銀雪の伝承師

アベ ヒサノジョウ

第1話

 1

「紗夜ごめん。放課後に練習が入った」

 帰りのホームルームを終えた頃、クラスメイトの園田 那月が日に焼けた顔をこちらに向けて話しかけてきた。僅かに見える彼女の犬歯が、どことなく快活性を感じさせる。

「そっか。じゃあ終わるまで図書室で待ってる」

「遅くなりそうだしいいよ。先に帰ってて」

「終わらせたい課題があったから大丈夫」

 那月が練習に向かったのを確認し、荷物をまとめると教室を出る。図書室に向かうにはそのまま廊下を抜けた先にあるが、紗夜はその手前で右に曲がり、階段を登る。それから登った先にある重厚な屋上の扉の前で立ち止まり、後方を確認する。紗夜の姿を追う者がいないことを確認し、前を向きなおる。扉の横には立ち入り禁止のコーンが避けられていた。

 ―――彼がいる。

 早まる呼吸を落ち着かせ、紗夜は屋上の扉を開いた。


 東雲 紗夜が屋上に足繁く通うようになったのは三週間前のことだ。高校に入学し、何気なく入部した演劇部でのことだった。

 演劇部はいくつかのグループで構成されており、一年生は演者以外のグループに所属する。部員数が多いため、大会を終えるまでは二・三年生の部員から演者を選ぶことが多かった。一年生は裏方として演劇に関わり、大会後のオーディションで配役に当てられる。

 小道具班に所属していた紗夜の手には、制作途中の模造刀が握られている。中世のヨーロッパで決闘に使われたような西洋剣で、インターネット通販で購入したものだ。形や大きさは良いものの、プラスチック製の刀身ではチープで格好がつかないという理由で銀色に塗ることを任されていた。

「吉岡先生」

 紗夜は模造刀と銀のラッカーを抱え、部活動棟にある第二体育館に向かう。体育館後方では顧問の吉岡 健一郎がステージ上の生徒に視線を送る。吉岡は四十代くらいの丸顔で大人しそうな雰囲気の教師だが、演劇部においては厳しい指導をするということで有名だった。

「…吉岡先生」

 吉岡はこちらに目もくれず腕を組んだまま鋭い眼差しでステージを見つめている。

 ステージ上では、数人の生徒たちが劇の流れを確認しているようで、台本片手に真剣な顔つきで声を張り上げる。その中央には演劇部の部長である中川 絵奈子が険しい顔で部員に指示を出している。

 紗夜の声などかき消されてもおかしくはない。

「あの…吉岡先生すいません!ラッカーを使いたいんですが…場所はどこがいいでしょうか」

 吉岡はようやくこちらに気づいたようで、一瞬驚いた様子を見せながら慌ててこちらに体を向ける。

「場所?なんの?」

「室内では使えないかと思いまして…」

 紗夜は持っていた銀のラッカースプレーを彼に見せる。

「あーそしたら、これ使いなよ」

 事情を察したのか、吉岡はワイシャツの胸ポケットを探り、クマのキーホルダーがついた鍵を紗夜に渡した。

「屋上の鍵。演劇部が荷物を一時保管できる場所もあるし、そこを使うといいよ。鍵は終わったら、ボクじゃなくて部長に渡しといて」

 吉岡に礼を言い、紗夜は荷物を抱え部室に戻る。鉄のラックから大きめのブルーシートを引っ張り出し脇に抱える。それから階段を上がり屋上を目指した。屋上の扉の横には三角コーンが置いてあり『関係者以外 立ち入り禁止』の文字が見える。

 ―――本当に使っても良いのだろうか。

 鍵も渡されたのだから指導を受けるようなことはないと思いたいが、心配は拭えない。数秒考えたものの好奇心には勝てず、開錠し扉を開く。わずかな隙間から吹き抜ける風が紗夜の体を通り抜け、ブルーシートを揺らめかせた。落ちそうになるスプレー缶を強く握りしめ、脇に挟んでいた模造刀に力を入れた。


