第5話 【魔王モルテSide】
食欲をそそるような匂いに、俺は作業の手を止めた。
もしかして、本当にセリカが料理をしているのか?
まさかと思ったが一応、食糧庫を片づけておいてよかったと俺は胸を撫でおろした。
今、俺がいるこの部屋は、古城の中でも端にある作業部屋だった。ここから調理場は近い。
ふと、調理場の様子を見に行こうかと思ったが、特に用事もないのにセリカに会いに行くのはためらわれた。
なぜなら、セリカは俺のことを覚えていない。付きまとったら、きっと気味悪がられる。
気味悪がられるどころか、他の連中のように俺を恐れるかもしれない。誰に何を言われても気にならないが、セリカに怖がられるのだけは嫌だった。
余計な考えを捨てて、俺は再び作業を開始する。今は、頼まれていた薬を調合しているところだった。
この作業部屋は、よくわからないものであふれている。壁には乾燥させた植物がぶらさげられ、棚に並べられた透明な瓶(びん)の中には木の実や鉱石などが入れられていた。
部屋の隅に置かれた本棚には、古びた本が並んでいる。その数は膨大で、この部屋の今の持ち主である俺でも、すべての内容を理解しているわけではない。
それだけで、この部屋の元の
あれからもう10年……。師匠にどれくらい近づけただろうか……。この10年、古城に籠りひたすら魔力を高める鍛錬と研究に明け暮れた。今の俺は魔王と呼ばれているが、師匠に追いつけたとは思えない。
俺の記憶が10年前へと引っ張られる。
ちょうど10年前にまだ幼い俺は、実の親に魔物の森に捨てられた。
無力な俺は飢えた魔物に襲われ、なんとか逃げ延びたものの、ひどい傷を負ってしまった。激痛の中で俺の意識が遠のいていく。
そんなとき、女の子の声が聞こえた。
「大丈夫!?」
だれかが駆け寄ってくる足音が聞こえる。
「大変、すごいケガ! おかあさーん! おとうさーん! 早くこっちに来て!」
複数の足音と共に大人の声がする。そこで俺は意識を失った。
子どもの俺が生死を
目が覚めた俺に気がつくと、女の子は「よかった」とつぶやき涙を浮かべる。
その女の子の面影のまま、10年後に出会ったセリカは美しい女性へと成長していた。
セリカ……ようやく会えた……。でも、セリカにとって、この世界に戻って来たことはいいことなのか?
俺の思考はまとまらず、記憶が過去と現在を行ったり来たりする。
そんな中、手だけはしっかりと動かしていたようで、気がつけば俺の側には緑色の液体が入った小瓶が並んでいた。
依頼されていた分は、これで足りるな。もうそろそろ取りに来るはず……あっ!
俺は、馴れ馴れしい顔なじみを思い出して、慌てて作業部屋から出た。
セリカとアイツを会わせないほうがいい!
俺の心配をよそに、セリカは一人で調理場にいた。楽しそうに料理をしているセリカの後ろ姿を見て、俺は胸がいっぱいになってしまう。
セリカ……。
いずれ戻ってくると分かってはいたが、セリカが今、手の届くところにいる。
頭では理解しているが気持ちはまだ追いつかず、どこか現実味がなくふわふわとしている。
すべては夢のようだった。この夢から覚めたときの絶望は計り知れない。そんな絶望を味わうくらいなら、この夢から覚めたくないとすら思ってしまう。
記憶の中のセリカはあどけない少女だ。しかし10年経っても、まとう雰囲気と意思の強そうな瞳は変わっていなかった。
あの目で見つめられると、俺は動悸が激しくなり、どうしていいか分からなくなってしまう。
10年前もそうだったのに、美しく成長したセリカに対しては余計に緊張が増した。
今だって、調理場のセリカに声を掛けることすらできない。
セリカはいつのまにか、真っ黒な異国の服からこちらの服に着替えていた。
急にセリカがこちらを振りかえったので、俺は慌てて隠れてしまった。
セリカの、あのアザ……。
一瞬だったが、はっきりと見えた。鎖骨の下辺りにあるあのアザのせいで、セリカはこの世界からいなくなってしまった。
あのアザを持つ者は『
セリカが一人で戻って来たということは、師匠に何かあったのか?
嫌な予感がする。
だとしたら、今度は俺がセリカを守る──
「魔王様。何、見てんの?」
すぐ側から声がして俺は「うわっ!?」と叫んでしまった。慌てて自身の口を手で押さえてももう遅い。調理場のセリカが不思議そうにこちらを見ている。
俺は声の主に向かって小さく叫んだ。
「ファルス! 勝手に入ってくんな!」
「何を今さら」
俺より背の低い少年ファルスは、緑色の瞳をあきれたように細めて俺を見上げた。
「この城の防御魔法がオレには反応しねーの、わかってるっしょ?」
「おまえのその特異体質は、一体なんなんだよ!」
ファルスはため息をつきながら、金色の髪をかきあげた。前髪の一部分だけ赤くなっているせいか、一度見たら忘れられない外見だ。
「つーか、なんか変じゃね? あっちに何かあんの?」
セリカを隠そうとする俺の隙をついて、ファルスはひょいと調理場のほうをのぞいた。その瞳が大きく見開かれる。
「うわっ!? 女だ! 女がいる!! 魔王様が城に女を連れ込んでいる!」
「や、やめろ!」
俺はファルスを黙らせるために捕まえようとしたが、もうすでに手遅れだった。
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