第14話 Vanilla Sky

 「何かいいことでもあったのか?」

 出勤してきた陽大を壮介は探るような目でじっと見つめた。

 「な、何のことだよ」

 「それ」

 陽大はるとの足元を指さす。

 「何が」

 「ほら、見えないか? おまえの足が完全に浮いてんの」

 「は?」

 「にこにこ浮かれて、足が地についてないぞ」

 「何言ってんだよ」

 「蒼空そらくんのとこで朝飯食ってきたんだろ?」

 「……ああ」

 「しょっちゅう行ってたくせに、何で今日に限ってそんなに嬉しそうなんだ?」

 「そうか?」

 「嬉しくてしかたないって顔してるぞ」

 「考えすぎだ」

 「ああ、それか」

 「何が」

 「キスマークついてる」

 陽大は思わず唇を押さえた。その様子を見て、壮介が呆れたように笑う。

 「唇にキスマークなんかつくかよ。わかりやすすぎんだろ」

 「……さすがだな、北山刑事」

 「そんなにやけた顔してたら誰でもわかるわっ」

 「別ににやけてなんかないって」

 壮介は周りを素早く見回し、椅子に座ったまま陽大の席の隣に近寄る。

 「もしかして、朝からヤってきたとか?」

 陽大はそばにあった書類で壮介の頭を叩いた。

 「いってぇ」

 「アホか」

 「否定しないってことはそうなのか?」

 「あのな、そんな時間あるわけないだろ」

 「時間があればヤったってことか」

 もう一度壮介の頭を叩くと、陽大は車の鍵を掴んで立ち上がった。

 「どこ行くんだ」

 「現場」

 「待て、俺も行く」

 車の中で今朝の話を根掘り葉掘り聞く気だな。

 陽大は壮介に追いつかれないよう走り出す。壮介は慌ててその後を追いかけていった。


 結局、車中で今朝のことを一から説明する羽目になった陽大だが、実際にキスまでしかしていないのだから、それ以上を聞かれても答えようがなかった。

 「普通、キスまでいったら最後までいくだろ」

 「普通、出勤前なんだから自粛するだろ」

 「よく我慢できるな」

 「朝から発情してる誰かさんとは違うんだよ」

 「だってさ、俺だったら……」

 いきなりの急ブレーキに壮介は思わずダッシュボードに頭をぶつけそうになった。

 「あっぶな。前見ろ、ちゃんと」

 「着いたぞ」

 「だったら普通に止まれ」

 「壮介」

 「何だよ」

 「俺はもうダブルデートには付き合わないから、おまえが一人で何とかしろよ」

 「は?」

 「蒼空そらがやきもち妬くからさ。悪いな」

 あっけにとられている壮介の方を向き、陽大は肩をすくめるとさっさと車を降りた。

 「そ、そんなの言われなくたって一人でやれるよ。俺は距離を少しずつ縮めるその時間を大事にしたいだけで、別に言い出せないとかそんなんじゃないからな」

 後ろでわめき立てる壮介には構わず、陽大は最初の事件現場の部屋へと入っていった。

 何度も訪れ、証拠がないか探した場所だ。新しく何かが見つかるとは思えなかったが、この最初の事件が鍵だと蒼空も言っていたように、ここを訪れた時に感じた違和感は何だったのか、それをはっきりさせたかった。

