第25話 Vanilla Sky

 捜査で出払い、誰もいない室内がパソコンの明かりでぼんやり照らされ、キーボードを叩く音だけが響いている。壁にかけられた時計は、まもなく日付が変わる十二時を回ろうとしていた。

 不意に室内の電気がつき、厳しい表情をした陽大はるとと壮介が入ってきた。キーボードを叩く音が止まる。

 「パスワード解析が終わるまで待てばいいのに、何をそんなに急いでるんですか」

 陽大が尋ねる。

 「そのうちパスワードロックがかかりますよ。それとも、見られたくないものでも入ってるんですか」

 「……早く手がかりを見つけたいだけだ」

 「犯人はもうわかったんでしょう? はたの病院にも行かずに急いでやらなければいけないほどのことですか?」

 「事件の全容解明は必要だろう」

 「それが真実ならば、必要ですね。でもまた削除されると困るので、そのパソコンは俺らに預けてもらっていいですか」

 「……何のことだ」

 「秦の家に行く前、情報が少しでもあった方がいいと思ったんで、人事課によって彼の身上書を見せてもらったんです。で、不思議に思ったんですよ。本人の学歴とか健康状態とかは詳しく書いてたんですが、家族構成は両親と祖母の記載だけでした。母親の連れ子だという姉のことは書かれてなかったんです。まぁそうかもしれません。血が繋がってるわけじゃないし、亡くなっているんだから。でも不思議じゃないですか? なぜ、身上書に書かれていない姉の自殺のことまで知っているのか、もっと言えば両親が再婚だってことも一言も書かれていないのになぜ知っているのか。教えてもらえますか、相原班長」

 相原は開いていたノートパソコンを閉じた。

 「前に本人から聞いていたんだ。秦とはよく一緒に行動していたからな、どこかの現場に行く途中の車の中で聞いたんだよ」

 「そうですか」

 壮介が相原の前まで歩いていき、手に持っていた写真を差し出した。レジ前に薔薇の花束が置かれ、男が財布から現金を出しているところが写っていた。

 「これはいつの写真だ?」

 「フルールで18日に撮られた写真です。正確には映像を切り取って写真にしたものでしょう」

 「犯人ということか」

 「間違いなく犯人です」

 「しかしこれでは顔がはっきりと写っていないから証拠にはならないぞ」

 「そうなんです、これだけではわからない。でも、これが手がかりになったんです」

 「どういうことだ」

 ポケットからスマホを取り出し、陽大が検索を始める。

 「これは俺の推測ですが、おそらく秦は花屋の防犯カメラの映像をあなたに渡す前に、自分でコピーを取っておいたんでしょう。それが真面目な性格だから班長に任せっぱなしでは悪いと思ったからなのか、それとも何か疑うようなことがあったからなのかはわかりませんが、とにかく映像を取っておいた。そして、それを確認した時に犯人らしき男が薔薇の花束を買っているところを見つけた。でも、俺らが見た映像にはこの男は映っていないんです。その部分だけ削除された跡がある。俺らと一緒に映像を確認した秦はそれを不審に思ったはずです。そしてこの映像を手がかりに一人で捜査を始めた」

 「一人で捜査を?」

 「二番目の被害者が働いていたバーの売り上げデータから、彼が殺害される前日、つまり最初の事件が起きた日にクレジットカードを利用した客を探し、その客一人一人にこの写真を持って、薔薇の花束を持っていた男を見なかったか聞いて歩いていたそうです。でも、バーに来る時点で酔ってる客が多かったし、写真だと顔がはっきりとわからないから、なかなか手がかりが見つからなかった。でも今夜、その客からバーの店長に連絡が入ったんです。その客の連れの女性が思い出したと」

