第33話
揺れている。
意識の水面の下から浮き上がる感覚と共に、アーシャは目を開けた。
「ラッセル……?」
「おう、お目覚めか。心配させやがって。
30分ギリギリで音が止んだから生きた心地がしなかったぞ」
自分は装甲車の後部座席に寝ているらしい。
状況が呑み込めたアーシャは、運転席のラッセルの背中をぼーっと眺めていた。
「約束、忘れてませんよね?」
突然の切り出しに、ラッセルは後部座席を振り返る。
「あん?」
「あなたの昔の話です」
「辛気臭くて、無力な話だぜ」
「その方が私の眠気も冷めるんじゃないですか」
背中が揺れる。ラッセルは苦笑した様だった。
「んじゃ、ラジオ代わりにでも聞いておいてくれ」
ラッセルは普段と変わらぬ様子で話し始めた。
ラッセル・ハーバー20歳の春、彼は柄にもなくスーツを着込んで警察署の前で緊張に揺れていた。
今日は警察学校の合格発表日なのだ。
もっとも、掲示板に彼の名前はなかったが。
「……さらば、俺の第二の人生」
がっくりと肩を落とし、ラッセルは警察署から離れていく。
彼を慰める受験生はいない。
ラッセルは周囲でも名の知れた悪党だった。
彼の腕っぷしがあれば、どんな相手でもひれ伏した。
しかし、いつも彼の心にあったのは晴れることのない焦りである。
一体、何時までこうしているのか。
自問自答の末、ラッセルは思い立った。生まれ変わろう、今までとは違う自分になろう。
人生を賭けた一念発起だったのだ。
「ギャンブルみたいにはいかねぇなぁ」
裏路地に入ろうとしたラッセルの襟を、何者かが引っ張った。
後方へよろけたラッセルは、自身を引っ張った相手を睨みつける。
「おい、何すんだよ。
今は優しくしてやれねぇぞ」
彼を引っ張り出したのは、一人の女だった。
彼女が懐から出したものに、ラッセルは目を丸くする。
「私はこういうものだ。
キミと話がしたい、車に乗ってくれるね」
「……逮捕されるようなことはここんところ縁がねぇぞ」
「だから、キミをスカウトしに来たんだよ。
警察官としてね」
話が見えない。
だが、この警官の顔には見覚えがあった。警察官だという話は嘘ではないだろう。
「少しでも妙な真似したらぶっ飛ばすぜ」
「それでいいよ」
すぐそばに止めてあった黒い車に、女とラッセルは乗り込んだ。
女の自宅だという古ぼけたアパートの一室で、女とラッセルは向かい合って座っている。
ラッセルの手前にある紅茶には一度も手が付けられていない。
「君の試験の結果だが、試験に落ちたとはいえ合格点に限りなく近いものだった。
そして、我々は君の過去にも注目している。
札付きのワルであるキミが、短期間で更生し、勉学でも結果を残している。
にわかには信じがたい話じゃないか?」
「あん?なんだ、疑ってやがるのか。
俺は生まれてこの方マフィア連中とは一度も付き合ったことがねぇんだ。
奴らのスパイになって警察にもぐりこむぐらいなら、戦争したほうがマシだぜ」
女は含みのある笑みを浮かべた。
「知っているさ。
キミの身辺は徹底的に洗わせてもらったからね。
本当に、我々にうってつけの人材だよ」
女は笑みを引っ込めると、ラッセルを見つめた。
「まどろっこしいのはナシだ。
キミ、潜入捜査官にならないか。
キミなら決して疑われずに潜入できる。そして、キミが悪事とは手を切ったことは試験の結果と、今のキミを見ていればはっきりわかる。
私と一緒に正義を成そう」
女が出した手を、ラッセルは少しの沈黙の後で握った。
「やっぱり賭けはこうでなくっちゃな」
「……おい、警官になったらギャンブルからは足を洗ってもらうからな」
「マジかよ!?」
こうして、彼は秘密裏に警察官になった。
秘密裏の訓練の跡、ラッセルはとあるマフィアの元へ潜入した。
証拠集めは順調だった。ラッセルは疑われることなく、しかし決定的な悪事には身を染めずに組織の信用を得て行った。
マフィアの一斉検挙は目前のはずだった。
いきなりの逮捕に、ラッセルは面喰っていた。
いつものように請け負っている地域のあいさつ回りを終えた後、ラッセルの自宅に待っていたのは3人の警官だった。
それから、ラッセルは飲まず食わずの尋問に耐え続けている。
「あの女はもうゲロったぜ。お前も楽になれよ」
「俺の女なんざ多すぎて特定できねぇよ」
「はん、まだしらばっくれるか」
ラッセルは、女上司が手を回すまでの時間を稼いでいた。
潜入捜査は違法である。しかし、マフィアの様な法の外側にいるような人間のしっぽを掴むために行うべきであるという声は警察内でも根強い。
時間さえあれば、彼の上司が状況をひっくり返すはずだった。
「……は?」
だから、彼女がやつれた様子で取り調べ室に訪れた時に、彼は我関せずを貫けなかった。
「ごめんなさい」
女上司は、部屋に付くなり彼に頭を下げた。
「あなたが潜入捜査の事を吐いたと聞かされて、捜査のことを認めてしまいました。
……あなたのことを、信じきれませんでした」
それは、最も予想していなかった手痛い裏切りだった。
ラッセルは、ショックを激情で隠す。
「誰が裏切り者だ?
