第10話 黒く冷たい炎



 間宮二郷が風船の化物と邂逅し、相手が有していた他に類を見ない恐るべき能力に対して終始劣勢に立たされつつも、その能力の僅かな隙を突き、奇策を以いる事で奇跡のような逆転を果たす事が出来た……そんな昼休みが終わり、時刻は夕方。


 校舎の3階。北側の角に有る教室には、二つの人影があった。


 一人は少年。教卓の真正面に置かれた席に、背筋を伸ばした綺麗な姿勢で腰かけている。

 オールバックに纏めた黒髪と、黒の学生服。首に掛けた三日月型のペンダントに加えて、目の下の深い隈が特徴的な彼の正体は、言わずもがな、間宮二郷である。


 そしてもう一人は、教卓に立つ女性。

 深緑色のスーツを着込んでおり、年の頃は20代前半。肩の辺りで纏めたサイドテールに、やや長めの左前髪と、銀縁の丸眼鏡。それ以外にはこれと言って特徴の無い……それでも敢えて言うのであれば、成人女性の平均よりもややコンパクトな体型である彼女は、名を『三塚三津子ミツカ ミツコ

 二郷のクラスの担任教師である。

 女性教師と男子生徒が、放課後の人気のない教室で何をするのかと言われれば、勿論それは決まっている。


 ────補習だ。


 前日に三塚女史が告げていた、間宮二郷少年が登校拒否をしていた間の授業の補填。

 それが、二郷からの申し出によって早々に行われる事となったのである。

 三塚女史としては、復学したばかりの生徒への気遣いと、そんな生徒に頼られた事への喜びから、気合を入れ、まずは二郷の現状の学力確認のための小テストを実施したのだが……


「……間宮くん。貴方、ひょっとして天才だったりしませんか?」

「全然しねェですねぇ」


 五教科の小テスト。高校受験を見据えたレベルで作られたそれらを、二郷はあっという間に解いてしまったのである。

 三塚女史はその事に驚きつつも、採点までの時間稼ぎとして、次回の補習用に準備してあったテストを二郷に解答させる事にしたのだが……それすらも直ぐに解かれてしまった。

 余りの回答速度に、思わず漏れ出た三塚女史の呟き。

 それに対して粛々と否定の言葉を返す二郷であるが……全ての小テストの採点を終えた直後、三塚女史は一度ブルリと肩を震わせると、教卓を離れ二郷の前に立つ。

 そして、顔に喜色を浮かべると、二郷の右手を両手で包むようにして力強く握り締めた。


「すごい……本当にすごいですよコレ!! 国語も数学も、歴史も理科も英語も……全部満点じゃないですか!? ブランクなんてとんでもない! これならきっと、どこの高校でも合格出来ますよ!?」