 「薔薇を持っていた客がいたとして、それが誰なのかはこの写真じゃ確定できないじゃないか。どうやって面通しをするんだ?」

 「いえ、その女性は思い出したんだから面通しなんか必要ないですよ」

 「どういうことだ? 似顔絵でも描けるというのか?」

 「これです」

 陽大はSNSに投稿されている動画を見せた。そこにはVanilla Skyの前で野次馬たちによって撮られた動画が複数投稿されていた。

 「その女性は、この動画を見て思い出したんだそうです。ここに映っている男の人が、赤い薔薇の花束を持っていたと」

 「秦を確認できたってことじゃないか」

 「いいえ、秦は運び出される時は毛布をかけられ、警官が囲んでいたので顔は映っていません。映っていたのは現場を指揮していた相原班長、あなたの顔ですよ」

 表情を変えずにいた相原が、わずかに頬を引きつらせた。

 「最初の現場に入った時、俺はずっと違和感を感じてたんです。それが何なのか、俺は薔薇の花とかマニキュアとか、その辺だと思ってました。でもやっとわかったんです。俺が感じてた違和感は、遺体の口です」

 「口……?」

 「被害者は口を開けたまま亡くなっていた。なぜか。口に何かを詰められていたからです。死亡推定時刻は午前3時ころ、犯人がその時間に去ったとしても、この時点で口に詰めたものを取り出したら、口はあそこまで開いている状態にはならないはずです。おそらく部屋の電気をつけないままだった犯人は、口に詰めていたものを取っていくのを忘れてしまったんでしょう。しかし発見された時には遺体は死後硬直が起きており、口に詰め物が入った状態で硬くなってしまっていた。もし伊東が取ったのなら、その後の事情聴取で見つかっていたはずだし、手足は縛られたままで口の中のものだけを取り出すのは腑に落ちない。でも俺たちが現場に行った時、遺体の口の中に入っていたものはすでに取り除かれていました。なぜ取り除かれていたのか。それが犯人の持ち物であり、DNAが付着している可能性があるものだったからではないでしょうか。例えば……汗を拭くハンカチのようなものとか」

 「そのハンカチのようなものが見つかればの話だが」

 「残念ながら、もうとっくに処分されているでしょう」 

 「確実な証拠もなしに俺を疑うのか」

 「そうなんです、確実な証拠はない。でも、いろいろなことを突き合わせていくと、それらすべてのベクトルが班長に向かうんです。最初の事件、赤いマニキュアが被害者の爪に塗られていて、部屋にはたくさんのマニキュアがあった。その中に赤い色だけなかったのを覚えていますか」

 「ああ」

 「あの時、班長はこう言ったんです。"赤いマニキュアだけがなくなっている"って。俺も思いましたよ、赤い色だけないな、って。でも元からなかったのかもしれない、それか別のところで塗ったのかもしれないし、犯人が持ってきたのかもしれない。それなのに班長は"なくなっている"って言ったんです。あの時は疑問に思わなかったけど、でもよく考えたらやっぱりおかしい。なぜ班長は"赤いマニキュアがない"ではなく、"なくなっている"と言ったのか。それは、""からじゃないんですか?」

 「……」

 「花屋の映像もバーの映像も、最初に見ることができたのは班長です。俺らはバーの店長から渡されたこの写真を最初に見た時、どこの花屋かすぐにはわからなかった。でも班長は"いつの写真か"は聞いても"どこの店か"は聞かなかった。店を知ってたからですよね。ピンクの薔薇を買いに行った時は、きっと意識的にカメラに映らないようにしてたはずだから、この写真を見た時、これが赤い薔薇の時の写真かを確かめたかった。そうでしょう?」

 相原は椅子に腰を降ろすと両手を前で組み、目を閉じた。スマホでメッセージを確認していた壮介が、陽大にそのメッセージを見せて何かを耳打ちした。陽大が小さく頷く。

 「青い薔薇を注文したのはあなたですね。秦が俺たちに疑われるように仕向けて、その秦には捜査の一環のようにうまく口実を作って連絡し、薔薇を受け取ってカフェに行くよう指示をした。そこにあなたが来て、そのまま口を封じようとしたんだ」

 相原は目を閉じたまま、答えない。

 「俺の恋人、可愛かったでしょう?」

 「恋人? ああ、あのカフェの店長か」

 恋人という言葉に反応したのか、ようやく目を開け、思い出すように遠くを見つめる。

 「あいつ、ああ見えてけっこうすごいんですよ。さっきはわざと甘えて見せてたけど、本当は全部ちゃんと覚えてました。秦が両手を挙げていたのに、あなたはためらいもせずに撃ったと」

