第23話 SSRの魔法使い
真っ白な服に、真っ白な肌。それから、目を疑うような大きな白い羽。
けれど頭の上の輪っかはなくて、それはいま、一人の魔法使いの両腕を拘束する手錠になっている。あの輪っかって、そういう風に使えるのか。これから生きていくのにあたってあまり必要なさそうな知見は、葵の中の像をまたひとつ新しくがらがらに崩していった。
「あれが、前に言ってた天使?」
「よく覚えてたね。そうそう、救いようのない天使サマ」
隣に立つアスターが、白い集団を眺めながら憎々しげに言った。
「悪魔は契約したひとを魔法使いにするけど、天使はそんな悪い魔法使いを取り締まるんだよ。まあようするに警察兼、月の監獄の看守ってとこ」
つまり、アスターを月に幽閉している組織そのものらしい。
それはそんな声も出てしまうかと苦笑しながら、葵は自分の手首をそっと眺めた。
真っ黒だった腕の輪は、だんだんとその色を薄くして、元の肌の色を取り戻している。ハイネックで見えないけれど、アスターの首にあった黒い輪も、葵のものと同じように消えていっているんだろう。
やっと念願を果たしたと言うのに、なんだか素直に喜べないのは、この二週間にも満たない時間で、濃い日々を送ったせいだろうかと、葵はアスターの横顔を眺めながらふと思った。
葵が、願いをアスターに託したあの後のことは、まだはっきりと記憶に残っている。
アスターの魔法陣から星のように飛び出したのは、葵の持っていたカプセルトイのフィギュアたちだった。
五匹のシマエナガを始めとした酉の魔法使いたちが、嘆く棒人間が、なんだかよくわからない生き物同士が掛け合わされた幻想生物が、次々と玩具から実体を持った生き物に変わっては、黒沢樹の棘のような攻撃の意思を持った魔法に対して応戦する。
それは不思議な光景だった。葵を選んでやってきたカプセルトイたちが、あのとき、葵を助けるために戦っていた。
その間に、アスターは葵の傍に降り立つと、杖の一振りで葵の腹に突き刺さっていた楔を光に変えてしまった。
何が起こったかわからないままの葵を抱き上げて、再びアスターは杖を振るう。そこでようやく葵は、アスターが魔法陣を描くスピードと、綺麗に描く技術がとても高いのだと知った。
どうやら魔法というものは、描く魔法陣が綺麗であればあるほど、強く確固とした力となるらしいとは、後から彼に聞いた話だ。
じりじりと残った腹の痛みに耐えながら、葵は慌ててリカを見た。リカの前には、黒沢樹からリカを守るように、とんがり帽子の魔法使いが立っていた。人ほどに大きなそれは、けれど確かに鳥の形をしていて、防止の先にはフランスパンが刺さっていたのを覚えている。
そうして。欲張った願いは全て、SSRを自称する魔法使いによって果たされたのだ。
もう一度、天使たちの集団に視線を向ける。白い服の天使たちに囲まれるように、一人の魔法使いが立っている。
黒沢樹。葵の、バイト先の先輩。そして、きっと好きだったひと。
目をつむって立ち尽くす彼は、一度も目を開かなかった。そしてそのまま、天使と一緒に、景色の中にかき消えていった。
リカもまた、天使によって回収されていった。なんでも、魔法による精神汚染が強いらしく、専用の病院へと連れていかれるらしかった。それを聞いて、葵は、生気の抜けたリカの顔を思い出した。葵を神社へ連れていったリカは、きっと魔法をかけられていたのだろう。はやく元気になってくれればいいと思う。身体も、心も。
「……まあ、記憶の方は天使がなんとかしてくれると思うよ。そういうのも専門だから、あいつら」
「……そうなんだ」
「おそらく、君のバイト先のひとたちも、なんらかの記憶操作がされると思うから、アオイ、ボロ出さないようにね」
恐らく黒沢樹という人間は、バイトを止めたことになるだろうねとアスターは言った。リカが黒沢と付き合っていた事実も、無かったことになるのかもしれない。
リカは、今回器にはならなかった。けれど、一部の記憶を消されてしまったリカは、果たして本当にリカと言えるんだろうか。
どうしようもないことを考えて、ちょっとふさぎ込んだ葵は、ふいに気付いて再び顔を上げた。
「……私は消さなくて、大丈夫なんだ?」
「君はあの子とは違って、今回、願いを叶えてもらった側だから」
そこでやっと、アスターの深緑色の目が葵を見た。
「叶えてもらった、っていう事実が残らなきゃ、僕の減刑の証拠にならないでしょうが」
「それも、そうか……うん? そうなの?」
「そーなの」
それから、アスターは少しだけかがんで、目線を葵と同じ高さに合わせた。まっすぐにその瞳が、葵を見つめてくる。
まるで瞳に焼き付けるみたいに、葵の姿が、アスターの目の中に映り込んだ。
「……だから、ちゃんと僕のこと、覚えておいてよ」
「……忘れないよ」
言われなくても、忘れられるわけがない。初対面のあのときから、アスターの姿は、葵の中に焼き付いているのだ。
夏に舞う、桜。全ての景色が鮮やかに見えて、夢みたいだって思ったあの日。
記憶を消されないとわかって、安心したことは、後輩の手前、きっと口に出すことは葵には出来ないのだろうけれど。
「……忘れないからさ。アスター、刑期が終わったら、会いに来てよ」
「……は? なんで」
本気で訳が分からないといった顔をするアスターに、葵は言葉を選びながら口を開いた。