 屋上に出ると湿っぽい校舎内の空気を忘れさせてくれるような爽やかさがあった。誰しもが自由に使える場所ではないという優越感がそれに拍車をかけるようにして心を軽くする。さらに一歩踏み出すと、遠くの方からグラウンドで声を挙げ、部活動に勤しむ生徒が見える。フェンスに近づき、彼らを目で追って見るものの、友人たちを見つけることはできなかった。

「…こんなことしている場合じゃなかった」

 フェンスを背にして屋上をぐるりと眺めると、出入り口の裏側に青色の屋根が見える。先ほど吉岡が『一時的な荷物置き場』と言っていた仮設テントはあそこのことなのだろう。

 そちらまで歩いていくと次第に仮設テントの全貌が見えてくる。よく運動会などで、教員たちが本部として立てるような屋根のみのテントで、雨晒しになっていたテントの支柱は所々錆びており、屋根の布地には鳥のフンらしき白い汚れも見てとれる。どうやら長期間に渡りそのままになっているらしい。仮設テントの中にはいくつかのクーラーボックスが積み上げられており、「小道具」と書かれたダンボールからは、無造作に突き刺さる刀などが見える。

「ここかな…」

 テントの中を覗き込むと、紗夜の視界には異様な風景が映る。仮説テントの中では人が横たわっていた。

 ブランケットのような厚手のタオルで頭や上半身を覆い、誰かは判別できないが、そのタオルから伸びる下半身は人間の足であり確かに男子生徒の制服である。

「……ヒィ」

 声にならない悲鳴が僅かに漏れる。予想だにしない光景に、体から力が抜け、持っていた道具が全て落下した。スプレー缶は、けたたましい音をたてながら床に跳ねて転がっていく。

 ———死体⁉︎

 しかし、その音に反応するかのようにゆっくりと死体が動き、上体を起こした。

 やがてタオルがめくられて、白髪の髪の少年が顔を出す。

「……何?」

 重い瞼を僅かに開き、快眠を邪魔された幼な子のような静かな目で少年がこちらを見ていた。



「雪の一年生」が、噂になったのは入学して間もない頃だった。噂話に疎い紗夜であっても、その名前を耳にするぐらいだから、その話題は高校生活の中心にあったのだろう。

「雪の一年生?」

「うん。なんか、病気とかでは無いらしいんだけど髪とか真っ白に染めているの」

 肌まで真っ白であると付け加えたのは同級生の中川 絵美子である。那月を通して知り合った陸上部の友人で、フワッとしたカールのかかる髪型と、落ち着いた顔立ちの少女だ。紗夜が所属する演劇部の部長の絵奈子の妹にあたる。

「女の子?」

「いや、男子。私も見たことないんだけどね」

 那月はつまらなそうに呟いて鞄を開き、中からスポーツタオルを取り出す。部活に向かう前の那月と絵美子はすでに着替えをすませ部室横のベンチに座っていた。

「入学してからほとんど学校に来てないらしいの。来ていてもほとんど人前に姿を見せないから、誰もよくわかってないんだって…」

「へえ」

 曖昧な返事を返しながら、紗夜は自分には関係のない話だと思っていた。


「驚かせてすまなかったな」

 少年は毅然とした態度で立ち上がり体を伸ばす。大きめのタオルケットを頭に被り、フチは彼の胸元あたりまで隠していた。頭頂部を覆うタオルには大きな穴が空いおり、隙間から僅かに見える白髪が、彼が噂の張本人であることを示していた。

「い、いえ」

 動悸が早い。打ちつけられる心臓の音が強く響いている。

「…あの、ここで何をしていたんですか?」

「………人を待っていた」

「屋上で?」

「ああ……だが、もう時間が経ち過ぎた。今日は帰るよ」

 少年は丁寧にタオルをたたみ、クーラーボックスの上に置いた。

 そこで紗夜は初めて彼の姿をまじまじと見る。

 白髪———というよりも、銀に脱色された髪色は彼が動くたびに煌めいていた。テント支柱の隙間から漏れる、刺すような日光が髪にあたり乱反射する。光を纏い、自らが発光するような美しい少年に、紗夜は呆然としてしまう。まるで自分が憧れた演劇の世界にいるようではなかろうか。

