第59話



「……自分の親と同じ過ちを犯したくなかった」


 そう言えば、お父さんの方の祖父母とは会ったことなかったなと今更気づく。お父さんは顔をあげながらも、私たちに話しかけるというよりはどこか自分自身に語っているように続ける。


「生まれた時から、俺の家には母親しかいなかった。その母親も俺を産むだけ産んで何をしてくれるでもなく、俺が小さい頃からよく家を空ける人だった。家は貧乏だったから差別されることもできないことも多かった。それを変えるためには何かが必要だった。その何かは勉強だろうと思った。特段頭がいいわけでもなかったから、必死で努力を重ねた。高校からはアルバイトをして学費を稼ぐ傍ら、血反吐を吐くようにひたすら勉強を続けた。その結果、難関大学に受かり、奨学金を借りて、家を出た。その後も研鑽に研鑽を重ねて、大企業に就職し、それからも努力して今の地位を築いた」


 そこで、一度区切るとお父さんはテーブルのコーヒーを口にする。お父さんにそんな背景があっただなんて知らなかった。てっきり昔から頭もよかったのだろうと思っていた。お父さんの気持ちはどうだったのかと思いを馳せていると、カップを置いたお父さんが話を再開する。


「だから、勉強さえできれば幸せになれると思っていたし、今もそう思っている。自分の子どもには同じ苦労はさせまいと、幼いころから勉強に集中できる環境を整えた。それで何もかもうまく行くと思っていた。結局はこうなってしまったが」


 私は今までこんな風にお父さんの心の内を聞いたことがあっただろうか? お父さんはてっきり私に全く興味がないのだとばかり思っていたから。内心とても動揺しているとお姉ちゃんはばっさりと切り捨てる。


「だから? 私たちに同情、いや共感してほしいのかしら?」


「……いいや違う。ただ聞いてほしかっただけ、なんだろう」


 自分のことなのにどこか他人事のようにお父さんはそう言う。


「今更元に戻ることはないだろうが、案外これで良かったのかもしれないな。——さて、そろそろ行くとするか」


 そう言ってお父さんは立ち上がろうとする。それに対して私は掛ける言葉が見当たらず、思わず顔を伏せる。そう思っていたならそうと伝えてほしかった、他に方法があったんじゃないか、そんな言葉が思い浮かぶも、どれも私が本当に言いたい言葉ではなかった。


「ああ、そうだ。さっき間違えていないと言ったが、一つだけ訂正したいことがあったんだ」


 一体何だろうか? お父さんが何を言うのか怖くもあったけどちゃんと聞きたくてもう一度顔を向ける。


「前にお前たちを俺の娘じゃないと言ったが、それだけ訂正したい。優はともかく、華、お前は本当に俺に似ていると思う。お前は嫌がるかもしれないが」


 そう言われたとき、私は何を思っただろうか? いや何を思えただろうか? あまりに予想外すぎる言葉で思考が停止してしまう。


「は? 華が貴方なんかと似ているわけないでしょう。馬鹿も休み休み言いなさい。大体、黙っていたら滔々と、罪悪感でも拭おうとしているのかしら? だから——」


「お姉ちゃん、ちょっと落ち着いて」


 お姉ちゃんが荒ぶっているから逆に冷静になることができた。何を言うのか気が気でないし、複雑な感情が今も渦巻いているけど、とりあえずお父さんの真意を聞きたいと素直にそう思った。


「優は……ずいぶん変わったな。前はこんな風に意思表示することなんてなかったのにな。——華は芽が出るまで遅いし、才能もなく、不器用で、昔の自分を見ているようだった。だからこそ結果が出るまで努力を続けることができるとも思っていた。それだけだ」


 そんなことを思っていたならと思う心もあるが、案外こんなものかと思う心もある。もし、これを最初の人生で聞いていたら何か変わっていただろうか? それは考えても仕方のないことだ。


「だから、娘じゃないということだけ訂正しよう」


 そう言うと、お父さんは残っていたコーヒーを一気に飲み干し、席を立つ。


「——もう、行くの?」


「ああ。——そうだ、最後に一つだけ忠告をさせてもらおう。華、俺もお前もきっと何個も大事なものを抱えられるほど器用じゃないのだろう。だから、お前にとって一番大事なものが何か、常に意識するといい」


「ふんっ、そんなことしなくても私がなんとかするわ」


「そうか。それは、頼もしいな」


 そうしてお父さんは私たちの横を通り過ぎていく。お父さんは引っ越すらしいから、これから会うことは難しくなるかもしれない。でも、これが今生の別れではないことはきっとこの場の誰もが思っていた。


 カランコロンと軽快な鈴の音がして、お父さんがカフェを出たことが分かる。私は最後にお父さんに言われた言葉が頭に残って離れなかった。










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