第86話 氷血凍土の灰霜と帰せ

「はっ、はっ、はッ────!!」


 一心不乱に、フリージア達は迷宮内を駆け抜ける。


 既に彼らは二階層へと続く連絡通路が見えてくるかと言ったところまで来ており、後もう少しで救助隊と鉢合わせるかどうかといったところであった。


 三階層から四階層へと続く連絡通路前の部屋で突然現れた黒灰の騎士。あの騎士が今回の【迷宮踏破】の異分子イレギュラーであり、今の彼女たちでは絶対に敵わない強者であった。そうと分かっていたから、彼女たちは一人の少年に殿を任せてここまで逃げおおせていた。


 罪悪感が無いわけではない。寧ろ、逃げれば逃げるほど、あの部屋から距離が離れれば離れるほどに不安と罪悪感は募っていくばかりだ。それでも逃げるしかない。彼に頼まれたのだ、約束を違えることは決して許されない。


 ────けど……。それでも不安なものは不安だ。心配で心が張り裂けそうだ。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい────!!」


 小脇に抱えて怯えた女生徒は必死に懺悔をしているが、別にあの場に残った少年に対してのものではない。寧ろ、その逆、黒灰の騎士へと向けられたことなど言われるまでもなくフリージアは分かっていた。


 何やらこの女はあの騎士の事を知っているようだが、詳しいことを聞こうにもこれでは話にならない。彼も、あの騎士と戦う前に相当消耗をしている。助けが来るまで持ち堪えるとは言っていたが、あの騎士を相手に果たしてそれが本当に可能なのだろうか。


 二階層へと続く連絡通路を駆け上がりながら思案する。本当は直ぐに助けに行きたい。彼の隣でわずかながらでも彼の力に、支えになりたい。その為に今日まで頑張ってきたと言うのに────


「結果は逃げることしかできない……!!」


 自分が情けなくて仕方がない。少女は妙な苛立ちさえ覚えて、その八つ当たりで無駄に魔物をここまで切り伏せてきた。


 傍から見ればフリージアが不機嫌そうなのは言うまでもなく。ヴァイスやクロノスでは彼女の機嫌を直すことはできない。だからこそ、そっとしておいたのだが────


「フーちゃん、もうここで……いいよ?」


「え?」


 唯一、彼女の同性の友人であるシュヴィア・グラビテルが二階層に到着するなりそんなことを言った。


 普段、寡黙な彼女。今回の【迷宮踏破】でも口数は少なかったが、決して会話をするのが不得意と言うわけではなく、なんならフリージアと二人きりの時はおしゃべりなくらいだった。そんな彼女が突然、首を傾げるものだからフリージアは呆けた返事しかできない。しかし、困惑するフリージアを無視してシュヴィアは言葉を続けた。


「そろそろ、救助隊が来るはず、だからもう、フーちゃんはクレイム様のところに戻ってもいいよ?」


「だ、ダメよ。私はレイからみんなを無事に地上に送り届けるように言われて────」


「二階層まで来たら、もう大丈夫。私たちだけで、何とかできる」


「で、でも────」


 背中を押してくれる親友にフリージアは煮え切らない返事をする。


 普段の彼女ならば想像できない態度ではあるが、親友であるシュヴィアはこんな彼女をよく知っていた。


「助けになれるか、不安?」


「────うん……」


 シュヴィアの質問にフリージアは静かに頷いた。


 フリージア・グレイフロストとて、まだ花も恥じらう乙女である。いつもは勇んで自分を取り繕ってはいるが、年相応に不安を覚えるし、恐怖だってする。でもそんな彼女をシュヴィアはよく知っていた────


「大丈夫、だよ。フーちゃんなら、絶対にクレイム様の、力になれる。それに、顔に書いてあるよ」


「え────」


「今すぐに、助けに行きたい、って」


「ッ────!!」


 ハッと、フリージアは我に帰る。それを見てシュヴィアは小さく笑った。


「行きたいと、思ったら、すぐに行かなきゃ、ね?」


「────うん!」


 そうしてフリージアは一人の親友に背中を押されて、来た道を引き返した。その表情にはもう迷いなんて、彼女に似合わないモノなんて存在しなかった。


 ・

 ・

 ・


「と、言うわけで戻ってきたわ!!」


 聳え建つ氷壁の絶壁を前にして、俺は朦朧とする思考の中で何とかフリージアから事の経緯を聞いた。


「────お前……お前なあ……」


 そうして深く項垂れる。何故かそんな俺を見て彼女は得意げだ。折角逃げれたのにわざわざ死地に戻ってくる馬鹿がどこにいるというのか……いや、ここに一人いるわけだが────