「……アスターのこと、知りたいなって思った」
「…………」
「もっと、知りたいなって。だから、その」
突発的な言葉じゃない。告白大作戦をしているときから、思っていたことだ。
聞きたいと思って。
知りたいと思って。
わるい魔法使いだなんて言いながら、結局、最後の最後まで葵に優しかった、この、自己肯定感がとても強い、魔法使いのことを、彼自身の口から、話してもらえるだけ、全部。
黒沢に淡い心を寄せていたときにすら、黒沢相手に思わなかった、アスターにだけの、葵の気持ちだ。
しばらく神妙な顔で黙りこくっていたアスターが、やがて呆れたように言った。
「……君さ。僕が異世界人だったらどうするの」
「……いや、アスターなら世界を渡ってこれるかなって……」
「どういう形の信頼なの」
「だって、アスターはSSRの魔法使いなんでしょ? そのくらい、余裕の顔で出来そうだなって」
「そ、れは。……まあ、この僕なら、出来るだろうけど」
葵は首を傾げた。なんだか急に歯切れが悪くなった気がする。というか、いつもの自信はどこに置いてきたんだろうか。
どこか気まずそうに視線を逸らしたアスターを見つめ続けていれば、アスターが観念したかのようにため息をついた。
「まあ、でも。残念ながら、僕は異世界人じゃないんだけどね」
「……え」
「立派に日本人だね」
「……え。え。だって、髪とか目とか」
「これ、魔法で染めてるんだよ。なんか、それっぽく見えるでしょ?」
「名前、とか」
「魔法使いになるときに名前取られたから、偽名」
「ええ……」
なんだか予想もしていなかった方向から衝撃の事実がぽんぽんと飛び出してきて、葵は言葉を失った。だって完全に葵は、異世界からの来訪者だと思い込んでいた。
――ああ、なるほど、だからSSRだのSRだの、ソーシャルゲームに詳しいのか。ひとつ、葵の中で謎が解ける。そういえば、年齢も近そうだし。
「ほら、僕のこと知れたでしょ」
「……尚更、アスターのことを、ちゃんと知りたくなったんだけど」
「…………」
とはいえ、やはり年齢も知らないし。本名も知らない。ひとつを知ればそれだけで満足できなくて、もっともっと彼を形作るものを知りたくなる。消えていく黒い輪が、憎く思えるほどに。
なのに、アスターは顔を覆って項垂れてしまった。
「……なんか、本当に。アオイはさ。また、悪い男に引っかかりそうで心配になる」
「え。流石にもうそんなことはないと思うけど……」
流石に、黒沢のようなパターンがくることはもうないと思うのだが。
でも、一応。相変わらず、葵の中にあの憧れはいらっしゃるので。
「あ、でも念のために聞いておこう。例えばどんな?」
「………………信じられるよの一言だけで、落ちるような男とか」
自衛出来ればいいと、参考程度に尋ねてみれば、かなり長い間黙りこくったあと、ぼそぼそとアスターが何かを呟いたのがわかった。
そう、呟いたのがわかっただけで、肝心の中身が言葉としてまったく葵には聞き取れない。それでは意味が無いのだが。
「……えっと、ごめんアスター、よく聞こえなかったんだけど」
「……あー、もう。君がチョロくて心配だって言ってんの」
「ええ……」
最終的に悪口で落ち着いた。何か言い返そうとして、けれど何も言い返せずに終わる。確かに総じて顔の良い人に惹かれる傾向は否定できない。
例えば、目の前で何故か不貞腐れ始めた魔法使いとか。
「……それはともかく。アオイ。言っとくけど、僕、月を出るまで何年かかるかわかんないよ」
「いいよ。分かってて言ってるから」
これから先、生きていくなかで重なっていく出会いを、葵はどれだけ大切に出来るのだろうか。
大切に思っていても別れがくることもあるし、望んでなかった出会いが大切に変わることもある。そのどれもがきっと、運命だとか、偶然だとか、そういった名前で葵に繋がっているのだろう。
その繋がれた紐を。切れないように。切らないように。
そういう努力を、選択を、これから葵はしていきたいのだ。
「ちゃんと、全部わかってて、アスターに言うことを選んだから」
まだ、選ぶことは、とてもとても怖いけれど。
それでも、選んで生きていけと、葵の魔法使いは言ったから。
その上で欲張ってもいいと、言ってくれたのは、彼なのだから。
「……いいよ。そこまで言うなら、何年かかっても会いにきてあげる」
見上げた先で、アスターが目を細めて笑った。その向こうに、ちかちかと輝く星と、丸い月が見える。
そのどちらもが霞むくらい、まるで甘い夢でもみているみたいに、アスターの表情は柔らかくて、それでいてどこか挑戦的な、少年の顔だった。
「だって、僕はSSRの魔法使いだ。叶えられない願いが、この先ひとつだってあってたまるか」
電車の時間は、近い。同時に、手首の枷が外れるのも、もうすぐだ。
星が流れる。けれど、二人がそれに気づくことはない。
「アオイ」
アスターが、葵の手を取った。軽く、壊れ物でも触るみたいに握られた指先で同じように握り返せば、笑みを含んだ吐息がこぼれる。
「僕を引いてくれて、ありがとう」
「……アスターも。私を選んでくれて、ありがとう」
夜の色をした枷が、解ける。
そうして魔法使いは、花びらと光の粒だけを残して、月に帰った。
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