「…きれいな髪」

 思わず込み上げた感想を、抑えることはできなかった。慌てて口元を抑え顔を横に逸らしたものの、少年はこちらを見据えたまま笑みを浮かべるのみだった。

「ごめんなさい」

「いや」

 少年はそのまま立ち去ろうとする。

「あの……名前を聞いてもいいですか」

 少年は少し驚いた様子を見せた。

「崇道 雪之丞」

 そう答え、雪之丞はその場を後にした。


 それから紗夜は定期的に屋上へ通うようになった。大会を控えた那月と絵美子は部活動で忙しいらしく、放課後に一人で帰るよりは時間を潰して待っていた方が良いと思っての行動であった。雪之丞は屋上に居ないこともしばしばで、居たとしても相変わらず仮説テントの中で眠っている。一度だけ雪之丞の所属する学級を見に行ったこともあったが、欠席ということらしく、使われていない空席は別の男子生徒が友人との談笑に使っていた。

 雪之丞は学校での大半を屋上で過ごしており、雨の日は登校しない。屋上にいるときは『立ち入り禁止』のコーンが綺麗に横にずらされており、それが合図になった。そして、後からわかったことだが屋上への侵入は当たり前のように校則違反である。紗夜が、そのことを言及しなかったのは雪之丞が登校しなくなることを恐れていたことに他ならなかった。それは雪之丞を思っての事でもあるが、紗夜自身がこの空間を大切にしていたことも事実で、友人である那月にも雪之丞のことは話すことはなかった。


「雪之丞君、おはよう」

「ああ」

 雪之丞は仰向けになったまま目を開きこちらを見るが、またすぐに目を閉じる。紗夜は雪之丞の横に置かれた緑のクーラーボックスに座布団を敷き、腰掛けるとカバンから図書館で借りた文庫本を取り出す。読書を始め、無言のまま数分が過ぎる。屋上の風は心地良く、梅雨入り前の暖かな日差しを和らげて運んでくる。

「今日は那月と帰るんじゃなかったのか」

 唐突に雪之丞が口を開く。

「うん、急に練習が入ったみたい」

「そうか」

 紗夜は顔を上げて、視線を雪之丞に落とす。

「教室には行かなかったの?」

「ああ。あまり目立ちたくないからな」

 雪之丞は身動きひとつせず、ぶっきらぼうにそう言った。

「単位とか、足りるの」

「必要なことはやってる」

 この時はまだ知らないことであったが雪之丞の学力は申し分ないものであったらしい。

「とにかく、目立つのは嫌だからな」

「ふーん。私とは逆なんだね」

「紗夜は目立ちたいのか」

 雪之丞は意外だと言わんばかりの表情を浮かべ、こちらを見る。

「『目立ちたい』というか…、もっと、見てもらえたらと思う瞬間がある」

 どのように話せばよいかと思いながらも、話し始めると、とめどなく話してしまう。

「小学生に入る前、病気で寝たきりになっていた時期があって……長い間、植物状態で過ごしていたんだよね。意識はなかったから、自分からすると短い時間のようではあったんだけど気づいたら体だけ小学2年生になっていて」

 紗夜には3年生よりも前の記憶がない。目覚めてすぐの両親の泣き腫らした顔と、若い医者が丸眼鏡の向こうで微笑みながらこちらを眺める記憶が生まれてからの初めての記憶になった。

「奇跡的に目覚めてから、半年経過して、ようやく学校に行けるようになったんだけれど、一度も人と関わってこなかったから友達の作り方もわからなくて……まるで、空気みたいな人間だった」