「でも、そのお陰でレイは生き延びたじゃない」


「うぐ……いやまあ、そうなんだけれども……」


 それを言われると弱い。確かにフリージアが助けてくれる直前までは死を覚悟したし、死んだと思った。こうしてゆっくり呆れられていられるのも、彼女のお陰なわけだが……。


「だとしても衝動的すぎないか?」


「あら、それはお互い様じゃない?」


「……」


 俺の嫌味に的確な反撃をしてくるフリージア。


 なんだか今の彼女は妙に頭が切れてるな。まるでいつもの戦闘狂バーサーカーではなく、一度目の彼女と対峙しているような感覚だ。妙な懐かしさを覚えていると、フリージアは話を戻した。


「それで、あの騎士は帝国の〈五天剣〉のタイラス・アーネルで間違いなのよね?」


「……ああ。さっきの黒い波、見ただろ?あれが噂に聞く〈黒海〉だ」


「そうだったのね!随分な大物と戦っていたじゃない!!」


 ────ああ、やっぱり戦闘狂は戦闘狂だ。こっちの方が落ち着くな。


 既に大まかな状況説明は済んでいる。そうして氷の絶壁を打ち砕こうとする黒波をみてフリージアは爛々と目を輝かせる。そんな彼女を見て平静が少しだけ訪れる……俺もだいぶ毒されているらしい。そんな自覚を蹴散らすようにして言葉を続ける。


「時間がない……この氷壁はどれくらい、タイラスの〈黒海〉に耐えられる?」


「え?そうねぇ、今残ってる半分の魔力を注ぎ込んだから……持ってあと三分とかかしら……」


「それでも三分か……いや、今はそれでもありがたい。何とか打開策を見つけるぞ」


 今もなお黒い波が氷壁を破壊すべく力強く打ち付けている。俺は喉の渇きを誤魔化すように生唾を飲み込んだ。


「でも、レイはもう血も魔力も使い果たしたんでしょ?」


「ああ」


「それでどうやって戦うのよ?流石の私もあの騎士を一人で相手取るのは厳しいわよ?」


 そう、これである。彼女の言う通りだ。助かったのは良いが、それは今のところ一時凌ぎにしか過ぎない。依然として状況は絶望的だ。


「せめて血と魔力が少しでも回復すれば……」


 ないものねだりなのは分かっているが、そう思わずにはいられない。


 しかし、飲んだだけで魔力を回復してくれる魔法のような薬はこの世に存在なんてしないのだ。やはり、このままあの黒い波に為す術なく呑み込まれるしかないと言うのか────


