帰還
我が主上と靖康の帝とは、さらに遠い地へ配流されてゆきました。会寧府から北東へ千里も離れた僻地に、五国城と呼ばれる城があります。かつて大宋の帝として天下を統べたおふたりは、臣下も縁者もすべて失い、従者六人だけを連れて、北の果てへと発ってゆかれました。
私は、三百人ほどの婦女と共に洗衣院へ下されました。噂は、この地にまで届いているようですね……ええ、官設の妓楼ですよ。繁盛しておりました。金人の将や官吏、ひいては宗室の男たちが、引きも切らず訪れておりましたから。一夜の悪趣味な戯れに、あるいは妾の品定めに。
院の婦女の中には、年若き童女たちもおりました。ええ、和福帝姫も寧福帝姫もいましたよ。女たちのすすり泣きは絶えず聞こえておりましたが、時折廊下で、和福と寧福のふたりが抱き合って泣いているところも見かけました。すぐに見つかって引き離され、互いの部屋へと戻されておりましたが。
生まれたばかりの幼女は洗衣院で育てられ、客を取れる歳になりしだい娼妓にされました。ですので何人か、外の世を知らぬ帝姫もおりました。あの姫たちは、半生を――あるいは生涯を、あの中で過ごすことになるのでしょうか。惨いことです。
洗衣院に下されて七年後、私は突然五国城へ移されました。金の暦で天會十三年(一一三五年)、二月のことでした。
理由は告げられませんでした。しかし私が入城した折、我が主上は――宣和の太上皇陛下は既に病を得ておられました。四月二十一日、主上は崩御なさいました。御尊顔には、御歳五十四歳とは思えぬ深い皺が、幾筋も刻まれておりました。
その後、およそ五年の間、私は独り北方の僻地におりました。わずかな従者を別にすれば、共に在る漢人は靖康の帝だけ。ごくごく稀に、寂寥を紛らすために話をすることもありました。が、男女はむやみに席を同じくしてはならぬもの。頻繁に会うわけにはまいりません。多くの時間、私は独りでした。
ですので私にとって、紹興の和議が成ったことは大きな驚きでした。金と宋の和議が進んでいたなど、私には知る由もありませんでした。それどころか、我が子たる康王が江南へ逃れて即位していたことも、知らぬ間に皇太后と呼ばれていたことも、私はまったく聞き及んでいませんでした。
紹興十二年(一一四二年)の四月、私は主上の棺と共に南へ戻りました。十五年ぶりに会う、我が子康王……今上の帝は、涙を流して私を迎えてくれました。私を取り戻すために、いかほどの尽力をしたのかも伝えてくれました。さらには、私のための宮殿――慈寧宮は二年も前に造ってあり、主のいない間にも生辰の祝いを行っていたのだとも。
道士どの。私には、よくわからぬのです。
いま、私は大宋の皇太后として、この世の富貴のすべてを得ております。悲嘆も鬱屈も過去のもの。いまさら七情を乱しはしないはずなのです。
見えぬ憂悶は、確かに多くありましょう。ですが靖康の難を経た民は、皆なにがしかの形で傷を負っております。もしこれが眼病の源であるなら、大宋のすべての民が光を失っているはずです。
我が七情は整っております。眼病の因では、おそらく、ありませぬ。
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