第17話 虹の編み方

「地図はお貸ししますので」「お帰りの際に立ち寄る機会がない」「場合はペニーにお渡しください」

「助かります」

 匠さんが礼を述べると、阿修羅館長は寂しそうに笑った。

「滅多にない来客でしたので」「嬉しい限りです。また」「寂しくなります」

「脚、お大事にしてください」

 僕の言葉に館長は三つの顔すべてを向けてお辞儀を返してくれた。

 ペニーのゆったりとした羽ばたきの後ろを匠さんとマリアさん、その後ろに綾見と僕が二列になって付いて歩く。遙か頭上までそびえ立つ本棚に挟まれた道は薄暗く、所々に本が落ちていた。

「あの、質問してもいいですか?」

 無言の行進中、僕は疑問を口にした。

「どうして僕たちの世界にこの図書館の本があったんですか?」

 ペニーはちらりと僕の方を振り返り、再び正面を向いてから話し始めた。

「この図書館は世界の狭間に存在しています。ここにある本は、本館と繋がっている世界すべての本が網羅されており、『実物』です。『実物』だからこそ、本館から本が消えれば元々存在していた世界からもその本が失われてしまうのです。

 もちろん、本たちは自分がどの世界と繋がっているのか自覚しています。しかし、希に自分がどの世界と繋がっているのか忘れてしまう本があります。そういった本たちを私と館長は迷子本と読んでいるのですが――あなた方が持ってきてくださった本がまさにそれです」

「自覚とか迷子って、まるで――」

「そのとおりです、本は意思を持っています。長年大切にされた本には、魂が宿るのですよ」

 周囲を囲む本一冊一冊に魂が宿っていると言われた途端、僕は周囲からの視線と不思議な圧迫感を覚えた。

「別に喋ったりするわけではありません。あなた方の魂の概念とは異質のものでしょう」

「でも」

 口を開いたのは綾見だった。

「魂があるっていうのなら尚更、こうやって床に落ちたままじゃあ本たちが可哀想」

 本を跨ぎながら歩いていた綾見は我慢できないと言わんばかりだ。

「管理が悪くお恥ずかしい限りです。やんちゃな本は勝手に棚から落ちてしまうのです」

「拾ったら問題ありますか?」

「いいえ、ですが適当に本棚に戻すのは厳禁です。どこかの世界で秩序が乱れる恐れがありますので」

 随分物騒な発言だったが、綾見は気にすることなく一冊の文庫サイズの本を拾い上げた。当然、四人全員興味があったので足を止めて彼女の横からのぞき込んだ。

「タイトル……当たり前だけど読めないな」

 僕がぽつりと呟くと、


「虹の編み方」


 綾見とマリアさんの声が重なった。

 驚いて綾見の顔を見ると、彼女自身がさらに驚いた表情をしていた。

「どうして……?」

「恭子ちゃんも読めるのね」

 マリアさんがにこりと微笑む。

 本に記された記述は僕の目には見たこともない記号の羅列にしか映らない。まさか僕だけ……と焦りに血の気が引いたとき、ぽんと頭に大きな手が置かれた。

「安心しろ、俺にも読めない。向き不向きの話、俺たちのうちで誰かが読めたらいいんだ。劣等感を覚える必要はない」

「でもっ」

 隣に並んでいたと思っていた綾見に一歩先を行かれたと思うと悔しいし、おとなしく納得はできない。

「広大には広大の何かがある」

 匠さんは僕の頭をぐらぐら揺らす。

「何かって、なんですか?」

「知らん。この世界にいたらいずれ分かるさ。それよりも今は綾見たちが読んだ本の中身だ」

 その言葉で僕は視線を綾見に戻す。彼女は一心不乱に本に目を通している。

「やってみてもいいですか?」

「もちろん。何でも試してみないと」 

 何のことか僕には分からないやりとりだったが、マリアさんの許可を受けて綾見は一度深呼吸、そして視線を本に落としたまま口を開いた。


「         」


「ん?」

 綾見の口は動いている。――動いているはずなのに、声が聞こえない。

「口パク?」

「違う。読めない俺たちには音になっても読めないままだ」

「恭子ちゃんはね」

マリアさんが言った。「今、虹を編んでいるの」

 綾見の無音の音読が続く。僕らは口を閉ざして彼女を見守る。唯一聞こえる音は綾見がページをめくる音だけ。そして、――やはりというべきなのか――本からおもむろに伸びた七色の光線にも効果音の類は聞こえなかった。光線は天井を目指して真っ直ぐ伸びていく。