「じゃあ、私の血でも飲んでみる?」


「……は?」


 不意に放ったフリージアの言葉に俺は呆けた声しか出せない。


 こいつ今なんて言った? 飲む? 何を? 血を? それは流石に無理だろう……。


「そんなんで血と魔力が回復するわけないだろう……御伽噺じゃあるまいし……」


「あら、そう馬鹿にできる話じゃないかもよ」


 呆れ果てる俺に依然としてフリージアは自身があるようだ。


「古代に存在したと言われる〈吸血族ヴァンパイア〉は知ってるわよね?」


「まあ……一応」


「彼らは生き物の血を飲んで栄養や、血、魔力を補給したと聞いたことがあるわ。その要領で行けばレイにもできるんじゃない?」


 またこいつは突拍子のないことを……。そうして一蹴しようとするが彼女の言葉はまだ続く。


「それに吸血族はあなたと似たような魔法を使える種族だと聞いたわ。しかも、レイは「血」を欲したのでしょう? それはまさしく吸血族の吸血衝動そのものよ」


「……ちなみに聞くが、その情報の出どころは?」


「お父様よ?レイとの婚約が決まって直ぐに今の話を聞かされた覚えがあるわ」


「……」


 アイバーン公爵はいったい幼い実娘になんて話をしているんだ。それを覚えてるフリージアもフリージアだが……。


 ────こいつ、自頭と記憶力だけは昔からいいからな……。


 情報の出所を踏まえるとバカにできなくなった。


「……仮にその話が本当だったとして、フリージアは、その……いいのかよ?」


「え?何が?」


 惚ける戦闘狂はここまで自分で話しておいて状況を理解していないらしい。俺は投げやりに言葉を放った。


「だから、今言ったことを試すなら俺はお前の血を吸うことになるんだぞ。それでもいいのかって聞いてんだよ!」


 妙な羞恥心を覚えていると、件の公爵令嬢さまはあっけらかんと答えた。


「別にレイになら構わないわよ。と言うか、私が提案したんだから、わざわざ確認するようなことじゃ────レイ?」


「……」


 予想外の彼女の反応に俺は絶句する。いや、まあ確かに彼女の言う通りなのだが、まだ嫁入り前の娘が男にむやみやたらと血を差し出すのはどうかと思うのだ。


 ────と言うか、いつの間に俺は彼女に無抵抗で血を差し出されるくらいの信用を得たと言うのだろうか?


 まさかフリージアがここまで俺を信頼してくれているとは思わなんだ。結構な衝撃に慄いているとフリージアは呆れ気味に言った。


「それで、やるの?やらないの?そろそろ本当に氷壁の方が限界なんだけど……」


 気が付けば氷壁が不穏な音を響かせている。フリージアの言葉通り、残された時間はなく、もう迷っている暇もない。


「お、おう。じゃあ……やるか」


「わかったわ」


 そうしてなし崩し的に作戦が定まる。作戦……と呼ぶには行き当たりばったり過ぎるが、この危機を乗り越えるためにはこれしかなかった。


 ・

 ・

 ・


「そろそろ、ぶっ壊れろ!!」


 荒々しい声と共に黒い大波が氷壁に打ち寄せる。


 そうして何度目かの追い打ちによって巨大な氷壁はその身を崩し、隔てていた空間を一つにする。阻むものが無くなったことにより、奴の〈黒海〉は勢いよくもう半分の部屋の中を流れる。


「ピッタリ三分かよ……」


 それに飲み込まれぬように俺はフリージアを抱えて大きく跳躍した。


 氷壁はその身を崩すと霧のように霧散して部屋中に白い霜を発生させる。この中に隠れれば、まだ黒灰の騎士に視認されることはない。その隙に済ませてしまおう。


「行くぞ」


「ええ」


 最後の確認をすれば、フリージアは白銀色の長髪をかき分けて、その中に隠されていた白磁のような柔肌を曝け出す。そうして俺が嚙みつきやすいように更に身体をぴったりと近づけてきた。


「ッ!!」


 その光景と感触に一瞬だけ心臓が飛び跳ねる。果たしてそれはどちらに対する驚きか。一度目の人生と二度目の今回だって彼女とこんな至近距離で抱き合ったことなんてない。


 正直に言って緊張していた。今まで感じることのなかった感情まで意識してしまうし、気が気ではない。それでも────


「ッ────」


 俺はそれらを無理やり振り払って一思いに彼女の首元へと噛みつく。俺の鋭い八重歯がフリージアの細い首筋を、その肌を突き刺し、それと同時に口の中に赤い血の味が広がると今までの思考が全てどうでもよく思えた。


「ん、ぁぁ……」


 艶やかな彼女の声すらも今は食事の最中に響く雑音にしか思えない。ただ今は口の中に広がる甘美で極上な快感に没頭していたい。


「……」


「ん、ぅんん……」


 確かに俺は今、人の血を飲んでいる。


 本来ならば人の血なんてわざわざ口にしたくないし、美味しい印象なんて少しもない。けれども実際に口に含んで味わってみると全然違う。まるで味覚が変わったかのようにそれは甘くて、甘美で、美味しいと感じる。もっと寄越せとそれを求める。ずっと飲んでいられるような感覚さえ覚える。乾いた喉を血が通るたびに、今まで絶えることのなかった渇きが癒えていく。不思議と今まで感じていた疲労感や倦怠感も抜けていき、明確に魔力や……血までもが、全てが俺の一部となり満たされていく。


 ────フリージアの言う通りだ。


「レ……イ……、もう、だいじょう……ぶ?」


「ッ!わ、悪い!吸いすぎた!」


 一心不乱に彼女の首元を貪っていると優しく肩を叩かれて我に返る。


 咄嗟に口を離してフリージアを見遣れば、彼女はどこかぐったりと身体を脱力させて、頬は赤く上気していた。血を吸われる、と言う行為は想像以上に体力を奪われるらしい。逆に俺は血を吸ったお陰か、嘘のように活力が漲っている。


