第5話 東雲四乃には守り神様が憑いている
大きく開かれた窓から流れ込む冷たい風が、少女の長い黒髪を宙に躍らせる。
血の様に赤い夕陽に染められた放課後の教室には、グラウンドで練習をしている運動部の声が遠く響いており、他に人の姿は見えない。
その事を確認した少女は、白魚のような美しく細い指で、自身の右眼に付けた眼帯を軽く撫でた。
「……」
数分か。或いは数十分か。
感情の籠っていない目で夕日を眺めていた少女であったが、やがて何かを決意したかのように右手を胸の前で握り締めると。
────少女は、窓からその身を投げた。
窓から地上までの距離は約13m。落下するであろう地点はアスファルトで舗装された歩道。
中学生の少女が頭から叩きつけられれば、助かる見込みは無い。
普通であれば、少女は死ぬ。死ぬ事が出来る筈であった。
「……ッ!?」
けれど、そうはならない。
不可解な事に、物理法則に反して少女の体は空中で静止し、そのまま何かに投げつけられるようにして、元の教室の中へと吹き飛ばされたからである。
置かれていた机と椅子を盛大に巻き込みながら教室に放り込まれた少女は、痛みに呻きながら『其れ』を見る。
先程、窓から身を投げようとした自身の右手を噛み、教室へ無理矢理戻した、自分にしか見えない其の存在。
────巨大な目と鼻と口。顔の部品だけを中空に浮かべ、不気味にケタケタと嗤っているバケモノ。『
少女────東雲四乃(しののめ しの)には守り神様が憑いている。
東雲家は江戸時代に木材貿易で財を為した、この地域では有数の旧家であり、その家の長女として四乃は生を受けた。
器量の良さと頭の良さで、両親や周囲の人間に愛され育った四乃であったが……その幸福な日々が続いたのは、彼女が6歳の誕生日を迎えるまでの事であった。
それは何の前兆も無く。
誕生日の朝、四乃が目を覚ますと、部屋の天井に巨大な目と鼻と口だけが浮かび、四乃を眺めていた。
幼い四乃はあまりの恐怖に泣き叫び、父母や祖父母に大きい顔だけのお化けがいると助けを求めた。
信じていたのだ。優しい両親と祖父母であれば、突然現れた化物をやっつけてくれると、そう信じていたのだ。だが
「おかあさん、あのね」
「あら、おはよう四乃────―え? 四乃、あなた、その右目どうし……あ、あ、あ、嫌ああああっ!! 駄目えっ!! 近付かないで────っ!!!!」
帰ってきたのは、強烈な拒絶の意思であった。そして、それは四乃の母親だけではない。
父親に祖父母。全ての家族が、机の上の朝食をひっくり返しながら、慌てて四乃から遠ざかっていく。その表情には、悲痛と、それよりも色濃い恐怖の感情が浮かんでいた。
家族達は、困惑した四乃が近付こうとすると、包丁すらも振り回して四乃との接触を拒絶した。
あまりに突然の事態に────愛する肉親から拒絶されたという現実に、哀しみすらも通り越して呆然とする四乃。
そんな四乃に対して、彼女の祖父がゆっくりと語り掛ける。
「四乃、大きな顔が見えると言ったな。ならばお前は……守り神様(モリガミサマ)の花嫁に選ばれたのだ」
「もりがみ、さま……って、なに?」
「……。守り神様は東雲家が持つ森にかつて存在していた村で祀られていた神様だ。普段は我々を守ってくださっているが、時折、花嫁を求めなさる」
「はなよめ……およめさん……? わたし、しらないひとのおよめさんになるの、いや……」
四乃の言葉を聞いた祖父は渋面を浮かべ、血が滲むほど強く拳を握るが、それでも何とか感情を押し殺して返事を返す。
「それを決めるのは守り神様だ、お前に断る事はできない。四乃、お前は16の誕生日に、守り神様の花嫁として────常世へ嫁ぐのだ」
「とこ、よ……?」
言葉の意味が分からない四乃が首を傾げると、とうとう耐え切れなくなった母が涙を流し、床に膝を付く。母だけではない。父も、祖母も泣いていた。祖父の眼尻にも涙が浮かんでいた。
それを見て、心配をした四乃は一歩踏み出そうとするが
「来るでないっ!!!! 」
祖父の鋭い怒声に、身を震わせ足を止める。
「四乃……守り神様は、嫁に選んだお前を守ってくださる……事故や怪我、全てのものからだ。良いか四乃、その『全て』には……ワシ等肉親も含まれておる」
「まもる……? おじいちゃんたちは、わたしにひどいことなんてしないよ……?」
「……守り神様は、そうは思わんのだ。花嫁を奪おうとするものを、守り神様は許さぬ。だから四乃、もしもワシ等がお前に触れようとしたら、愛し慈しむ様子を見せれば」