 幼少時に他者と会話をした覚えが無い紗夜にとっては、人とコミュニケーションをとることは容易ではなかった。ましてや言葉すらままならない瞬間があり、長い会話は続けられず、身近い言葉をつなげるだけであった。そして、異国人のような紗夜を理解できるほど、まわりも成熟していなかった。紗夜が学校に馴染めず、殻に閉じこもるようになるのも時間の問題だったのだ。

「もしかしたら私はもう既に死んでいて、誰も私を見てないんじゃないかって思うことがたくさんあった」

 そんな時に出会ったのが、那月であった。彼女は、昔から変わらず紗夜の味方であったのだ。

「那月ちゃんは、ずっと私のそばにいてくれて、ずっと私の味方でいてくれた……だから那月ちゃんがこの学校に進学するって聞いた時、私もここに決めたの」

「……色々あったんだな」

 雪之丞はそっけなく、そう返答した。乾いた言葉ではあったが、雪之丞なりの気遣いを感じていた

「でも、この学校はお母さんの母校でもあったし、演劇部もあったから、那月ちゃんだけが理由じゃないんだけどね」

 紗夜は湿っぽい空気を払うように声の調子を上げて言った。

 そうか、と雪之丞は頷いてそれからまた目を閉じた。


「紗夜ぁ、那月が!」

 放課後、部室で小道具の制作をしていた紗夜のところにユニフォーム姿の絵美子が飛び込んできた。

 真っ青な唇を震わせている。紗夜は絵美子に連れられて保健室へ向かう途中、那月の容態を聞いた。部活動の休憩中、グラウンドから外れた校舎側の木陰で水を飲んでいたところ、急に那月が倒れたのだという。

「那月ちゃん‼」

 保健室のドアを勢いよく開けると養護教諭の真田 鈴が電話をしている所であった。彼女は驚いたようにこちらを一瞥し、口に指を当て静かにするように合図をする。紗夜と絵美子は気にすることなくベッドに向かっていく。窓際に位置する保健室のベッドは二台あり、右側のベッドのみカーテンが閉ざされている。そのカーテンの向こうからは…ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん、…と、連続的な音がする。

「…何この音…」絵美子が、震え声で問いかける。

 何か弾力のある塊が、互いにぶつかり合うような鈍くこもった音が室内に響いていた。

「ちょっと!」受話器のマイクを手で覆いながら真田がこちらに声を飛ばすが、それを無視して紗夜が勢いよくカーテンをめくる。そこにはユニフォーム姿の那月がベッドの上で上半身を起こした状態で座っていた。

「……那月…ちゃん?」

 那月は顔を下にして俯いており、その目は開かれている。紗夜が那月の顔を覗き込むと、眼球が忙しなく振り子の様に左右に動いているのがわかる。だらりと空いた口からは涎が垂れているにもかかわらず、那月は気にする様子もなく垂直に肘を張り、胸の前で絶え間なく手を叩き続けていた。まるで何かに祈るかのような異様さである。

「…那月ちゃん…?」紗夜はもう一度、那月を呼ぶ。

「…ううううぅぅぅぅ」

 那月の呼吸に合わせて、意味をなさない奇声が発せられるのみだった。

「那月ちゃん、ねぇ、どうしたの、ねぇ」

 紗夜は那月の全身を覆うように後ろから強く抱きしめるが、彼女はそれを振り解くように強く手を打ち付ける。

「大丈夫だから、那月ちゃん、ね」

 根拠もなく紗夜は那月を宥めるが、その言葉は自分に向けて発しているかのようだった。電話を終えた真田がこちらにやって来る。

「…熱中症だと思うんだけど、意識が朦朧としているみたいなの。今、他の先生方を呼んでいるから」

 意識が朦朧としているからといってこうなるとは到底思えない。まるで自分の意志とは関係なく操られているかのように手を打ち続ける那月は、不気味な生き物のように思えてならなかった。

 それからすぐ、数名の教師が保健室にやってきた。担任の中野もいる。那月の姿を見るや、教頭から救急車を呼ぶように判断が下った。養護教諭の真田が受話器をとり、かけようとしたその時だった。

