神戸新聞文芸投稿作品

三村小稲

第1話小説「わざわざのわざ」入選

「まずいとまでは言わんが、うまくもない」


 それが「ささくら」の主人が見習いの音吉に向って発した言葉だった。

 厳密に言うと「音吉の用意した賄い」への言葉で、音吉はひどく困惑して「はあ」と腑抜けた返事をしただけでその後は黙り込んでしまった。何がいけなかったのか、分からなかった。


 新開地本通りを横道に逸れたところに料理屋「ささくら」はあり、「東の浅草、西の新開地」と並び称される歓楽街の賑やかさの恩恵を預かっているのはもちろんのことだったが、それを差し引いても主人の料理の腕は界隈の旨いものを知りつくした玄人粋人の間で評判で、灘の酒蔵の旦那衆や芦屋あたりの商家の奥様方にも愛好者が多かった。


 小さな店であることから当初は主人一人で切り盛りしていたのを、大層な繁盛ぶりで多忙を極めることから、近くの口入れ屋が丁稚奉公とでも言うべきか、見習いを一人入れてはどうかと進言したのが事の始まりだった。


 音吉は高等小学校を出たばかりだったが、働きに出ることはあらかじめ決まっていた。上に四人も兄弟がいて、皆それぞれに働き口をあてがわれていたので音吉に異論はなかった。料理屋へ行くことを決めたのは細工師である父親だった。


 市電に乗って初めて目見えに行った時、ささくらの主人は料理人の白い上っぱりに紺の帆前掛という姿で音吉と口入れ屋のばあさんを迎え、お茶をいれてくれた。


「五人兄弟の末っ子なんやてなあ」


 ささくらの主人が興味深そうに言うのを、口入れ屋のばあさんが頷きながら返した。


「上の子らはやんちゃで手を焼いたようやけど、この子だけは優しいて、台所の手伝いもようしてくれてたそうやから、料理屋の仕事に向くんやないかて親御さんが言わはるねん」


「そうか。あんた、包丁使えるんか」


 不意にこちらに水を向けられ音吉は戸惑いながらも、


「母が忙しいもんですから、普段の食事の支度を手伝うぐらいで、大したことはなにも…」


 と答えた。


 答えはしたが、内心では「そこそこやれる」という気持ちがあった。というのも、もう何年も仕立てや封筒貼りの内職で忙しい母の代わりに食事の支度を調えていたので、自信とまでは言わないが基本的な炊事は一通りできるつもりだった。


「普段の食事が作れるなら上等や。ここでは掃除から雑用から何でもやってもらうことになるけど、僕も忙しいよってに、賄いは君に任せようやないか」


 ささくらの主人は柔和な笑顔で述べた。音吉は「はい」と素直に返事をし、口入れ屋のばあさんは「しっかり勤めるんやで」と音吉の背を叩いた。


 その矢先の、ささくらの主人の言葉だった。


 勤めて最初の賄いは冷蔵庫や棚にある食材をざっと見極めてあらかじめ何を作るか申告してからの支度だった。


 倹しい家庭の惣菜を作っていた経験から音吉は「賄い」であることを十分念頭に置いて、安価で、始末な献立をすぐに考えだし主人に知らせた。


 野菜くずを塩で揉んで漬物に、味噌汁とごはんと、その日仕入れた鯛のアラをアラ煮きに。主人はふんふんと頷いて「まあ、そんなところやろうな」と言うと、掃除や野菜を洗ったり皮を剥いたりという下準備がすんだら、とりかかってくれと指示し、自分は「ちょっと仕入れに行く」と出て行った。


 音吉は言われたことをこなし、件の料理を用意した。別段むずかしいことはなく、これまでにしてきたことを再現するだけだった。


 で、戻った主人から「飯にしてくれ」と言われて調えた食膳に箸をつけたところが、例の言葉だった。


 まずくないの反対は、うまいではないのか。音吉は自分の用意したものをまじまじと見つめた。味見はした。決してまずくはなかった。いや、だからこそ、主人もまずくはないと言うのだろうが。では、旨くもないとはどういう意味なのだろう。


 そんな音吉の様子を見守っていた主人は、ふっと鼻先で笑った。


「怒ってるんと違うで。これなあ、アラは霜降りにしたか?」


「え?」


「洗うてはいるやろうから勿論これだって食べられる。まずくはない。でも、丁寧にしよう思たら霜降りをして臭みが出んようにするもんなんや。ほんのちょっとの手間で料理はずいぶん違うんやで」


「……」


「それになあ、このアラ煮きは熱うして出してくれたんは分かるけども、それに比べて味噌汁がぬるいようやないか。アラは味濃いお菜やから冷めても美味しく食べられる。けど、味噌汁は熱い方が旨いやろう。熱くする順番が違てるんや」


 音吉はぐうの音も出なかった。家では家族の人数が多いせいもあって、支度に追われて何の配慮もなく、無思慮無計画に食膳に皿を乗せていた。そのことに初めて気づかされた。


 主人は音吉が落ち込むのを見ると、優しく言葉を継いだ。


「あのな、食べ物には食べ方があるんやで。わざわざ不味くして食うたらあかん」


 音吉はこくりと頷いた。それからというもの、音吉はずっと考えていた。わざわざ不味く食うなということは、わざわざ旨く食う方法があるということだ。


 勤めて三月。未だ主人から「旨い」という言葉は聞かれなかった。音吉は、食べ方と言われても、賄いのようなありきたりの惣菜では主人の舌を満足させることなど到底できないのではないかと思い始めていた。


 気がつけば季節は盛夏を迎え、ささくらの繁盛ぶりも相変わらずだった。


 その日もひどい暑さで土埃のする道に水を打って、音吉はさて今日はどうしたものかと考え、この暑さでは食欲もでないなと思った時、不意に「あ、そうか」と閃いた。


 仕入れから戻った主人に音吉はあらかじめ絞って冷やしておいた手拭を差し出して言った。


「今日もえらい暑いですから、賄いはお茶漬けにしました」


 主人は黙っていた。音吉は冷蔵庫から出した冷や飯を洗い、よく水を切って、塩昆布や漬物を膳に並べてから、これも用意の濃い目に淹れてよく冷やした煎茶を運んだ。


 主人は手にした茶碗まで冷やしてあることに心づいて、にやりと笑って頷いた。


「これもわざわざ冷やしといてくれたんやな」


「……これが、わざわざっていう技ですわ」


 二人が膳を囲む間、暑さはいくぶん和らいでいた。


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