カイエ帝国に事も無し
亜咲加奈
第1話 首をとれ
闇の林の中、セリムとケマルは走っていた。後ろからは追っ手たちが全速力で追いかけてくる。追いつかれたらその場で殺される。
なぜ二人がこんな目にあっているのか?セリムの兄ジャムスがカイエ帝国全土に厳命をくだしたからである。
――弟セリムの首をとれ。そしてその首を、余の前に持って参れ。
本来であればセリムは皇族としてジャムスの補佐をするべき役職につくはずであった。皇族の男に生まれたならば、それが定められた勤めのはずである。しかしジャムスは違った。ジャムスは星読みだ。つまり、天体の動きから帝国の行く末を予測できる。星は果たしてジャムスに告げた。セリムは『大波乱』を起こすと。
ジャムスはカイエ帝国の皇帝である。皇帝の座についた以上は帝国の秩序と安寧を保つ責任がある。ジャムスは慎重な若者であった。帝国には星読みたちを束ねる省庁、天文省がある。そこの官僚たちと協議し、何日も星読みを継続した結果出た結論が、帝国の秩序と安寧を保つためにはセリムに死んでもらわなければならないというものだった。
ところが、天文省の一人、ケマルは反対した。
「星が、人の命を奪えなどと命じた事実は、いにしえより伝えられた書物にも残っておりませぬ」
天体の運行を観測するのは複数でおこなう。観測にはなぜかケマルは参加を許されなかった。
「貴公は確か、第二皇子が幼少のみぎり、歴史を教授しておられましたなぁ?そして今でも第二皇子に指導助言をおこなっておられるとか?」
同僚たちに問いただした結果、返ってきた答えがこれだった。
ケマルは直感した。これも帝国の古い歴史にあるとおり、『大波乱』の発端となった、皇子たちの皇帝の位をめぐる争いを再現している。あの時も第一皇子が、後継者に指名された第二皇子を恨んで、天文省を巻き込んで偽の託宣をでっちあげた。そこから文武の官僚やら各地の軍司令官やら、果ては隣国のヘラス王国までいくさに乗り出す大騒乱となったのだ。
さて、林の中では無言の追跡が続いている。
「ケマル」
走りながらセリムが呼びかけた。今年、十七歳になったばかりだ。つり上がった眉の下にある目は、目尻が少しだけ垂れていて親しみやすい印象を与える。鼻は高く、背は中くらい、やせていて手足は長い。しかし走り続けても息は上がらない。速さもそのままだ。
「何でしょう、殿下」
ケマル、こちらも背丈は中くらいでやせ型だ。あと三年で五十になる。髪もひげも真っ白だ。袖も裾も長い官服を着ているが、走るのは速い。
二人も追っ手も、カイエ帝国の男ならば皆そうであるように、頭に布を巻きつけている。セリムと追っ手が着ている服は木綿の筒袖、下はズボンだ。カイエ帝国の始祖カイエたちがもともと騎馬遊牧民族だったことに由来する。そのため主な移動手段は馬だ。カイエたちは北の高原からここアルドナ半島に移り住んだのである。
セリムが問う。
「反撃しないのか」
ケマルは前を向いたまま答える。
「してもようございますが」
「なら話は早い。行くぞ」
セリムは追っ手たちに向かって突っ込んだ。
先頭にいる追っ手が目をむく。彼の後ろを走る同僚の一人が叫ぶ。
「ヤクブっ、気をつけろ!」
セリムの右足が、ヤクブの左わき腹に命中した。ヤクブが両腕を交差させて防ぐ。しかしセリムの右拳がヤクブの顔面に突き刺さった。ヤクブが真後ろに倒れる。
追っ手たちにとっては想定内の事態である。彼らの両手には布が何重にも巻きつけてある。打撃によって拳を痛めないための用意だ。
セリムがするりと二人目――この哀れな追っ手の名はヌールという――の横にすべり込む。ヌールが察知した瞬間、セリムの裏拳がヌールのこめかみに決まった。ヌールは即座に地面に沈む。
残った追っ手、ムサ、ハリルがセリムの前後に立つ。
ケマルが葉を生い茂らせた大木の幹に手のひらを当てた。
「頼むぞ。私の主君を救うてくれ」
するとケマルが触れた大木から生えている葉が、一斉に枝から分離した。柔らかな葉は瞬時に尖り、ムサとハリルめがけて降り注ぐ。
「いてえっ。あいつのしわざかっ」
「星読みだけじゃなかったのかよっ」
葉はセリムだけをよけて二人に殺到する。
「殿下っ。お早く!」
「ありがとう、ケマル!」
セリムとケマルが先を急ぐ。
そこでムサが、人がよさそうな丸顔に似合わぬ鋭い声で叫んだ。
「逃がすかよっ」
ムサが弓を構える。弓を持つ手に尖った葉が刺さる。激烈な痛みにムサは弓を取り落とした。
「くそっ。そっちが使うならこっちだってっ」
ハリルが地面に両手をついた。
「奴らを追え」
ハリルの手が触れた地面が水色に光る。そこからセリムとケマルが逃げる方向に向かい、光の線がまたたく間に伸びてゆく。
「逃げられはしないぞ」
ハリルが、えらの張った顔で不気味に笑った。
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