────守り神様は、ワシ等を殺してしまう。
「……っ!?」
殺すという、短い人生の中であまりに聞きなれていない単語に、四乃は驚愕で目を見開く。
「自分の娘を守り神様から逃がそうとしたワシの祖母は、挽肉のようになった死体で見つかった。守り神様を信じず、子を変わらず愛し続けた親戚の男は、全身の肉を細かく噛みちぎられて死んだ……」
心理的外傷にすらなっている過去の恐怖の記憶を想起した事で、祖父は身体を震わせた。
そして、地面に膝と額を擦りつける────幼い四乃に、土下座をする。
「すまぬ四乃! 本当にすまぬ! お前は何も悪くない! ワシ等が弱いのが悪いのだ────許してくれ、許してくれ……ワシ等は、ワシは……あのように惨たらしく死にとうない……!」
「……っ!!」
「すまない……ごめんなさい……!」
そして、祖父に合わせて父も、母も、祖母も地に額を擦りつける。
厳格で力強かった祖父の、優しかった家族の、そのあまりにも惨めな姿に衝撃を受けた四乃は、強い恐怖を感じて思わずその場を逃げ出した。
これは悪い夢だ、何かの間違いだと。視界の中に有る巨大な顔を視ないように努めながら、洗面所へと駆け込む。
そして……そこで見てしまった。鏡に写った、先ほど母が見て悲鳴を上げた自身の右目。
『 あ ぎじお え え い ヴ り 』
右目の眼球に、眼と鼻と口が有る事を────モリガミサマが居る事を。
……。
それからの四乃の人生は、生き地獄と言って相違ないものであった。
家では、食事や日用品は提供されるものの、会話は行われず、視線すらも合わせて貰う事は無く、四乃の存在は一切『無い』ものとして扱われた。
孤独を紛らわせる為に、与えられた金で購入したペットは、購入した翌日に身体の半分が齧り取られた死体と成った。
見知らぬ誰かとの触れ合いを求め手にした、インターネットに接続出来る端末は、携帯もPCも、その全てが四乃が触れただけで即座に壊れてしまう。
学校の教師や同級生は四乃に近付こうとする度に……親愛、悪意を問わず、ただ近付く事だけで……ともすれば、四乃の名前を呼ぶだけでも怪我をする事から、やがて両親と同じように、四乃を無いものとして扱うようになった。
……かつてローマの皇帝が、生後間もない赤ん坊に一切の接触やコミュニケーションを行わずに育てた場合どう成長するのか、実験をした事がある。
四乃が置かれた状況は、その実験に極めて近いものであった。
違っていたのは、ローマ皇帝の実験では被験者となった赤ん坊は全員死亡したが、四乃は死ななかったという事……否、死なせて貰う事すら出来なかったという事だ。
四乃が絶望から自傷を試みることすらも、モリガミサマは許さなかった。四乃の人生はモリガミサマの玩具であるとでもいうかのように、ただ生かされ続けた。
「……もういい。もう、どうでもいい」
そして今、モリガミサマから逃げる為の最期の抵抗も失敗した。
噛まれた事で赤黒い痣が出来た自身の右腕を見ながら、四乃は力無く諦めの言葉を呟く。
全てを諦め、訪れるであろう絶望の未来を受け入れてしまう。
1週間後の自身の誕生日に、自分はモリガミサマの花嫁として常世に行くのだと────憑り殺されて、死ぬのだと。その運命を受け入れてしまった。
だから
「うおあああああああああ!!!! 獣の槍とか文珠とか霊光波動とか────何でもいいから突然目覚めて何とかなれえええええ!!!!!!!!!」
唐突に教室のドアを開けて現れた、その人影。
両腕にジャラジャラと巻かれた数珠。
首に掛けられた三日月型のペンダントと十字架。
頭に巻いた鉢巻きと、其処に挟まれている経文と神道のお札。
左手には水晶玉、右手には消臭スプレー。掌には、マジックで書かれた蛇の目模様。
全身に怪しげな霊能グッズを装備した、圧倒的にヤバい見た目の間の不審者。
その不審者が、恐怖に泣きながら全力疾走で突撃してきた事と、それによりモリガミサマを僅かに怯ませ────そして、その勢いのまま開いた窓から落下していった光景に。
そのあまりの訳のわからなさに、10年振りに……ほんの僅かの間だけ、四乃は恐怖を忘れてしまった。
そう、
「……なに、あれ」
間宮二郷と東雲四乃。
体から塩を出せる体質の少年と、モリガミサマに憑かれた少女。
進級から6か月後の、あまりに珍妙な
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