「なんか、物が二重に見える……」

 目を擦りながら、妻がそう呟いた朝のことは、今でもよく覚えている。

「今日は休んだ方がいいよ」

 出社の支度をすませ、ダイニングで様子をうかがっていた妻は、ちらりと時計を見ると、静かに立ち上がった。

「だいぶマシになってきたみたいだから、やっぱり行くね。……悪いけど、コウちゃんの保育所、お願い」

 笑顔を見せて出かけていった妻だったが、昼過ぎに仕事場で倒れて、そのまま意識不明になり、三日もしないうちに帰らぬ人となった。

 脳の腫瘍が原因だったと、医者から説明を受けた。その腫瘍は随分前から妻の中に小さくあって、僕らの知らないうちに成長し続け、ついには妻の命を奪ってしまったらしい。

 ……そうですかと、何とか答えたものの、人の身体の深部で起こっている密やかな変化に、どう気づけばいいのか? ……いや、もしかしてと、僕はゆっくりと顔を上げる。

 妻がジェットコースターに乗れなくなったのは、その腫瘍のせいだったかもしれない。……もしそうなら、あのときもっと検査を入念にして、何らかの対処できていたら……。

 今更……。

 首を左右に動かし、その考えを振り払う。

 何がどうであれ、妻はもう戻っては来ない。それは確かなことだから。


「コウキ、朝だ。起きて……」

 息子と二人きりの生活が始まった。

 仕事をこなし、家事をしながら、コウキの面倒をみる。目が回るほどの忙しさだった。

 コウキにも負担を強いたが、彼は素直にそれを受け入れた。そのうえ僕に気をつかってなのか、妻の話を持ち出すことはなかった。

「おやすみ……コウキ」

 心の底におりのようなものが溜まっていく。そんな感覚が胸の奥にひっそりとあった。

 最初、取るに足らない感情の成れの果てのように感じられたけれど、僕らが気づかぬうちにそれは、心の深い部分を少しずつ浸食していたようだった。

「学校に行きたくない」

 ちょうど妻が死んで一年が経った頃、コウキの様子がおかしくなった。

 ベッドの上、膝を抱えて座り込み、目を伏せている。今年、小学校に上がったばかりだった。何か理由があるのか問いただしてみるが、すぐに顔を埋めて泣き出してしまう。

「わからない」

 一言だけやっと話してくれた。あらがえない何かに翻弄されている。丸められた小さな背中から、それがひしひしと伝わってきた。

 妻の死をいたみ、喪に服す時間を、僕らはもっともうけるべきだったかもしれない。

 一応学校と相談してみたが、いじめのようなものはないと言う。コウキのことが心配で仕事も手につかない状態だったが、そうそう会社を休むわけにもない。自分一人ではどうにもできないところに来ている。僕はそう感じ始めていた。

 わらをも掴む思いで、近くに住んでいた義理の姉を頼ることにした。ときどき話し相手になってくれれば、コウキの気も紛れるかもしれない。

 妻の姉は僕より三つ歳上だった。一度結婚に失敗していて、今は一人暮らし。大手のIT企業でエンジニアとして務めていた。僕から連絡するのは初めてだったが、快く相談に乗ってくれた。

「実は今月で会社を辞めることになって……」

 コウキの状態を聞き終えると、姉は少し言いにくそうに近況を教えてくれた。住んでいるマンションは会社借り上げのため、退職後には新しい住処すみかを探さなければならないという。

「コウちゃんの面倒をみる代わりに、しばらくそこにいさせてもらうと助かるんだけど。次の仕事が決まるまで……迷惑かな……?」

 まさに渡りに船だった。僕は二つ返事で、姉を迎え入れた。

 姉は大きめのスーツケース一つでやってきて、違和感なく妻の部屋に収まった。妻が生きている頃から、ときどきここへ来て泊まっていたこともあったので、コウキも姉の存在をすぐに受け入れた。

「コウちゃん、明日はどこに行く?」

 姉は学校に行けないコウキをいろんなところへ連れ出してくれた。博物館や水族館、海辺の散歩やアスレチックまで。

「私の方こそ、気分を紛らわすのにコウちゃんにつきあってもらってるみたいで……」

 苦笑いをしながら、姉は食器を洗った。

「仕事を失うと、やっぱり気分が落ちるもんなんだよね」

 そんな二人の小休止が功を奏したのか、徐々にコウキは本来の溌剌はつらつさを取り戻していった。塞ぎ込むことも少なくなくなり、姉が来てくれてから一ヶ月も経たないうちに、週に数日ではあるが、学校に行けるようになっていった。

「よかったね」

 仕事から帰ってくると、リビングから笑い声が聞こえる。それだけでほっとした。

「コウちゃん、お箸の握り方、変だよ。ここをこうやって、こう。……やってみて」

 息子の箸のもち方にも、気を配れなかった自分に気づく。

 同時に、僕らを理解してくれる人がいる、そのありがたさをしみじみと感じた。

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