「は、はぁ。ありがと、ございます……?」


 困惑する二郷。

 だが、三塚女史が興奮するのも無理はないだろう。

 一般的に中学の3年目というものは、授業の密度が高い。

 それは、高校進学という一つの目標を見据えて教育が行われるからだ。

 生徒の進学先の良し悪しは、教師の評価に……ひいては学校の評価に直結する。

 なればこそ、必然。教師の授業にも熱が入るというもの。

 受験に出そうな問題、受験の傾向、受験の心構え。教師たちは、自身の教員生活で培った知識と経験が導き出す最適解を、惜しみなく教育してくれるのである。

 つまり、高校受験を目標に定めている関係上──学べば学んだだけ、志望校への合格率が高まるのだ。


 ……そして。


 逆を言えばそれは、サボればサボっただけ高校への合格は遠のくという事を示している。

 自由、放任、個性。そう言えば聞こえはいいが、学校を単なる進学の為の機関として見た場合、サボり癖のある者は『落伍者』『劣等生』と見なされてしまうのだ。


 となれば、二郷はその筆頭である筈であった。

 なにせ半年。6カ月もの登校拒否である。

 それこそ、大金持ちが家庭教師を呼んで英才教育でも施していない限りは、受験生としてその遅れは致命的だ。

 三塚女史も当然それを危惧しており、だからこそ、補習によって二郷が最低限平均レベルの高校には合格出来るよう、尽力しようと思っていたのである。

 それが、蓋を明ければ全教科万遍なく優秀なこの成績。

 三塚女史としては、ゾンビに噛まれた人間が、生まれ持った免疫力だけで感染を免れた姿を見た気分である。

 閉じてしまったかもしれない。そう思った生徒の未来の選択肢が大きく広がったというその事実は、この学校の校風に毒されきっていない若き教師の胸を高鳴らせた。


(誉められても素直に喜べねぇ……大学までの勉強は経験済みだから、ズルみてぇなモンなんだよなぁ)


 だが、対する二郷の胸中は複雑であった。

 そもそも、二郷は『間宮二郷』ではあるが『間宮二郷少年』ではないのだ。

 とある『青年』の人格を核とし、そこに間宮二郷少年の記憶を足して出来た、出来のいい紛い物。それが間宮二郷という存在である。

 であるからこそ、その脳の中に有る『教師を目指し勉強していた青年の知識』を使えば中学のテストで満点を取るのは別段難しい事ではなく、だからこそ、二郷はその事に対して、自分がズルをしていると負い目を感じてしまう。


 純粋な祝福と、言い表せない気まずさ。

 そんな感情のすれ違いを見せる両者であったが、


「……あっ!? ち、ち、違いますよ間宮君! これはセクハラじゃないんですよ!? 私、教師ですから! 未成年に手を出したりはしませんから!」


 二郷の渋い表情を見た事で、自身が二郷の手を握って居る事に気付いた三塚女史は、慌ててその両手を離すと、必死な様子で弁明を始める。

 中身はどうあれ、今の二郷は中学生。

 昨今では、体罰は勿論、教師と生徒の思うところのない接触すらも、生徒の訴えがあれば解雇に繋がってしまうのである。

 ……ただ、それだけにしては慌て方が激しすぎる事を見るに、そもそも単純に三塚女史は男女間の接触自体に慣れていないのかもしれない。


「ああ、大丈夫っすよ。俺、そういうのは気にしねぇっすから。なんなら、教師と生徒は放課後にラーメン一緒に食うくらい仲良いのがベストだと思ってんで」

「あ、あはは……流石にラーメンはちょっと、上に怒られちゃいますよ」


 そんな三塚女史の危惧をよそに、カラカラと笑って返す二郷。

 その反応を見た三塚女史は、安堵に胸を撫で下ろす。

 まあ、そもそも二郷は、教師は生徒を命を懸けて守るもので、距離は近くて当然──という、漫画から仕入れた間違った距離感を持っているので、三塚女史の心配は杞憂であるのだが。


 そうして、少しの間楽しげに笑う二郷を暫く見ていた三塚女史であったが……


「……間宮君は、どうして学校に来てくれたんですか?」

「へ?」


 不意に。本当に、言おうと思っていなかったのに、言葉が口から零れ出た。

 そして、次の瞬間に自分が言った言葉について理解してしまった三塚女史は、生徒に言うべき質問では無かったと判断し、事に慌ててその言葉を取り消そうとするが……何故か言葉は止まらない。


「私、前任の田中先生から聞きました。間宮君が近藤君達から……体質のことで、いじめを受けてたって。田中先生は、悪ふざけって言ってましたけど、間違いなくいじめだって、私は思いました」

「……」

「守ってくれなかった先生を、学校を、信じられなくなって当然だと思います。怖くて当たり前だと思います。なのに、どうしてまた学校に来ようと思ってくれたんですか?」


 心配をしていた生徒が、自分の想像よりも遥かに強かった。

 成績で落ちこぼれる事も無く、いじめを行った生徒にも負けない……どころか、彼等よりも強くなって戻って来た。その事実への安堵が。

 そして、三塚女史が解決出来ず、上司から言われるがままに見て見ぬふりをする事しかできなかった、いじめという問題を、自力で解決してしまった。その強さへの嫉妬じみた惨めな感情が。