俺達の潜入は完璧だったろ。誰かが裏切ったはずだ!
奴ら、完全に俺らの内情を知ってやがった!」
「やめなさい。
あなた、本当の犯罪者になるつもりですか。
……潜入捜査の罪は私一人で被ります。あなたには一切手だしさせません。
復讐なんて考えずに、次の人生を歩むんです」
「ぶざけんな。
そもそもアンタが俺を信じて黙ってりゃ、知らぬ存ぜぬで通せたんだよ!」
ラッセルの怒鳴り声に、女上司は力なく俯いた。
ラッセルの潜入を知っていた警官は多くない。女上司の腹心の部下であったヤイールか、ミランダのどちらかが裏切ったのだろう。
「どっちだ、ミランダか?ヤイールか?」
「やめなさいと言っているでしょう。
……恐らく、どちらかはマフィアのスパイです。
我々が潜入していたように、相手も長らく事らの内情を探っていたんです。
あなたがどんな一手を打とうと、奴らには筒抜けでしょう」
裏切ったのではない、初めから敵だったのだ。
言葉を失ったラッセルに、女上司は深く頭を下げた。
「あなたをこの道に引きずり込んだのは私です。
そして、あなたを信じきることが出来なかったのは私です。
どうか、罪を償わせてください」
ラッセルは、力なく項垂れる。
彼女の言葉を否定する気力は、もう彼に残っていなかった。
アーシャは、ラッセルの話を黙って聞いていた。
「……それからは、潜入の頃の機械の知識が役立った。
俺は軍の整備兵になって、それからはお前さんの知っての通りだ」
「裏切り者は、結局誰だったのかはっきりしているんですか?」
ラッセルは深いため息をついた。
「いいや。
ミランダは、潜入発覚の1か月後に自動車事故で死んだ。
事件性は無かったそうだ。
ヤイールも暫くして警察を辞めて……真相は藪の中だ」
乗り心地の良いとは言えない装甲車両のせいだろうか、じっとしていられなくなりアーシャは身を乗り出した。
アーシャはラッセルの顔を覗き込む。
「……なぁんだ。大丈夫そうですね」
ラッセルは至っていつも通りの形相であった。
「もう整理はついてるんですね」
「苦い記憶だけどな。
俺にとって、人生はギャンブルみたいなもんだ。
どんな局面でも、結局運が悪けりゃ盤面がひっくり返っちまう。
……あの時は大逆転負けだったが」
少し言葉を切ると、ラッセルはアーシャから表情を隠す様に動かす。
「そこから、今はまさかの世界を救う旅だ。
裏切り者の件だって、俺のあずかり知らぬところで全部終わっちまったし。
大逆転勝利だろ?」
「はぁ、秘密の共有が出来たのは嬉しいですけど。
あなたが泣き顔を見せてくれるんじゃないかって期待したんですけどね」
「なんかがっかりしてると思ったらそういう理由かよ!?
お前さん、ほんといい性格してるよな……」
「だって、私だけ泣き顔を見られてるのって悔しいじゃないですか」
変な女だ。
ラッセルはくつくつと笑った。
「俺は泣くよりも親しい人を泣かせるほうが多いな。
お前さんも気をつけたほうがいい」
「なんです?
俺に近づくと火傷するぜって事ですか」
「いや、ギャンブルで負けがこむと金を借りに来るようになる」
「たしかに悲しい!
というかその場合でもあなたが泣くべきでしょう!主に情けなさで!」
「冗談だよ。
借金は警官になってから一度もしてないさ……」
そこで、アーシャは何かに気がついた様に声を上げた。
「あっ!
今更ですけど、私は親しい人に入ってるってことですよね!?」
「あん?あぁ、そう聞こえなくもないな」
「いいえ、そうとしか考えられません。
言葉の綾とか言うのは禁止します」
アーシャはニマニマしてラッセルに絡む。
「なぁーんだ、ラッセルも私のことを親しいって認めてたんですね!
いつも釣れない態度なんで、私の一方通行なのかなって落ち込んでたんですよ?」
「う、ウゼェ……」
「はいはい、そういう態度も照れ隠しなんですよね」
ラッセルは否定せず、鼻を鳴らす。
その様子にアーシャは嬉しそうに体を揺らした。
座席の前後にいるから、二人にはお互いの表情が見えない。
いつもより少し素直な時間を、二人は過ごしたのだった。
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