草むらで眠る

雷田(らいた)

第1話

 私は草むらに横たわり、夜は私の耳のすぐ上まで来ている。伸びた草ごしに、遠くに廃墟の建物を見る。それ以外には何も見えない。そうして、奥には暗闇がある。ここはどこなのか、なぜここに横たわっているのか、どうにも思い出せなかった。でも体が重くて動かせないから、きっと疲れ果ててしまったのだろう。頭も霧がかかったようににぶく、全身がぐったりとしていた。

 自然の中で横たわるというのは、心地よかった。ただ、流れに口すすぎ石に枕したいが(あるいは石に口すすぎ流れに枕したいが)、ここには川も石もない。小石だけは頭にチクチク刺さる。見渡す限り伸び切った草が生えていて、ここで眠ったからといって、誰かの迷惑になるということはなさそうだった。

 もう夜がやって来ているというのに蒸し暑くて、いったい今は何月なのだろうと思う。でもスズムシはうるさく鳴いているし、草にはどこかツヤがない。だからこれは秋ということになるのだろう。ならば、このままここで眠っても、熱中症になる危険はそこまでないかもしれない。

 遠くで野犬が吠えているのが聞こえた。近ごろは野犬は少なくなったと思ったけれど、まだこの辺りにはいるのだ。じっと耳を澄ましていると、やがて犬の声は遠くへ去っていった。あの犬も、私と同じようにどこかの草むらで眠るのだろう。

 今や夜は完全に全てを覆ってしまった。私の目は暗闇にじんわりと慣れていったので、それでも少しは辺りの様子が分かる。少し風が吹いてきて、夜の暑さを少しマシにした。風に頬を撫でられて、私は眠りの世界に落ちかけていた。だが、遠くから音が聞こえるのに気がついた。ギイギイ、キイキイ、という甲高い音がしばらく続いたかと思うと、バサッという音がして、少しの間静かになる。やがてまたギイギイ、キイキイ、といったかと思うと、バサッという具合だ。金属の音のようにも思えるし、生き物の鳴き声のようにも聞こえる。私は頭の中で、一緒にリズムをとる。ギイギリ、バサッ。そうしているうちに、眠るどころではなくなってしまった。

 いったいこの音が何なのか、私は音のする方を見てみようとした。だが、どんなに頑張っても、起き上がることができない。地球の引力が強すぎるのだ。引力の大きさはつまり物の大きさのことで、地球の大きさはなんと計り知れないことだろう。もう少し顔をあげられたら、何が起こっているのか分かるのだけど。だけど抗うには私はあんまり疲れていたし、地球はあまりに大きすぎた。音はどんどん大きくなる。わたしは地球に逆らうのをやめた。この暗さでは、どうせ起き上がったところで何も見えないと自分を慰めた。

 完全に横たわりながら、私なりに音の正体に考えをめぐらせた。生き物の鳴き声だとすると、鳥かもしれない。甲高い響きは、いかにも孤独な鳥のように聞こえた。本当は今は夜ではなくて、闇夜と見間違う巨大なカラスが、私の上空を覆っている。こんなに巨大なカラスは世界に二羽といないから、それがあんまり寂しくて、この鳥はギイギイと鳴いているのだ。そうして、カラスが身じろいで翼を動かすと、バサッと風が起きる。さっきから私の顔に当たっていたのは、カラスの羽ばたきだったのだ。そう思うと、不快な音もとても切なく響いた。君の起こす風がこの世界全体を撫でているのなら、そんなに孤独でもないじゃないか、とカラスに言ってやりたかった。

 しかし、注意深く聞いていると、どうやら音は廃墟の方から聞こえてくることが分かった。そうすると、これは金属の音かもしれなかった。あの廃墟には、扉を開けたり閉めたりする幽霊がいるのかもしれない。心配性の幽霊が、戸締まりをしたかどうか不安になって、廃墟のドアというドアを調べている。ドアをギイギイ開けたり、バタンと閉めたりする。彼らが別のドアに向かおうとシーツをひるがえすと、バサッと音がする。(なぜなら幽霊はシーツをかぶっているからだ)こんな夜中に動き回っているなんて、幽霊は眠れないらしい。廃墟には、いったいいくつのドアがあるのだろう。全部のドアを調べ終わるまで、きっとこの音は止まない。もしくは全部のドアを調べ直してもまだ不安で、夜が明けるまで何度もドアを調べ直しているのかもしれない。


 ふと、向こうの方から誰かが歩いてくるのが分かった。足音は控えめで、体が軽い。私のすぐそばまで来ると、それは散歩に来た小学生だとわかった。こんな時間に小学生が一人で散歩をするなんて、ひどく不用心だ。小学生は不思議そうにわたしを覗き込んでいる。草むらで眠る人間を見たことがないのだろうか。

「大丈夫?」

 小学生が尋ねる。

「大丈夫。寝ているだけだから。きみ、あっちの方から来たでしょう」

 あっち、とは言ったが、私は指も動かせないほど眠たかったので、小学生がわたしの顔の向きで察してくれることを祈った。小学生は黙って頷いた。

「あの音はなに?」

 何の音かは言わなかったが、その必要もなかった。今や音はひっきりなしに鳴っていたから。

「あれはね、工場のトタン屋根がはがれそうになって、風でバタバタ鳴ってるんだよ」

 小学生はつまらなそうに言った。

「工場の屋根が?」

「そう。昔、工場だったところ。のこぎりの刃みたいに、ギザギザになってる屋根。知らない?」

 もちろん知っている。ああ、あの廃墟は、かつて紡績工場だったのだ。ようやく思い出した。もしかしたら、わたしはかつてそこで働いていたのかもしれないと思った。なんだかもういろいろなことが、うまく思い出せない。でも、正解を知ってしまうとなんだかつまらなかった。空を覆うカラスや、忙しなく戸締りをしている幽霊の方がずっと面白い。

 小学生は、じゃあ、おやすみなさい、と礼儀正しくお辞儀をすると、草むらの反対側に歩いて行った。暗いから気をつけて、と言ったつもりだが、聞こえていたかわからない。

 私は、ほんとうにあれが屋根の剥がれそうになる音なのか確かめようとした。だけどやはり、体はまったく言うことを聞かない。もしかしたら、わたしはもう死んでいるのかもしれない。でも草むらで眠るのはあまりに心地よくて、そんなのは取るに足りないことだ。眠気は全身を包みこみ、もうすぐ意識を手放せそうだった。

 わたしは草むらに眠り、夜は生温かい。そして、引力は優しく私を押しとどめている。ギイギイ、バサッ、と、また工場の屋根が鳴る。

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草むらで眠る 雷田(らいた) @raitotoko

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