 ────申し訳ないことをしたな……。


 そう思っていると、フリージアは俺に儚く微笑んだ。


「これで、あの騎士を倒せそう……?」


「ああ、十分だ」


「ごめんなさい、本当は手伝いたいのだけれど……想像以上に疲れて────」


「気にするな。後は俺が全部終わらせるから、ゆっくりしていてくれ。しっかり掴まっていろよ?」


「うん」


 気が付けばもう殆ど霧は晴れていた。


 異様に長く感じた吸血であったが実時間にして僅か十秒と少しばかり。既に黒灰の騎士は俺達を視認している。こちらの身体を離すまいと力強く抱き着いてきたフリージアをしっかりと抱えて、俺は奴を見据えた。


「随分と長い作戦会議だったな?一緒に死ぬ覚悟はできたか?」


 悠々と黒灰の騎士は尋ねてくる。先ほどまで圧倒的な力の差を感じていたはずなのに、今はそれを微塵も感じない。それは偏に血や魔力が回復したからではない。


「さあ、どうどうだろうな? もしかしたら死ぬのはお前の方かもしれないぞ?」


「ははッ!女がすぐ隣にいるから見栄を張りたい気持ちも分かるが────現実はしっかりと受け止めた方がいいぞ?」


 俺の返答を聞いて騎士は今までの比ではない魔力を開放する。今までどこにそんな莫大な魔力を隠していたのか……どうやら、黒灰の騎士はこの一撃で決めるらしい。


「そうだな……全くもって同感だよ」


 それには俺も賛成であった。


 異様に長く感じたこの勝負にそろそろ決着をつけたと言うのはこちらも同じだ。だからこそ、ゆっくりと眼前の騎士を見据える。黒灰の騎士は今持ちうる最大限の魔力を以て、彼が持ち得る最強の魔法を唱えた。


「〈黒海〉!!」


 詠唱と同時に眼前には大きな黒い波が顕現し、目の前の騎士を覆い隠してしまう。


 真黒な海は言い換えれば闇と同義であり、透明感のない闇と言うのは見ているだけで胸の内に巣食った不安感を煽る。


 けれども不思議と俺は落ち着いていた。今は〈血流操作〉も〈滅龍血戦〉も何もかも起動させていない。言ってしまえば無防備で、戦う準備が整っていない。それでも、どうしてかこの迫りくる大波をどうにかできるような気がしてしまう。


「不思議な感覚だ……」


 迫りくる黒い海を前に、ゆったりと魔力を熾す。


 それは吸血行為をしてからずっと感じていた違和感を手繰り寄せるような行為だ。自分の魔力とは明らかに違うモノが全身に巡っている。とても冷たくて、けれどもその芯は暖かくて優しい。それは俺の中には存在しないはずの。衝動のままに俺はその違和感を手繰り寄せて────


「〈氷血凍土の灰霜と帰せグレイフロスト〉」


 脳裏に浮かんだ一つの空想まほうを想起させて、もう一つの魔力と血液で再現する。瞬間、俺達の周囲に尋常ではない冷気が発生し、その衝撃は覆いかぶさろとする〈黒海〉を一瞬にして赤く凍らせた。


「な────!!?」


「ほらな、お前だったろう?」


 尋常ではない寒気と、虚空に舞う紅い霜。黒とは決して結びつかない真紅の氷塊を見て黒灰の騎士は絶句する。そんな奴を見て俺は無意識に顕現させた〈血戦斬首剣ブラッドソード〉で凍らせた〈黒海〉を軽く小突けばそれらは一瞬にして霧散した。


「こんなことがありえ────!!」


 驚愕の声は途中で途切れる。どうやらあの騎士も〈黒海〉と同じように凍ってしまったらしい。そうして全身が凍った黒灰の騎士は儚くも〈黒海〉と同じように淡い霜になって消えた。


「はぁ……」


 どこか幻想的な光景を呆然と見つめて俺は一息吐く。


「終わったの?」


 今まで静かに目を閉じていたフリージアはゆっくり尋ねてくる。それに俺は笑みを浮かべて頷いた。


「ああ。全部、終わったよ」


「……そう」


 優しく微笑み返すと彼女はまた目を閉じてしまう。どうやら相当疲れているらしい。


 いつまでも残酷で幻想的で、そしてどこか現実味のないこの光景を眺めていたかったが、そういうわけにもいかない。思い返せば、今は緊急事態で直ぐにでも自分たちの安全を今もこちらに向かってきているはずの救助隊に知らせなければならない。


「帰ろう」


「うん」


 そう思い直して、俺は足早に地上へと戻った。

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