「さ、紗夜…?」那月がそう声にした。

「那月ちゃん?」

 紗夜がもう一度、那月の顔を覗き込む。那月は複雑な表情を浮かべたまま、ゆっくりと顔を上げて周りを見渡した。

「あ…、わ、私……、えぇ……痛ったぁ」

 那月が何度も瞬きを繰り返すし、手で、目を覆う。目が乾いてしまっていたようだ。

「那月ちゃん」

 紗夜は那月の体をきつく抱きしめた。横にいた、絵美子が顔を覆いながら嗚咽を漏らし泣いていた。安堵と恐怖が同時に襲うようだった。

「あ、ごめん……なんか、私………二人とも…先生方も、すみません」

 那月は困惑した顔を見せながらもそう言って、無理に笑って見せた。

 それから三十分、那月は保健室で休むことになった。症状は『熱中症によって意識が混濁してしまった事による神経の衰弱と痙攣』ということで皆が納得することにしていた。絵美子は那月の無事を確認すると、そのことを顧問に伝えに行った。当初はここに残ると言い張る絵美子だったが、那月は自分のせいで絵美子まで練習に参加できないことが耐えられなかったのか、半ば無理に追い出した。

 既に学校から家族に連絡を入れていたため、職場から迎えに来ようとしていた父親に那月が電話を入れる。

「ごめん、父さん。全然、大丈夫だから…」

 那月がベッドの上で横になったまま、電話で話している様子を紗夜は眺めていた。

「熱中症の子を、一人で帰しちゃいけないことになっているのよ。だから迎えに来てもらって」という真田に従わず、那月は何度も大丈夫だと言い張った。

「いや、むしろ、具合はいい方なんですよ、本当に」

「…ダメよ、一人の時に倒れたらどうするの。それに、絶対病院へ行くこと」

 真田はそう言い続けるものの、那月は一向に従おうとしない。

「真田先生、この後は私が一緒に帰ります。那月さんを家まで送るので」

 結局紗夜がそう言うと、真田は渋々納得した。

「必ず最後まで見送ってね、何かあったら学校に電話すること」

 そして、再度病院へ行くことを強く勧めた。那月はそれに対しても不服そうだったが、紗夜もそれだけは譲らなかった。


 紗夜はジャージから制服に着替え、部室に戻り早退することを伝える。

 顧問の吉岡はリハーサルに顔を出しているため小道具班のリーダーである工藤にそのことを伝えた。

「あー、わかった部長には伝えとくよ」

 工藤はそのまま頷いて紗夜のことを送り出した。部室の前では、スマホを片手に那月が顔をしかめながら、忙しなく指を動かしている。どうやら家族に連絡をしていたらしい。

「親から、鬼のように連絡来てるよ」

「普通、心配するよ。倒れたんだもん」

 紗夜はそう言いながらも、それだけでは済まない異様さが胸を締め付けた。あれは一体何だったのか。

 那月は「なんともないんだけどなぁ」と言いながら、スマホをブレザーのポケットにしまうと、紗夜に飛びつき腕を組む。

「それじゃ、エスコート頼む。紗夜ちゃん」

 今の那月からは先ほどの異様さは微塵も感じられなかった。腕の温かみだけが、今の紗夜にとって救いだった。校門を出てからも、通知音が鳴るたびに那月はスマホを取り出してはメッセージに返信していた。

「スズメちゃん、親になんて言ったんだよ」

「真田先生、すごい心配してたんだから」

 真田は背が低く、童顔で不釣り合いなほど大きな眼鏡をかけている。その真田が焦ると、忙しなく部屋を駆け回る雀みたいになるものだから皆からスズメちゃんと呼ばれていた。

「スズメちゃんの焦るとこ見たかったな…」

「そんなこと言わないの」

 那月は少し笑って、また腕にしがみつく。小学生の頃はこうしてベタベタとスキンシップを取るような人ではなかったが、年を重ね、仲が深まるごとに彼女は仕切りに紗夜に触れるようになっていた。これが那月の本来の姿なのかもしれないと思うと、紗夜は少し嬉しくなる。