 陽大は目を閉じて、あの時の現場の状況を思い出す。ベッドに横たわる被害者、縛られた手足のスカーフ、薔薇のが挿してある花瓶、赤いマニキュア……。

 最初に感じた違和感は、薔薇だ。女性なんだから飾ることもあると思っても、なぜか気にかかった。

 陽大はスマホを取り出すと、現場を撮った写真を探した。

 違う角度から何枚か撮った、赤い薔薇が一本だけ花瓶に挿してある写真をじっと見つめる。

 花瓶が置かれていた場所には、同じように花瓶が置かれていた。違うのは薔薇はもうなく、水が入っていないことだった。

 「ここにこの薔薇があったんだな」

 後ろから壮介が写真を覗き込む。陽大は半透明のガラスの花瓶を持ち上げると、回しながらじっくりと眺めた。

 「その花瓶が引っかかるのか?」

 「わからない。ただ、何か変な感じがしたんだ」

 壮介は再び写真を覗き込み、指で拡大しながら花瓶を観察する。

 「何だろうな……強いていえば、花瓶と薔薇がアンバランスな感じがする」

 「アンバランス?」

 「この薔薇が花瓶に対して長すぎたのか」

 「長い……」

 「茎が長いなら普通は切るだろ」

 陽大は何かを思いついたように、あたりを探し始めた。

 「何を探してるんだ」

 「他に花瓶があるか探してくれ」

 「他の花瓶?」

 怪訝そうな顔をしながらも、壮介はキッチンの方を調べ始めた。ひととおり二人で調べたところ、薔薇が挿してあった花瓶よりも背の高い白く細長い陶器の花瓶と、口の広い透明なガラスの花瓶が見つかった。

 「この写真の薔薇の長さなら、普通はこっちの花瓶を使うよな」

 陽大は白い陶器の花瓶を指さす。

 「まぁ、そうだな。それが二件目も薔薇が挿してあったことと関係するのか?」

 「ゴミ箱に他の花は捨ててなかったよな?」

 「ああ、なかった」

 「部屋の電気のスイッチから、指紋は出たか?」

 「バスルームとかキッチンのスイッチの指紋は、複数重なっていて特定は難しいらしい。ただ、リビングの電気のスイッチからは伊東の指紋が出ている」

 「伊東だけ?」

 「ああ。部屋の様子を見に来た時はもう日が暮れていて、暗かったから電気をつけたと供述している」

 「部屋を出る時は何て言ってたか調書を覚えてるか?」

 「電気か?」

 「ああ。部屋を出る時は消したかどうか」

 「いや……そんなことは言ってなかったはずだ。だって、あいつは被害者と寝ただけで殺していないって言ってたからな」

 「おかしいと思わないか」

 「殺したなら、電気を消していくんじゃないかって?」

 「伊東が被害者を刺した場合を考えよう。あの夜、伊東は普通にこの部屋にやってきた。体液が検出されてるから、ここで性行為をしたことは間違いない。その後、例えばどっちかが別れ話を持ち出して口論になったとしよう」

 ベッドの上にいる二人。二人ともまだ裸だろうか。いや、この時被害者はキャミソールを着たのかもしれない。別れ話をしたとしたら、どっちからだろうか。

 被害者は大腿部を切られていた。もし殺すとしたら、もっと上を狙うのでは……?

 「被害者から別れ話を切り出され、伊東がカッとなって殴った。被害者は咄嗟にキッチンに行き、ナイフを持ち出して伊東に向ける。苛立った伊東はその手を掴んでナイフを奪い、ベッドに突き飛ばす。そこで被害者が抵抗した時に腿を切りつけてしまう」

 「刺したけど、殺す気はなかった?」

 「あの傷は、刺すというより切りつけた感じだ。もし殺す気なら、腹部や胸部を狙うだろう。ただ、運悪く大動脈を傷つけてしまったことにより、思った以上の出血があった。被害者は、もしかしたら痛みと出血で気を失ったのかもしれない。伊東はそれを死んだと勘違いした。幸い、自分はまだ裸だ。すぐにシャワーで血を流し、おそらく凶器も一緒に洗って、急いで服を着る。そして部屋から逃げようとする。その時、電気をどうするか」

 「いつまでもずっと電気がついていたら怪しまれると思うかもしれない」

 「もし突発的な犯行だとしたら、おそらく恐怖もあったはずだ。人間は、できるだけ恐怖のもとになるものを除こうとする。部屋を出る時に、見たくないものは少しでも早く視界から消したいと思うに違いない。内側のドアノブには指紋はついていなかったよな」

 「ああ、伊東の指紋は外側のドアノブだけだった」

 「気が動転しながらも、服か何かでドアノブを掴んで指紋がつかないようにした。そして、電気を消す時も、スイッチを拭いただろう」

 「なるほど。つまり、もし伊東の言う通りただ不倫して帰ってきただけだったら、普通は最後に電気を消すのはその部屋の住人だから、被害者の指紋がリビングの電気のスイッチについているはず。それなのに、リビングには発見した時の伊東の指紋だけ。伊東が拭いたのでなければ…」

