親として


「何を言ってるの。そんなの当たり前の、当然の事でしょう!」

「子供をきちんと育てて、自立させて親から離れて行かせるっていうのが、子育ての最終目標でしょう!」

 背筋を伸ばし、自信に満ちた表情で私と向かい合って座るエリちゃんは、更に強い目力をもって畳みかける。

「親だったらそれを忘れちゃダメでしょう!」

「え?エリちゃんそんな風に考えて子育てしてたの?」

「当たり前じゃないの!子供は自立させてなんぼなのよ!」

 てんでだらしない旧友に喝を入れる敏腕肝っ玉母さん。さしずめそんな体の場面が繰り広げられたのは、私たちがほぼ同時期に出産をしてお互い育児に明け暮れ、彼女は二人、私は三人の子育てをほぼ終えようとしている頃だった。

 大学進学や就職などで家を出ていく子供たちへの心配が募り、日々悶々としていると、いつの間にか心配そのものが、子供たちへの物ではなく、自分自身への物へとすり替わって来るのである。

 つまり、取り残されて家に一人ポツンとしている自分の行き場のない心の事である。

「空の巣症候群予備軍なのかなあ。」

「自立させたら子育てはもう終わりなの。自分にご苦労さまって言ってあげたいくらいだよ。」

 あくまでも正論に過ぎないけどね、と彼女が内心思っていたかどうかは今となっては測り知れないが、ここまで堂々と言い放たれると、私は完全に白旗を揚げざるを得なかった。

『そういう覚悟を持って子供を育てて来てたなんて、エリちゃんて本当に立派なんだなあ。私なんか足元にも及ばないよ。』

 頭が下がる思いでつくづく彼女の顔を眺めたのを覚えている。

 大きくなってもいつまでも子供は私の中では小さい時のままで、いつまでも一緒に楽しく過ごせる様な錯覚をしていたのは確かに親のひとりよがりではあろうが、人間なんてそんなもんなんじゃないの?

 同調してくれるかも知れないとどこかで期待していた。

 ところが見事にバッサリ切り捨てられた格好であった。

 お見事!

 若い頃から大物感を醸し出して、妙に肝の座った人物ではあったが、最早ただ者では無い。

 彼女の子育ては、決して孤独ではなかった。

 彼女を大切に思う、あの優しいお父様が、一緒になって彼女の子育てに向き合ってくれた。

 二人の孫の普段の生活に深く関わって、休日の過ごし方やお小遣いの与え方に至るまで、きめ細かく気を配って対応してくれた。

 一人では心細く感じたかも知れない様々な場面で、彼女はお父様の愛情に支えられ、勇気を貰って歩み続ける事が出来たのであった。

 彼女のお母様は、私たちの学生時代の終わりと時期を共にして、天に召されていた。

 閑静な住宅街の一角にある、趣のある一軒家で彼女は生まれ育った。

 近隣に宅地が造成される前は、広い田畑を朝な夕なに眺めて過ごし、実りの秋には雀の大群が押し寄せる様にして飛んで来るのを興味深く観察するのが楽しみであった。

 結婚相手は、お父様と同じ、中学校の教員である。物静かで、真面目一本やり。何より生徒達の事を一番大切にして行動する、優しい人物であった。

 結婚後、若夫婦は妻の実家に同居した。

 新郎の舅となるお父様は、退職後も活動的にスケッチ旅行などにも出かけられていたので、留守宅を守る者がいるという事は、いくらか心強かったのではなかろうか。

 若夫婦は仲睦まじく、入籍後数年内には、元気で可愛い赤ちゃんを次々と授かった。

 亡くなられたお母様と同じく、幼稚園の先生の職に就いていた彼女だったが、出産後は仕事を辞めて、育児に専念する事を選んだ。

 広い一軒家のお家の中を、隅々まで小綺麗に掃除して、いつも清潔な環境を整えて子供たちを過ごさせている彼女だった。

 子供の頃から台所に立つ事が多かったからか、お料理の腕前も相当の物で、栄養バランスと美味しさを両立させた手料理で、家族みんなの身体と心の健康を支えていた。

 はずだった。

 が、それは突然訪れたのだった。

 朝、起きて来る時間になっても、夫がなかなか降りて来ない。

 出勤時間に遅れたら困るだろうと考えた彼女が、二階の寝室に起こしに向かった。

 階段を上った途端に目に飛び込んで来た光景を、形容する術を彼女は持っていないだろう。

 咄嗟に、階下に残して来た子供たちの目にだけは、触れさせてはいけない。絶対に、目に入れる訳にはいかない。という思いが全身を突き抜けた。

 慌てふためいて転げ落ちるように階段を下り、よちよち歩きとハイハイの子供たちが、二階に行かない様に阻止した。

 頭の中はそれだけでいっぱいであった。

 その後何をどうやって、その朝家の中で起こっていた事を外部に伝えたのか、記憶にない位のレベルである筈だ。

 二階の寝室の、天井だったのか鴨居だったのか訳が分からないが、ロープを通してそこに、夫が首を吊った状態でぶら下がっていたのだ。

 有り得ない事が起こっていたのだった。

 とにかく子供を、二人の子供を守り抜かなくてはならない。

 彼女はその時、確実に人生の舵を切った。

 子供の心を守る。

 この子達がいずれ自立して、自分の頭で考える事が出来る様になるまでは、父親の逝去の事情や詳細について、いたずらに情報を与える事は避けたい。避けなければいけない。避けるべきだ。

 彼女はそれを徹底した。

 夫の葬儀を終え、対外的な諸々の手続きを終えると、今後の道のりの長さや、混沌とした不安に押しつぶされそうになっている自分に、いやでも気付かされる。

 それでも、彼女は自分を奮い立たせた。

 強固な使命感に突き動かされるかの様に、子供たちを守るというミッションを遂行するため、まずは今回の夫の逝去に関する事実を知る人物を、ことごとく自分たち家族から遠ざける、という手段を取ったのだ。

 ある晩の事、私に電話をかけて来たのだった。

 今までの様に連絡を取り合う事を、今後は辞めたいという内容であった。

 

 

 

 

 

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