「…明日は練習に行けるかな」

「ちゃんと病院へ行ってよ、那月ちゃん」

 那月は曖昧な返事でそれを誤魔化した。

 那月の家は、学校からバスで二十分ぐらいのところにある。紗夜の家は、そこから歩いて五分ほどだ。

「今日は外出禁止だからね」

「うーん…」

「うーん、じゃない。はい、でしょ」

 と言っている間にも、那月の家に着く。那月は郊外のマンションに住んでおり、幼い頃から彼女の家には何度も行っていた。那月は郵便受けの手紙を覗き込み、いくつかのチラシと封筒を取り出す。

「あき君、帰ってないの?」

「多分、あいつ遊んでんな…」

 園田 昭彦は那月の弟で、昨年小学校を卒業し中学生となった。昔は家に引きこもりがちであったが、進学し新しい友人も増えたらしく放課後は友達の家で遊ぶことも多くなっていた。

「やっぱり私、家族が戻るまでいるよ」

「いいって紗夜。帰ったらちゃんと横になって休むから」

 那月は手を横に振って紗夜を制した。

「紗夜、ありがとう。本当にもう大丈夫だから」

「…うん」

 結局、玄関の前で那月と別れることにした。本当であれば、家の中で家族が帰宅するのを待ちたいところだった。昭彦が帰っていれば安心できたのだが。

「…本当に休んでよ。私、家帰ったら連絡入れるから」

「わかってるよ、はーいはい」

 那月は苦笑いを浮かべながら、両手を延ばし紗夜を抱きしめる。

「今日はありがとね、紗夜」

「うん」

 紗夜がエントランスを出て一階の出入り口付近で待っていると、四階の通路を渡り自宅の玄関ドアの前に立つ那月の姿が見える。

「那月ちゃん!」

 紗夜が小さく手を振ると那月がこちらを振り返り、右手に鍵を持ちながら左右に振り目を細め笑顔でそれに答える。それから自宅へと入っていく那月を見届けると、紗夜は自宅に帰ろうと後ろを向いた。

 その時、…ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん、…と、あの音が聞こえる。

 ゾッとして、紗夜は自分の背中が一気に冷えていくのがわかった。

 ―――後ろを振り向きたくない。

 そう思いながらも見ないわけにはいかなかった。

 つい先ほど自宅に戻ったはずの那月が外に出ていた。首は項垂れ、下を向いているため顔は見えない。保健室にいた時のように、肘が体と垂直になるように高く上げ、胸の前で手を打っている。

「那月ちゃぁん‼︎」

 那月は四階の通路の手すりの上に登っていた。紗夜は何度も那月の名前を大声で叫ぶものの聞こえている様子はない。

 …ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん…

 那月は絶え間なく手を叩き続けている。

「今行くから、じっとしててね!」

 思考がまとまらない。しかし、今すぐ那月を止めないといけないことはわかる。紗夜は慌ててオートロック式のエントランスに戻るが鍵の解除はできない。ドア横の掲示板に貼ってある管理室の番号を打ち込み、呼び出し鈴を鳴らす。

 …ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん…

 二回目の呼び出し音が鳴り、気怠そうな男の「はい、管理人室です」という声が聞こえる。

「今すぐここを開けてください‼︎」

「…はい?」

「早く開けて‼︎友達が大変なんです‼︎」

 男の言い淀む返事が聞こえた時

 …ぱしゃん、ぱしゃん、ぱ…

 その音が止んだ。紗夜がドア振り返ろうとした時。

 ごつぅん。

 重い何かがコンクリートの床にあたり、ひしゃげるような鈍い音が紗夜の後方から聞こえてきた。

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銀雪の伝承師 アベ ヒサノジョウ @abe_hisanozyo

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