 それらが、三塚の口から問いかけという形で漏れ出てしまった。

 抱いていた教師という職業への夢と情熱。それが、現実という重く冷たい泥水に日々消されていく事への焦燥感が、三塚女史にこんな卑怯な質問をさせてしまったのである。

 全て言い切ってしまってから、自身の心の小ささを自覚し、俯く三塚女史であったが……そんな彼女の耳に二郷の言葉が届く。


「そりゃあ勿論────尊敬する人達に、恥ずかしい姿を見せたくねぇからですよ」


 二郷は腕を組み、感慨深そうに目を瞑る。


「俺が滅茶苦茶辛くて苦しかった時、救ってくれた人達がいたんです。俺は、その人達に憧れました。憧れたから、その人達が教えてくれた沢山の事を胸に刻んで生きて行こうと、そう思ってんです」


 そうして目を空けると、二郷は本当に楽しそうな笑みを浮かべて続ける。


「あの人達なら、負けねぇ。あの人達なら、どれだけ怖くても立ち向かう……俺があの人達みてぇにはなれねぇって事はもう分かってますけど、それでも、その背中くらいは追いかけていこうと、そう思ってんですよ。だから、思う事はあっても登校出来たんです」


 三塚三津子の問いと、間宮二郷の回答はすれ違っている。

 三塚女史は、二郷がいじめに対する恐怖と学校への不信を抱えて尚、登校する理由を尋ねた。

 けれど対する二郷には、いじめに対する恐怖はそもそも無く、しかし『間宮二郷少年』という立場から回答をせざるを得ない為、代替として自身が怪物に対する恐怖を抱えつつも登校をする理由を語った。


 違和感のある会話ではあったが、しかし二郷のどこか殉教者じみた、あまりに濁った透き通った感情が込められた言葉に気圧された三塚女史は、その違和感に気付く事は無く、むしろその言葉の先が聞きたくて、促すように口を開く。


「その、間宮君を救ってくれた人というのは……どこの誰なんですか?」

「ああ────学校の先生っすよ。テレビの番組で見た、どんな時でも生徒を守る、眉毛が太い最高の先生ヒーローです」


 笑顔で語られたその言葉に、三塚女史は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

 学校の方針だから、と手を伸ばさなかった。

 暗黙の了解だから、と見て見ぬふりをした。

 教師の現実とはこんなものだと。自分に出来る事は何もないのだと。

 だから仕方ないのだと。

 そうして、自分は諦めてきた────だというのに。


 三塚女史が救えなかった登校拒否の生徒を救ったのは、自分と同じ教師だった。

 ドラマなのか映画なのかは判らない。だが、そこに描かれた『教師』が、確かに間宮二郷という少年を救ったのだと。救えたのだと。理解させられてしまった。


「学校の先生……ですか」


 三塚女史の胸の奥に、二つの火が灯る。

 現実への諦観を前にした事で一度は消えてしまった、教師と言う職業への熱い情熱の炎。

 そして……『どうして救ったのが自分じゃないんだ』という、黒く冷たい炎。

 一度俯いた三塚女史であったが、直ぐに顔を上げ、表情を優しげな笑みに戻す。


「あはは……変な事を聞いてごめんなさい。それから、答えてくれてありがとうございます」

「全然良いっすよ! むしろ、番組の良さについて語らせてくれるなら、何時間でも語らせて貰いますよ!」

「そ、それは遠慮しておきますね……」


 苦笑いを浮かべつつ、教卓まで戻り二郷の答案をファイルに纏める三塚女史。

 彼女は、一度大きく息を吸い込むと、何か覚悟を決めたような真剣な表情で、二郷へ向けて口を開く。


「────間宮君。貴方の尊敬する先生よりは頼りないかもしれないですが、私は間宮君の味方です。味方であると、そう決めました。だから、困った事があれば、何でも私を頼ってくださいね?」