 「……」

 「秦は一命を取り止めたそうです。まだ予断は許さないけれど、ひとまず峠は越したと」

 「……そうか」

 「あと数センチずれていたらおそらく即死だったと医者が言ってたそうです」

 「悪運が強い奴だな」

 「それを悪運と言うのなら、その悪運を拾わせたのは班長です。あなたの心の闇がどういうものなのか、なぜこんな事件を起こしたのか、残念ながら俺には想像もつかない。けど、秦を撃つ時、ためらいもせずに引き金を引いたはずのあなたは、最後の最後で一瞬だけ迷いが出た。その数センチの迷いが、秦を救ったんです」

 「……俺が、こんな事件を起こすサイコパスに見えるか?」

 「いいえ」

 「それなのに、俺が犯人だと決めつけるのか」

 壮介が前に出ると、相原の机に音を立てて両手をついた。

 「あんたがサイコパスだろうが心神喪失だろうが、そんなの知ったこっちゃない。これから俺たちは全力で検察に協力し、必ず証拠を見つけて罪を償わせてやる」

 「それは楽しみだな」

 「班長」

 拳を握りしめた壮介を手で制し、陽大が相原を睨みつける。

 「俺の恋人の親父さんは警官でした。派手な活躍はなかったかもしれないけど、俺が彼の家で見てた親父さんは、いつも汗だくになって帰ってきて、何かあればすぐ飛んでいって、実直に仕事をこなす人だった。俺はその姿を見て、いつか俺も誰かを守れる人間になりたいと思うようになった。愛する人ができて、俺は今、その人を命に代えてでも守りたいと思っている。そしてその愛する人がいつも俺の大好きな笑顔でいられるために必要なのは、彼だけじゃなく、周りの人たちみんな、この世の中のみんなが生きる権利を奪われることなく幸せに暮らすことだと思ってる。班長、あなたがもし犯人じゃないと言い張るなら、俺らが納得する答えをください。なぜ秦が撃たれなければならなかったのか、なぜバーの客はあなたが薔薇の花束を持ってた客だと言ったのか、なぜ警察が回収した映像の一部が削除されていたのか、なぜあなたはここで秦のパソコンを必死に調べようとしているのか」

 まくしたてる陽大を相原は黙って見つめていた。

 「なぜ三人もの人が殺されなければならなかったのか……その理由を教えてください」


 彼女はいつも新しい弟の自慢をしていた。警官を目指して勉強をしている、とても賢い子なのだと嬉しそうに語っていた。血が繋がっていないのに、まるで本当の家族のように話す様子が、相原には不快だった。

 −もしかして関係を持っているんじゃないのか?

 そう言うと、彼女は顔を真っ赤にして怒った。その怒り方もまた不快で、相原は思わず顔を殴った。すると、彼女はおとなしくなり、その日から少しずつ相原に怯えるようになっていった。

 −悪かった。もう殴ったりしない。だから弟のことは、もう口にしないでくれ。そうだ、俺が代わりに弟になってやろう。セックスの時は、俺が弟になって犯してやろう。

 秦が配属されてきた時、すぐに彼女の弟だとわかった。いつも写真を見せられていたからだ。

 彼は何も言わなかった。今思えば、初めから俺が自殺した姉の恋人だったということをわかっていたに違いない。むしろ、俺がいることを知って、何とかここに配属になるよう希望を出したのだろう。

 意図的に俺に近づいたのは、姉の復讐か、警官としての本能か、本音はわからない。ただ、姉の死因が自殺と片付けられたことを疑っていたのは間違いない。確かにあの時、俺は力が入って椅子を蹴飛ばしすぎた。

 あの時の彼女の目……秦に銃口を向けた時、血が繋がっていないはずなのに、秦の目は彼女とそっくりだった。陽大は間違っている。俺は迷ったんじゃない、同じ目をしていたことに、動揺しただけなのだ…。

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