「      」

 読み上げる当人が一番驚いていたが、綾見は読むのをやめることなく口を動かし続ける。彼女の声はやはり僕の耳には届かない。しかし、七色の光線は綾見の声に確かに反応している。それぞれの光が近づき、捻じれて絡み合い、虹が生まれた。アーチ状ではなく直線という形状に違いはあれど、紛うことなき虹だった。

 綾見が本を閉じると、七色の光彩は儚く霧散していった。

「はぁ~」 

 綾見が緊張を深いため息と一緒に吐き出した。

「……凄かった」

「凄いのは綾見だよっ。どうして読めたんだ? 何が書いてあった?」

 興奮しながら僕は食いつく。訊きたいことだらけだ。

 だが、僕の期待とは裏腹に綾見は小さく首を振った。

「どうして読めたのか、私にも分からない。それに、読めたには読めたけど、内容も意味もよく分からなかった。二見くんも聞いていたから分かるでしょ?」

 綾見に同意を求められ、僕は情けないのか悔しいのか判断が付かない感情を表に出さないようにしながらぽつりと呟いた。

「綾見の声は僕の耳じゃあ聞こえないんだ」

「うそ? 結構大声で読み上げたつもりだったんだけど」

「僕にもどうして聞こえないのか分からない。でも、僕から見れば綾見は口パクしているようにしか映らなかった」

なんで? と綾見が首を傾げたところで、

「それは、俺たちの世界には無いことばだからだよ」匠さんが割り込んだ。

「僕たちの世界に無い音、ですか?」

「そうだ、俺たちの世界にない音だから、俺たちの耳では捉えることはできない。犬笛みたいなもんだ。……まぁ、俺だって受け売りの知識だけどな。広大同様、俺にも一切聞こえなかった」

「だけど、それだったらどうして私は読めたし、自分の声が聞こえたんですか?」

「さっき広大にも言ったが、向き不向きの問題だ。綾見には読む才能があった。そもそも境界線を視る力を持っているんだ。彼方の世界の言葉を読めたって不思議じゃないのさ」

「そういうものなんでしょうか……」

「難しく考える必要なんてないわ。読めてラッキーくらいに考えればいいの。私たちは読める。匠にも別の才能がある。そして二見くんにもきっとある。持ちつ持たれつ。それでいいの」

 マリアさんが僕らの背中をポンと叩いて総括した。僕にある『何か』が分からないのはモヤモヤするか、『ある』と言ってくれているのだ、ここで焦ってもきっとしょうがない。

「話を戻しちゃうけど」

僕は綾見に再び訊く。

「それで、本にはどんなことが書いてあったんだ? 意味が分からなくても読めたわけだし文脈とかで判断できたんじゃない?」

「えっと……書いてある意味は私にも意味不明だったんだけど、そうだなぁ……私の印象からすると料理の本みたいだった」

 綾見は「う~ん」と唸りながら感想を捻り出した。

「料理の本?」

「いくつかの材料と分量。弱火でコトコト、焦げ目が付いたら裏返す。って感じなことが書いてあったんだと思う」

「なんだそりゃ」

「もちろん材料は玉葱、じゃがいも、人参の類じゃないはずだよ? 読めたけど知らない言葉だったから……でも、どこかの世界ではそうやって虹を作っているのかも」

「……あり得る、のかな? こんな場所にいる以上、僕らの常識は一切通用しないみたいだし」

「うん。――でもさ、自分たちで虹を造れる世界がどこかにあるって素敵だよね」

 綾見は遠い目をしながらうっとりとした表情だ。僕も綾見の想像する世界を想像してみた。……うん、素敵に一票だ。

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