「……」

「……間宮君?」


 そこで、三塚女史は二郷の様子がおかしい事に気付いた。

 先程まで楽しげな笑みを浮かべていた筈の二郷は、今は口を真一文字に結び、緊張した様子で固まっている。

 その態度の余りの変わり様と、二郷の視線が自身の背後────黒板の方へと向けられている事に気付いた三塚女史は、背後を振り返ろうとし


「三塚先生ッッ!!!!」

「ひゃいっ!!?」


 突如として、自身の机を足場に跳躍し、一足とびで教卓に飛び乗った間宮二郷。

 その彼が、勢いよく三塚女史へと右手を伸ばし、その背後の黒板にドンと手を叩きつけた────所謂『壁ドン』をして見せた事で、三塚女史の動作は中断された。

 息が掛かる程の至近距離で、真剣な表情を向けられた三塚女史は、突然の事態に混乱し、上擦った声を上げる。


「どどどどどどどうしたんですか間宮君!? ダメです! ダメですよ!? 何でもっていうのはそういう意味じゃ────」

「先生っ!!!!」

「ふぁいっ!?」


 睨み付けるような真剣な瞳で自身の方を見る間宮二郷を前にした三塚女史は、そのまま思わず目を閉じてしまう。


「…………来週の放課後、校舎の屋上使いてェんですけど、使用許可とか貰えないですかね?」

「は、はいっ! えっ……屋上です……?」


 顔を赤くして身を縮めていた三塚女史であったが、二郷の発した言葉がただの屋上の使用許可の確認であった事を理解すると、呆然とした様子を見せ、次いで怒りの表情を見せる。


「な……なんで屋上の使用許可取るのに壁ドンなんてするんです! 先生をからかうのはダメな事ですよ!? 不良ですよ!!」

「んぐっ! す、すんません……その、色々事情があって」

「壁ドンしなきゃいけない事情って何ですか! 先生、今までの人生で壁ドンされた事なんて無かったんですよ!? ……というか、いつまで壁ドンしてるんです!!」

「まだダメだ! ……いやダメです! も、もう暫くの間こうしていたい……なーんて」

「~ッ!? 間宮君っ!!!!!」


 叱る三塚女史と、叱られながらも壁ドンの姿勢を崩さない二郷。


 その騒動の最中、三塚女史の背後────黒板では、白のチョークで描かれた男の絵が。

『手に持つ出刃包丁を三塚女史へと振り被っていた男の絵』が、二郷の右手から湧き出る薄く光る塩を擦り付けられる事で、苦しみながら消えていくのであった。









「うへぇ……許可貰えたのは良いんだけどよ、流石に肝が冷えたぜ」


 三塚女史からのお叱りを受けつつも、なんとか屋上の使用許可を得た後。ぐったりとした様子で帰りの校門を潜る二郷は、そう呟いた。

 思い出すだけで二郷の背中に嫌な汗が流れる。本当に間一髪だった。二郷の眼前で、化物による死者が出るところであった。


「本当に、化物が多すぎる。いくらなんでも異常だぜこの中学は……まさか霊道の上にでも建ってんのか?」


 訝しみながら、校舎へと振り返る二郷。


「……おん?」


 すると二郷は、校舎の窓に見知った人影がある事に気付いた。

 遠目に見える黒のセーラー服と風に靡く長い黒髪。そして眼帯。


 人影は、少女────東雲四乃であった。


 彼女は何をするでもなく、昨日事件があった教室の窓から、眼下の街路樹の方ををずっと見つめている。


 誰かを探すように。誰かを待っているように。


「……大丈夫だ。待っててくれよ。主人公がアンタを助けてくれる筈だ。もし、主人公が間に合わなくても……それでも俺が必ずなんとかするから」


 相変わらず四乃の側に浮かんでいる巨大な顔────モリガミサマに気取られないよう、二郷は小声でそう呟くと、帰路に就くのであった。




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