞は嬉しく思った。
助手席のドアを開けて栞が降りて自宅に向かうのを、司は運転席から小さなバイバイをしながら笑顔で見送った。
そして、栞が家の中に入るのを見届けてから、車は静かに発進して薄暗い夜にテールライトの明かりを残しながら消えて行った。
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