 「別の誰かが拭いたことになる」

 「ただ、伊東は部屋に鍵がかかっていないことを知っていた。なぜなら自分が部屋を出た時、合鍵を持っていなかったため、鍵をかけてこなかったから」

 「被害者に致命傷を負わせたのは、俺は伊東だと思っている。他の従業員に何度も言われてるのに、夜になるまでなかなか動こうとしなかった。従業員が一人、無断で欠勤しているのに自分で連絡をしようともしない。発見されるのが怖かったからだろう。急かされて仕方なく夕方を過ぎてから部屋に行った。そこで死んでいる被害者を発見する。ここまでは予想通りだ。しかし、その状況が違っていた。手足を縛ったのは伊東か? いや、死んだと思ってるなら縛ったりはしないはずだ。だとしたら驚いただろう。自分が逃げた時と部屋の様子が違う。咄嗟に財布から金を抜いて、強盗に見せかけようとしたのかもしれない」

 「伊東が金を抜き取ったと?」

 「他は荒らされていないのに、なぜ財布ごと持っていかず、金だけ抜き取られていたのか。発見した時に被害者の財布を持っているわけにはいかないからだと考えた方が、筋が通ると思わないか」

 「だけど、死亡推定時刻が合わない。その時間は伊東が家にいたのはおそらく間違いない」

 「そうだ。だから、もう一人いたんだよ。この場に、伊東じゃない別の人間が」

 「そいつが、何のために」

 「わからない。ただ、被害者の死因は失血死だ。可能性としては、伊東が逃げた時にはまだ生きていたが、その後出血多量で死亡した」

 「だとしても、その傷が原因であれば伊東も殺人の被疑者となる」

 「ああ。問題は、その場にいたもう一人の人物は、被害者を助けられたかもしれないということだ。すぐに救急車を呼んでいれば助かったかもしれないのに、ただ死んでいくのを見ていた。手足を縛り、マニキュアを塗り、薔薇を飾るということをする時間はありながら、見殺しにした」

 「マニキュアは被害者が自分で塗ったのかもしれないし、薔薇も自分で飾ったのかも」

 「そうだとしたら、赤い色のマニキュアのボトルだけないのはおかしい」

 「……確かにそうだな。でも、いったい誰なんだ?」

 「たとえば、伊東の奥さんに頼まれて彼を尾行した人間とか」

 「伊東の妻は、不倫していたことは知らなかったと言っている」

 「あるいは被害者に好意を持っていて後を尾けた人間とか」

 「それらしき人物は出てこなかった。ただ、女性従業員は伊東と被害者の不倫関係を薄々わかっていたようだ」

 「たまたまそこを通りかかった人間とか」

 「偶然、そこを通りかかった人間?」

 夜遅く、たまたまアパートの前を通りかかった時、電気が消えた部屋から男が出てくるのを目撃する。男は焦っているかのように足早に逃げる。不審に思って部屋を確認しに行くと、中で女性が倒れている……。

 普通は警察や救急車を呼ぶはずだ。だが、それをせずに被害者が死んでいくのをただ見ていた。

 いや、被害者は意識を取り戻し、助けてほしいと言ったのかもしれない。だから口に何かを詰めて声が漏れないようにした。手足を縛ったのは死ぬ前か、死んだ後か。マニキュアは被害者の持ち物を使っただろう。薔薇は……部屋には他に花はなかった。そいつが自分で持っていたものなのか。

 何らかの理由で犯人は薔薇を残していこうと考えた。テーブルにあった花瓶には、別の花が飾ってあったのではないだろうか。それを見て、自分が持っていた薔薇と入れ替えたのかもしれない。だがその花瓶は、薔薇の大きさと合わなかった。最初から飾ってあったのなら、長さに合う花瓶にするはずだ。その後、最初に花瓶に入れてあった花は持ち帰った。あるいはどこか途中で捨てたのか。

 微かにではあるが、陽大の中で点と点が繋がり始めた。

 「凶器さえ発見できれば、伊東を逮捕できる」

 「あるいは、それが伊東じゃない証拠になるかもしれない」

 「ああ。次の現場に行こう」

 「次の? あのバーで働いてた子の部屋か?」

 「この部屋で被害者を刺したのはおそらく伊東だ。ただ、それを利用して連続殺人に仕立てようとした奴がいる」

 「……そうだとしたら、とんでもない悪人だな」

 「ああ……とんでもない奴だよ……」

 もしあの薔薇の本数が被害者の数だとしたら……そいつはまだ数を増やそうとしているような気がしてならない。

 陽大たちは現場を後にすると、急いで車へ乗り込んだ。

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